フルートは結界の見えない壁をくぐり抜けて、隠れ里の外へ出ました。ゼン、ポポロ、ポチとルル、元祖グル教の姉弟がその後に続きます。
あれだけの騒ぎがあった後なのに、森の中は静かでした。午前中の日差しが木立の間から射してくるので、木々が影にくっきりと縁取られて、奥行きを感じさせる景色になっています。鳥の声もほとんどしないので、空の上を吹く風の音が遠くから聞こえてきます。
「静かね」
とルルが言うと、ゼンは眉をひそめました。
「静かすぎるぜ。鳥も獣も息を潜めて隠れてるんだ。森で何か起きてるぞ」
「何かって、何よ?」
と姉の銀鼠が言いましたが、ゼンは答えませんでした。油断のない様子で周囲を見回し続けます。
フルートとポチも注意しながら森を歩き出しました。ポポロは遠いまなざしになって周囲を眺めます。
銀鼠は弟に尋ねました。
「あんた、何か感じる?」
「いや。軍隊が近くにいたらアーラーンが反応するはずだけど、何も知らせないからな。魔法使いが潜んでいるんじゃないのか?」
「あのセイロスじゃなければいいけれどね。あたしとあんただけじゃ、とても対抗できないんだから、出くわしたらさっさと逃げるしかないわよ。絨毯は?」
「ちゃんと持ってきてるよ」
と弟が小脇に抱えた空飛ぶ絨毯を姉に見せます。
すると、いきなりルルが背中の毛を逆立てました。ウゥゥ、とうなって言います。
「闇の匂いよ! あっちから近づいてくるわ!」
ルルがなだらかな斜面の上のほうを示したので、仲間たちもいっせいに身構えました。フルートは剣に手をかけ、ゼンは弓矢を構え、ポチは低く伏せて風の犬に変身しようとします。
「あいつなの!?」
と銀鼠が言いました。灰鼠は早くも絨毯を広げ始めています。
けれども、ポポロは遠いまなざしで首を振りました。
「ううん、人じゃないわ。耳が長い動物……ウサギ? え、でも……」
ポポロがとまどったので、フルートたちはいっそう緊張しました。何がやってくるのかと、斜面の上を見つめます。
すると、森の奥から枝の折れるような音が聞こえてきました。同時に地響きも伝わってきます。ざぁっと木の葉を鳴らして風向きが変わると、とたんにポチも言いました。
「ワン、この匂いはウサギだ! だけど――大きい!!」
とたんに、森の木立の向こうから何かが飛び出して来ました。巨大な影が木をへし折りながら宙に躍り、ずしん、と地響きを立ててまた地面に落ちてきます。それは長い耳に大きな後足の、一匹の灰色ウサギでした。まるで象のように巨大な体をしています。
「闇の怪物よ! 気をつけて!」
とルルが叫びながら変身しました。茶色の体がふくれあがり、白いユラサイの竜のような風の犬になります。
「ワン、ぼくも!」
とポチも続いて変身しました。犬の時にはルルより小さなポチですが、風の犬になると、ルルよりひと回り大きな姿になります。そのままルルと一緒に怪物へ飛んでいって、周囲を飛び回ります。
「ワン、見れば見るほど普通のウサギだな」
とポチが言ったので、ルルはまたうなりました。
「こんな巨大なウサギが普通のはずないでしょう!? 闇の怪物なのよ!」
「ワン、それはわかってるよ。だけど、普通ならもっと怪物らしい姿になるのに、ウサギのままなのが不思議だと思ったんだ」
犬たちが話し合っていると、ウサギが跳びはねて襲いかかってきました。二匹が素早く身をかわすと、森の木々をへし折りながら落ちてきて、ずしん、とまた地響きを立てます。下敷きになればひとたまりもなく潰されてしまう重量です。
ゼンがフルートに話していました。
「あいつの注意は俺が引いてやる。その間に攻撃しろ」
よし、とフルートはうなずきました。その手は炎の剣を握っていますが、銀鼠が話を聞きつけて言いました。
「あんな巨大な怪物にどうやって立ち向かうつもりよ!? 無茶しないであたしたちに任せなさい!」
「アーラーンの火ですぐに焼き尽くしてやる!」
と灰鼠もナナカマドの杖を掲げます。
とたんにウサギは姉弟に背中を向けました。前脚で地面をかくと、後足の間から大量の土を飛ばしてきます。うわっ、と姉弟は声をあげました。土が猛烈な勢いで降りかかってくるので、あわてて絨毯に飛び乗ってその場を離れます。
「ったく。口ほどにもねえな」
とゼンは舌打ちすると、空へ合図を送りました。舞い降りてきたルルに飛び乗って言います。
「奴の頭へ飛べ。できるだけ正面からだぞ」
「わかったわ」
とルルが空へ急上昇します。
一方、フルートはポチを呼んでいました。やはり背中に飛び乗ると、こう言います。
「飛ばしてくる土に気をつけて、ウサギの後ろに回るんだ」
「ワン、わかりました」
とポチは大回りをしてウサギの背中へ近づきます。
ウサギは正面から迫ってくるゼンに気がつきました。鋭い前歯をむき出して威嚇すると、すぐに口を開けました。キィィィ……と鋭い鳴き声が響きます。
すると、ゼンの周囲で森の木が次々に爆発し始めました。一瞬で幹が破裂して飛び散り、折れた木が倒れてきます。
「うぉっ!?」
木が倒れかかってきたので、ゼンとルルは驚きました。一人地上から戦いを見守っていたポポロが叫びます。
「共振――鳴き声で木を破裂させているのよ! 気をつけて!」
「鳴き声でだと……? 前にも……こんな攻撃してきた奴が……いなかったか……?」
ルルが倒れてくる木を右に左に避けるので、それに振り回されながらゼンが言いました。
「いたわね。キメラよ。ランジュールが連れていたわ」
とルルが答えたので、ゼンは顔をしかめました。
「キメラの山羊か。やべえな。あいつが鳴いたら、何でもかんでも破裂したぞ」
「そうね。私たち風の犬も――」
ルルが言いかけたとき、ウサギがまたキィィィ……と甲高く鳴きました。ルルはあわてて身をかわしましたが、間に合いませんでした。風の体が激しく震えて、ばっと四散します。
「ルル! ゼン!」
とポポロはまた叫びました。ルルはウサギの鳴き声に体をほとんど吹き飛ばされて、元の犬の姿に戻っていました。空中から地上へ、ゼンと一緒に墜落していきます。
ポポロはとっさに右手を挙げました。魔法で二人を受け止めようとします。
ところが、すぐ耳元でフルートの声がしました。
「待て、ポポロ! 魔法は使うな!」
ポポロははっと振り向きましたが、そこには誰もいませんでした。フルートはポチと一緒に空にいて、そこからポポロを見つめています。ポポロの魔法使いの耳へ呼びかけてきたのです。
その間もゼンとルルは墜落していきました。ルルはもう一度風の犬になろうとしますが、全身がしびれて変身することができません。
「こんちくしょう」
とゼンはうなりました。こんな時いつも花で受け止めてくれるメールは隠れ里の中です。
すると、ひゅぅっと音がして、ゼンとポチは何かの上に落ちました。何度か揺れるように弾んで、ようやく落ち着きます。
彼らを受け止めたのは分厚い絨毯でした。前に座っていた銀鼠が文句を言います。
「もう、見た目より重いのね! 落ちるかと思ったわ!」
「これは二人用だから、そもそも定員オーバーなんだよ」
と後ろに乗っていた灰鼠も言います。けれども、文句を言いながらも、彼らはゼンとルルを助けてくれたのです。
ゼンは空飛ぶ絨毯の上に跳ね起きてどなりました。
「このままウサギの頭に接近だ! 急げ!」
「えぇ!? 鳴き声の攻撃を食らうじゃない!!」
と姉は言いましたが、ゼンに飛びかかられそうになって身を引きました。
「なによ、乱暴な子ね! わかったわよ。行きゃいいんでしょ」
「危険だよ、姉さん!」
と弟が驚いて止めますが、絨毯は大きく弧を描いてウサギの正面に飛びました。ウサギに急接近していきます。
「よぉし、俺がいいと言うまでこのままで飛べよ」
ゼンはエルフの弓に白い矢をつがえて引き絞りました。ウサギの頭に狙いをつけていきます。
「鳴き声攻撃が来るぞ!」
と弟が叫びますが、姉は絨毯の向きを変えません。
ウサギがまた口を開けます――。
そのとたん、ゼンは矢を放ってどなりました。
「かわせ!」
ぐん、と絨毯は落ちるように急降下しました。キィィィ、とウサギが鋭く鳴きますが、それは彼らの頭上を通り過ぎて行きました。はるか後方の木が破裂して、他の木の上へ倒れていきます。
弓弦を離れた矢はウサギに向かって飛んでいきました。気づいたウサギが反射的に頭をそらしますが、矢は後を追って向きを変え、ウサギの左目に深々と突き刺さります。
ピィィッ!!!
ウサギは鳥のような声をあげてはね上がり、地面に転がりました。四肢を激しく動かしもがいて、目に突き刺さった矢を抜こうとします。
そこへ上空からフルートとポチが急降下してきました。ウサギの真上でフルートがポチの背を蹴って飛び降ります。その両手には黒い魔剣が握られていました。ウサギの大きな背中に突き刺さり、次の瞬間には巨大な炎を吹き上げます。
ピィィィ!!
ゴォォォォ……
ウサギの悲鳴と炎の音が響き渡る中、フルートの姿は燃えさかる火に呑まれて見えなくなってしまいました。