燃えさかる麦畑を魔法で抜けたチャストと水運搬部隊は、東へ進み続けていました。
街道沿いの水路は相変わらず干上がっていて、水がまったくありません。行く手ではセイロスたちが水不足に悩まされているはずでしたが、チャストたちは思うようには進めずにいました。彼らが守る荷馬車には水の樽が満載されているので、馬の足取りが重かったのです。
しかも、彼らは火攻めをロムド兵のしわざだと思い込んでいました。今も敵がどこかで待ち構えているかもしれない、と考え、行く手をさえぎる丘が現れるたびに斥候(せっこう)を出して安全を確認するので、進み方はますます遅くなります。
チャストは先頭から振り向いて、思わず舌打ちしそうになりました。彼の後ろには騎兵が百騎と荷馬車が五十台、魔法使いがひとり従っていますが、さらに後ろの彼方では、大きな煙が立ち上り続けていたのです。
「畑はまだ燃えているようだな。この分では、あの一帯の麦は全滅か」
とチャストはいまいましくつぶやきました。彼はこの西部をセイロスの最初の王国にするつもりなのに、そこの大事な食料が失われているのです。実際にはテイーズの街が燃える煙も一緒に見えていたのですが、彼にはそれはわかりませんでした。引き返した部隊が燃える畑と街にはさまれて荒野へ迷い込んでしまったことも、テイーズをめざしていた歩兵部隊が全員捕虜になってしまったことも、今はまだ知ることができません。
「とにかくセイロスへ水を届けなくては」
とチャストはまた言いました。その場にセイロスがいないときには、名前に「様」をつけない軍師です。
石畳に重い車輪の音を響かせながら、運搬部隊は進み続けました。
夏の強烈な日差しが頭上から照りつけ、彼らの足元に濃い影を落とします。荒野の向こうから時折風が吹いてきますが、それは乾ききった熱風なので、涼しさをほとんど感じさせません。チャストがなかなか休憩を許さなかったので、ここでも一行は暑さにあえぎながら進軍することになりました。真夏の荒野は本当に厳しいところだったのです。
いつの間にか後方の煙は丘の陰になって見えなくなりましたが、街道脇の空堀はどこまでも続いていました。水をほしがって鼻を鳴らす馬をなだめながら、兵士たちはこっそり話し合っていました。
「ロムドっていうのは本当にひどい場所だな。森もなければ川も海もない。俺たちのメイとはえらい違いだ」
「まったくだな。こんな場所を取り返そうとするあの大将の気がしれないよ。ここを取り戻したって苦労するだけだろうに」
「女王陛下のご命令だ。しかたないだろう」
「それが不思議なんだよな。いつも賢い女王陛下が、なんで、こんなどうしようもない戦いに力を貸そうというお気持ちになったのか」
苦しい環境は兵たちの心に不満を生み、不満はたちまち疑惑に変わっていきます。誰かがいっそう声を潜めてこう言いました。
「女王陛下はセイロス殿をひどくお気に入りだって噂を聞いたぞ。実の息子の皇太子より贔屓(ひいき)されていると」
「噂じゃないさ。本当のことだ。女王陛下はセイロス殿のためなら、どんな無理でも聞いてやろうとなさるからな。異常なくらいだ」
「それって、ひょっとしたらそういうことか?」
「かもな。なにしろ、あの大将はえらい男前だ」
兵たちの噂話がだんだん下世話な雰囲気を帯びてきます。そこへ部隊長から叱責が飛んだので、兵たちはいっせいに黙りましたが、その表情はずっと不満そうなままでした。頭上から太陽は容赦なく照りつけ、彼らがまとう鎧兜は素手では触れないほど熱くなっていました。暑さがいっそう兵の不快を募らせます――。
とうとう部隊長は先頭に走ってチャストに願い出ました。
「軍師殿、兵たちが暑さに倒れそうになっております。しばしの休憩をお願いいたします」
「だめだ。テイーズで水を飲んできた我々でさえそうなら、先発隊はもっと水に困窮しているだろう。急がなくてはならない」
とチャストは突っぱねましたが、メイの領主でもある部隊長は食らいつきました。
「兵士たちの間から不満が出始めております。今回の急な出兵に納得していなかった兵も少なくありません。このままでは全体の士気にも関わってきます」
チャストは舌打ちしたい気持ちをこらえて、十五分間だけ休憩することを許可しました。すぐさま荷馬車に積んだ樽がいくつか開けられて、水が兵士たちに配られます。街道脇の木陰に走って、焼けるように熱くなった兜を脱ぐ兵士もいます。
チャストは行く手を眺めながら考えていました。
「セイロスは魔法で兵や馬に水を与えているかもしれない。それはもちろんありうることだ。だが、奴だってそれは承知していたはずだ。それにも関わらず、味方にも損害の大きな水断ちを仕掛けてきたからには、それなりの勝算があったのだろう。やはり、セイロスが水に困っている可能性は高い。急がねば」
チャストの頭の中には、いつも金の石の勇者の姿がありました。ジタン山脈での戦いで、大陸随一の名軍師と言われた自分を手玉に取った少年です。今こうして兵たちの間に不満が起きてきたことも、奴が仕掛けてきた心理戦だろうか、と疑ってしまいます。
そこへ、同行している魔法使いがやって来ました。足元の街道を示しながら言います。
「私たちは先発隊に近づいてきたようです、軍師殿。目には見えないでしょうが、街道の上の蹄の痕が新しくなってきました。間もなく追いつけることでしょう」
「そうか」
チャストはやっと少し安堵しました。セイロスは二万の騎兵を従えています。そこに合流すれば、また作戦をたてることができます――。
その時です。
一台の馬車が急に、ごとごと音を立て始めました。動いてもいない馬車で音がするので周囲の兵士が振り向くと、荷台の水樽が一つ残らず揺れ出していました。樽の底や横板が荷台や隣の樽とぶつかり合って、音を出していたのです。
「なんだ!?」
「何事だ……!?」
あわてふためく兵士たちの目の前で、樽はいっそう大きく揺れ、ついにその蓋が外れて吹き飛びました。蓋の下には大蛇のように長く延びた水の柱がありました。渦を巻きながら高々と吹き上がり、次の瞬間、四方八方に飛び散って降り注ぎます。
「うわぁ!!?」
兵士たちは仰天しました。反射的に腕や盾をかざして身を守りますが、樽の中身はただの水でした。彼らはずぶ濡れになっただけで、特にダメージを受けることはありません。ただ、その現象がすべての荷馬車で起きていました。樽がごとごと回転しながら揺れ出したと思うと、蓋が吹き飛び、中から水が噴き出してあたり一面に飛び散ってしまいます。
「いかん、水が――!」
兵士たちはあわてて荷台に飛び上がりました。揺れる樽の蓋を押さえつけようとしますが、かなわず跳ね飛ばされてしまいます。中には自分の体で抑え込もうとして、蓋ごと水に吹き飛ばされた兵士もいます。
「なんということだ……!!」
チャストも頭からずぶ濡れになって歯ぎしりしました。まだ傍らにいた魔法使いに命じます。
「どこかに敵の魔法使いがいる! 早く見つけ出せ!」
魔法使いはすでに敵を探し始めていましたが、張本人をなかなか見つけられずにいました。魔法のしわざには間違いないのですが、魔法の気配がどこからも伝わってこないのです。そんな馬鹿な! どこにいる!? と血眼で周囲を見回していると、水がなくなった水路のほうから、つぶやくような声が聞こえてきました。
「んだ……まっと暴れろ……よぉし、よかんべ……」
魔法使いはたちまち空堀に飛びました。岸からおおいかぶさるように茂った草の中に、緑色の小さな人影を見つけて叫びます。
「そこか!」
魔法使いが攻撃魔法を撃ち出すと、草むらから人影が飛び上がりました。すぐそばの木にしがみつき、そこにも攻撃が飛んでくると、くるりと宙で一回転して地面に下り立ちます。それは青みがかった緑の服の小柄な男でした。飛びのいた拍子に脱げたフードの下には、大きな丸い目とくちばしのような口があります。その顔や手も、服と同じような青緑色です。
魔法使いは顔をしかめました。
「貴様、人間ではないな!? なんという怪物だ!?」
もちろん、それはロムドの魔法軍団に所属する河童でした。東の果てのヒムカシに棲む妖怪を、メイの魔法使いは知らなかったのです。
河童は何も言わずに横っ飛びに飛びのいて、敵の魔法攻撃をかわしました。次の魔法はかわしきれなかったので、水かきのついた手を上げて障壁を張ります。
ところが、河童の防御魔法はあまり強力ではありませんでした。敵の攻撃がぶつかると、青緑の光の壁は簡単に砕け散り、河童はあおりをくらって、大きく吹き飛ばされました。後ろ向きに飛び込んでしまったのは、敵の兵士が大勢集まるまっただ中です。
「うわっ! こりゃ、んまぐねぇ!」
河童は訛りのあることばでわめいて、また飛び上がりました。斬りかかってきた剣をかわし、兵士たちの腕や脚の下をかいくぐって逃げようとします。
「そいつを捕まえろ!」
「敵だ、倒せ!」
兵士たちは口々に叫んで殺到してきました。水の樽を破裂させたのが誰か、彼らも理解したのです。
河童は兵士に捕まりそうになって、馬車へ叫びました。
「水っこ、こっちゃこぉい!」
とたんに荷台の樽の蓋がまた吹き飛び、中の水が飛び出してきました。今度は上ではなく横へ吹き出して、河童に手をかけていた兵士を跳ね飛ばします。
「水の魔法使いか!」
とメイ軍の魔法使いは叫ぶと、また魔法を繰り出しました。河童が対抗して樽を破裂させます。ところが、飛び出してきた水は一瞬で凍りついてしまいました。魔法使いが使ったのは冷気の魔法だったのです。あたりがいきなり寒くなり、濡れた兵士の鎧兜や服も凍ってしまいます。
「あ、あんれ……?」
河童は地面の上に転がると、それきり立ち上がれなくなってしまいました。水しぶきを浴びた服が凍っていますが、原因はそれではありませんでした。河童の頭のてっぺんにある皿の中でも、水が凍りついています。河童は頭の皿の水がなくなると、とたんに弱ってしまうのです。
「そいつを殺せ! 敵の魔法使いだ!」
とチャストが命じたので、兵士たちはまた殺到しました。倒れた河童に剣を振り下ろすと、血しぶきが飛びます。河童は人間と同じ紅い血をしていました。
「もう一度だ!」
「とどめを刺せ!」
兵士たちがいっせいに剣を振り上げたとたん、赤い光が河童を包み、破裂するように広がりました。猛烈な風が湧き起こり、兵士と馬と馬車を一緒くたに吹き飛ばしてしまいます。
すると、倒れた河童の横に、同じくらい小柄な男が現れました。こちらは赤い長衣に身を包んで、フードの下から黒い顔と猫のような金の目をのぞかせています。
「ロ!」
男は異国のことばで叫ぶと、河童を抱きかかえました。そのまま、河童と一緒に姿を消してしまいます。あっという間の出来事でした――。
チャストも突風に吹き倒されて地面に倒れましたが、すぐに跳ね起きると周囲を見回しました。
倒れたまま起き上がれずにいる馬、地面にたたきつけられてうめいている兵士、ひっくり返った車からは水の樽が転げ出しています。樽はほとんどが壊れてしまったようでした。
軍師は強く歯ぎしりすると、部隊長と魔法使いを呼びつけました。
二人はてっきりテイーズへ水を汲みに戻ると命じられるものと思って、口々に言いました。
「付近にまだ敵がいる可能性があります! 引き返す際には、後方に充分警戒しませんと!」
「麦畑はまだ燃え続けていると思います。私の魔法でも全員を守り切るのは難しいかもしれません。迂回したほうがよろしいかと存じます」
すると、チャストはきっぱり言いました。
「いいや、我々は戻らん。今、助けに駆けつけてきた男を見たか? あれはロムドの四大魔法使いのひとりの、赤の魔法使いだ。南大陸の出身で、自然の力を利用して強力な魔法を使うと言われている――。これで、水路の水が涸れた原因もわかった。一刻も早く先へ進んで、セイロス様の部隊に合流する。部隊長は兵士と馬の状況を確認して整列させろ。魔法使いは無事だった水樽を集めて馬車に乗せるんだ。急げ!」
軍師の命令に、部隊長と魔法使いは飛んでいきました。たちまち部隊が再編成されていきます。
チャストは東をにらみながらつぶやきました。
「四大魔法使いが来ているということは、ロムドは我々の侵入を察知して、全力で迎撃にかかっているということだ。エスタでの陽動が失敗したのに違いない。急がなくては」
チャストはクアロー王に宣戦布告をさせ、そこにセイロスもいるように見せかけて、ロムドの魔法使いたちをエスタ国に集中させる計画でいました。赤の魔法使いが姿を現したことで、その陽動作戦が失敗したことを悟ったのです。
西の街道は起伏の多い荒野をどこまでも東に延びていました。その先にはセイロスの軍勢がいますが、丘にさえぎられて見つけることはできません。彼らがどんな状況になっているのかも、ここからではわからないのです。
「急がなくては」
軍師は同じことばをもう一度繰り返しました――。