空を飛んで襲いかかってきた石柱が、突然力を失って地面に落ちたので、フルートたちは驚きました。身構えながら石柱の周りを取り囲みますが、いくら待っても柱はもう動き出しません。
ルルが、くんくんとまた匂いをかぎました。
「闇の匂いが消えているわ。本当に動かなくなったみたいね」
それを聞いて、一同はようやく肩の力を抜きました。
「本当に、何がどうしているってわけ!? さっぱりわからないわ!」
と銀鼠が赤い髪をかきむしります。
フルートは石柱にかがみ込むと、そっと触れてみました。やはり何事も起きません。試しに転がしてみると、丸に縦一文字を刻んだ面が出てきました。石の上にはフルートの剣の痕が残っていますが、傷跡はごく浅いものでした。それが石柱を止めたとは、ちょっと考えられません。
ところが、フルートは考え込み、後ろからのぞき込んでいた姉弟に尋ねました。
「グル教の人たちは省略した模様でグル神を表しているんだ、って昨日話していましたよね? この縦の線はどういう意味なんですか?」
「それ? その縦模様は外向きのグルの顔を表しているのよ」
と銀鼠が言うと、灰鼠も言いました。
「裏側には横の線があって、それは内向きのグルの顔を意味しているんだ。まったく、手抜きもいいところさ」
姉弟は不愉快そうに顔をしかめていましたが、フルートはさらに熱心に石柱を調べていきました。ひっくり返してみると、確かにそこには丸に横一文字の線が刻まれています。グル神の二つの顔を意味する模様だったのです。
そうか……とフルートはつぶやき、立ち上がって仲間たちへ話し出しました。
「推測だけど、おかしくなったのはグル神そのものなんだと思う。だから、グルをかたどった門口のお守りや、グルの模様を刻んだ国境の目印が怪物になって、襲ってきたんだ」
えぇ!? と一同は思わず声をあげました。
「ワン、目印が魔法で怪物にされたんじゃなくて、グルそのものがおかしくなってるって言うんですか!?」
「じゃあ、この目印が急に襲ってこなくなったのは!?」
「ここに傷がついたからさ」
とフルートはもう一度石柱をひっくり返して、縦一文字が刻まれた面を上にしました。フルートの剣の痕は、縦一文字の上に交差するように残っていました。
「片面に縦の線、裏面に横の線があってグル神になるから、線に傷がついたとたん、グル神じゃなくなってしまったんだよ」
そんなことって……と一同は唖然としました。
銀鼠と灰鼠はまたわめき始めます。
「な――なんでそんなことができるっていうのよ!? サータマン中のグルがおかしくなったとでも言うつもり!? どのくらいのグルがあると思ってるのよ!?」
「しかも、君はグルと元祖グルを一緒くたにしているじゃないか! とんでもなく不敬な奴だ!」
「じゃあ、この状況を説明できることが他にありますか?」
とフルートは聞き返しました。冷静な声に、そ、それは……と姉弟は鼻白みます。
一方、ゼンもいつの間にか腕組みして考え込んでいました。やがて片手で自分の首筋の後ろを撫でます。
ポポロがそれに気づいて尋ねました。
「どうかしたの、ゼン……?」
「ああ、どうもちくちくしやがる――。おい、フルート、全部のグルがおかしくなったんなら、この辺の国境の目印のグルも全部怪物になってるってことなのか?」
それを聞いて、ポチとルルはぴんと耳を立てました。背中の毛を逆立てて言います。
「ワン、国境の目印はミコン山脈の麓にずぅっと立ってるんですよ!
?」
「それがみんな怪物になったら、とんでもない騒ぎじゃない!」
そのとき、森の奥から本当に大きな音が聞こえてきました。つんざくような甲高い鳴き声です。山に近い森の中から、いっせいにたくさんの鳥が飛び立ち、頭上を通り過ぎていきます。
ポポロはそちらへ目を向けて顔色を変えました。
「怪物よ! あれは鳥だわ――!」
本当に、群れの後を追うように、巨大な鳥がやって来ました。形はツバメによく似ていますが、桁違いの大きさです。うなりを上げて急降下すると、森の上で身をひるがえして上空へ戻っていきます。
「鷲(わし)が食われたぞ……」
と目の良いゼンが言いました。鳥類の王者が羽虫のようにあっけなく呑み込まれたので、さすがのゼンも青ざめています。
「木陰へ! 見つからないようにするんだ!」
とフルートは言って、ポポロの手を引いて走り出しました。大きく枝を広げる木の下に駆け込むと、背後に彼女をかばいます。
その足元から犬たちが言いました。
「ワン、金の石もポポロの魔法も使わないとしたら、どうやって怪物を倒すつもりですか!?」
「私たちが風の犬になって倒す!?」
フルートは首を振りました。
「セイロスが近くにいるかもしれないんだ。上空で戦えば気づかれるし、そうなれば、結界の中のシュイーゴの人たちまで見つかるかもしれない」
「じゃあ、また燃やすか? 森を火事にしねえようにするのが大変だぞ」
とゼンは難しい顔をしました。鳥を火で撃ち落とすことはあまり難しくはありませんが、燃えながら森に落ちてくれば、火が森に燃え移る可能性があったのです。
「きっとあの鳥も怪物になったグルに取り憑かれているんだ。それを引き離せば元に戻るんだろうけれど――」
とフルートは言って唇をかみました。巨大なツバメは頭上を飛び回っていて、問題のグルがどこにあるのか見極めることはできません。
そのとき、別の木陰に避難していた姉弟が、声をあげて森の奥を指さしました。
「熊よ!」
「また怪物だ! 大きいぞ!」
べきべきべき、と木がへし折れていく音がその声に重なりました。山に近い森の中から、巨大な熊が立ち上がったのです。巨人のような大きさで、体の半分以上が森の上に出ています。
「あれもグルに取り憑かれたのね……」
とポポロが言いました。目印の石柱が次々に怪物に変わり、森の動物へ襲いかかって巨大にしているのです。石柱は国境に沿って無数に配置されているはずなので、本当に、どれほどの怪物が生み出されているのか見当がつきません。
「こっちに来るぞ!」
と目をこらしていたゼンがどなりました。大熊が足音を響かせて歩き出したのです。頭上を大ツバメが飛び回っているので、こちらに何かがあると気づいたのかもしれません。一同がいるほうへまっすぐ向かってきます。
「アーラーン」
と銀鼠と灰鼠は祈るように言いました。続けて元祖グルの名を唱えようとして、はっと思いとどまります。この場面でグルの名を呼ぶのが良いのか悪いのか、わからなかったのです。
大熊はいよいよ近づいてきます――。
ところが、その足音が突然消えました。木が折れる音も地響きも一瞬で聞こえなくなってしまいます。
「熊が消えたわ……」
と透視をしていたポポロが言いました。信じられない顔をしています。
一同がとまどっていると、ポチがぎょっとしたように上を見ました。
「ワン、何かが来る!」
大ツバメの襲撃か、とフルートたちは身構えました。木の根元で待ち構えていると、梢の間から何かが落ちてきて、少し離れた場所にずしんと着地します。
それは国境の目印の石柱でした。上下逆になった格好で地面に突き刺さっています。
石柱が黒い炎に包まれていなかったので、一同は用心しながら近づいていきました。ゼンが空を見上げて言います。
「ツバメが飛んでるぞ。普通の小さいツバメだ」
ポポロも遠い目で同じ鳥を見ながらうなずきました。
「たぶん、さっきの大ツバメよ。グルが離れたんだわ……」
「って、これがそのグル?」
とルルが驚いて石柱を見ました。フルートも石柱を調べましたが、表面に刻まれた縦や横の線が少しも傷ついていないので、首をひねりました。
「これは元のままだ。それなのに、どうしてツバメから離れたんだろう?」
すると、ゼンが大熊の消えた方角を示して言いました。
「あっちもだ。たった今、向こうを黒熊が走っていくのが見えたぞ。やっぱりグルが離れたんじゃねえのか?」
「どうして!? いったいどういうことなのよ!? 誰か説明しなさいよ!!」
と銀鼠がわめきました。わけのわからない出来事の連続に、すっかり混乱して腹を立てています。
フルートは石柱を見ながら考え続けました。状況に合致する答えを懸命に探しますが、なかなか思い当たりません。
すると、一同が飛び上がりました。石柱がいきなり動き出して地面から抜け出し、空中に浮かんだからです。フルートもあわてて大きく飛びのき、剣を抜きました。石柱が襲ってきたらグルの模様を狙って切りつけようと身構えます。
ところが、石柱は飛び回ることもなく、その場でゆっくり回転して上下正しい向きになると、また静かに下りていきました。やがて、ずん、と根元を地面に突き立てると、それきり動かなくなってしまいます。
「……?」
フルートたちはあっけにとられました。石柱は何事もなかったように、また地面に立っています。どんなに見つめても、もう動き出すことはありません。
石柱のこちら側に、丸に横一文字の線が刻まれているのを見て、フルートは言いました。
「グルは内側の顔を見せている……。また国境の目印に戻ったんだ」
「えぇ!?」
「いったいどうしてよ!?」
とポチとルルは思わず声をあげました。とたんに、しっ、とフルートにたしなめられます。
「敵がすぐ近くにいるかもしれない。話は結界の中に戻ってからにしよう――。それと、銀鼠さん、灰鼠さん」
「なによ?」
と姉のほうが返事をしました。まだかなり腹を立てている声ですが、フルートはかまわず大ウサギが燃えていった痕を示しました。
「あそこを元に戻せますか? 森の中に焼けた痕があると、敵に怪しまれるかもしれないんです」
銀鼠と灰鼠は唖然としました。こんな状況に取り乱すどころか、ますます冷静になっていくフルートに、驚くのを通り越してあきれてしまったのです。
「なんなんだよ、君たちは本当に……」
と弟はぶつぶつ言いながら杖を振りました。たちまち焼け跡が消えて草におおわれた地面に戻り、周囲の木々も元通りになります。
「お、さすがに魔法軍団の魔法使いだな」
とゼンが言いましたが、姉弟はそれに返事をする気にもなれないようでした。フルートたちが結界の入り口に呼びかけて戻っていくと、黙ってそれについていきます。
すると、それから間もなく、森の奥からふわふわと白い人物が飛んできました。長い前髪で片目を隠し、白い上着を着込んだ青年の幽霊――ランジュールです。
ランジュールは森の中を見回しながら、ひとりごとを言っていました。
「まぁったく、国境の守備石まで動いちゃったのは、ボクのせいじゃないのにぃ。セイロスくんったら、ちゃんと元に戻ったか確かめてこい、なんて言うんだからさぁ。ボクは魔獣使いで、偵察なんかじゃないって、もう百回も言ってるのに、セイロスくんはぜぇんぜん理解しないんだからなぁ。ほんとに、二千歳のおじいちゃんは理解力が悪くて困るよねぇ。お年寄りの面倒を見るのは大変だ、ってよく聞くけど、実感で納得しちゃうなぁ、うん」
本人が聞いていないことをいいことに、ランジュールは好き放題セイロスの悪口を言っていました。やがて先ほど地面に戻った石柱を見つけると、溜息をつきます。
「ほぉら、ここも元通りぃ。まぁ、たぶん位置は変わってるんだろぉけど、また国境になってるんだもん、少しぐらい前と場所が変わったって、別にかまわないよねぇ――。あれ、でも、あっちには倒れたままの守備石があるよ。どぉしたのかなぁ?」
ランジュールが気づいたのは、ウサギに取り憑いていた石柱でした。横倒しの石柱に舞い降りると、フルートがつけた刀傷に気がついて、ああ、とうなずきます。
「これ、傷ついちゃってるよぉ。だから守備石に戻らなかったのかぁ。でも、どぉしたのかなぁ? そばにも一つ守備石があるから、どっちも怪物になって、喧嘩でもしたのかなぁ?」
ランジュールは自分の膝に頬杖をついて、しばらく石柱を眺めていました。一つだけの目が鋭く石柱の傷を見つめます。
が、そのうち彼は急に伸びをして大きなあくびをすると、ふわりとまた空に舞い上がりました。
「ま、いいっかぁ。守備石はたくさんあるんだから、これ一個くらい傷ついて役に立たなくなったって、どぉってことはないよねぇ? でもって、ボクももうくたびれたから、この辺で切り上げようっと。セイロスおじいちゃんには、ボクは偵察でも見張りでもないんだ、ってもぉいっぺん、よぉく話して聞かせなきゃ」
ランジュールはひとりでしゃべりながら森の上に出ると、そのまま見えなくなっていきました。セイロスたちの元へ戻っていったのです。フルートたちが怪物と戦った痕には、とうとう最後まで気がつきませんでした。
今度こそ本当に静かになった森の中に、やがて少しずつ鳥の声が戻り始めました――。