アリアンはロムド城の北の守りの塔で困惑していました。
壁に掛かった鏡の表面を何度も手でぬぐって見つめ、やがて、それを外して手に抱えてのぞきこみますが、鏡はは彼女の顔を映すだけでした。長い間、飲み食いもせずに部屋に引きこもっていたので、まだやつれていますが、それでも美しさは損なわれていません。今は、どうしていいのかわからなくて、今にも泣き出しそうな表情になっています。
そこへ塔の主が戻ってきました。深緑の長衣を着た、ひげの老人です。アリアンが立ちつくしているのを見て、話しかけてきます。
「やはり透視はできんかね。困ったの」
すみません、とアリアンはうつむきました。垂れ下がった長い黒髪の陰で、ぽつりと涙が落ちる音がします。
ふぅむ、と深緑の魔法使いは顎ひげをしごきました。
「今、魔法軍団が白から呼び出しを受けての。白と赤の部隊が西部に出動することになったんじゃ。どうやら、デビルドラゴンがメイ軍を味方にして、ロムド国内に出現したようじゃ」
えっ!? とアリアンは驚いて顔を上げました。
「そんな――だって、デビルドラゴンはクアロー軍にいるはずじゃありませんか? ロムドの正当な王は自分だと言って、クアロー王と一緒に東のエスタに攻め込んだって――青さんやキースがそっちに向かったのに」
「そっちは陽動だったんじゃよ。東から攻めてくるように見せておいて、西からメイ軍と攻めてきたんじゃ。西部にはオリバン殿下と勇者たちが行っとるが、戦力があまりにも足りんので、白と赤たちが出動することになった。これで魔法軍団の四分の三は城を離れることになってしもうたわい。城の守備が大変じゃ」
アリアンは青くなってまた鏡をのぞき込みました。一昨日には透視ができるようになって、キースが隠れている結界も見つけることができたのに、その後はいくらやっても、どこも見えなくなっていたのです。今も、西部の様子を透視しようと思うのに、鏡は彼女の顔しか映しません。
深緑の魔法使いは難しい顔でひげをしごき続けました。
「まずは体力をつけたほうがいいのかもしれんの。その体では透視に耐えられんのじゃろう」
すっかり痩せ細ってしまったアリアンを心配してくれますが、彼女は頭を振りました。
「いいえ……いいえ、そんなはずはないんです……! こんなことで見えなくなるはずはないのに……」
けれども、やっぱり鏡に西部の景色は映りません。
すると、塔の外からピィィと鋭い鳴き声が聞こえてきました。深緑の魔法使いがそちらを見て目を丸くします。
「おや、グーリーがゾとヨを連れてきたわい。珍しいの」
老人が杖を振ると、塔の周囲の障壁が消えて、窓から黒い鷲が飛び込んできました。背中には二匹の小猿が乗っています。
「どうしたの、ゾ、ヨ。ここに来ちゃいけないって言ったのに――」
とアリアンが驚くと、小猿たちは鷹の背中から飛び降りて駆け寄ってきました。
「オレたち、すぐ出て行くゾ」
「オレたち、アリアンにこれをあげたかったんだヨ」
そう言って二匹が差し出したのは一個の果物でした。細長い形をしていて、黄色い皮におおわれています。
「ほう。実芭蕉(みばしょう)じゃの。庭の温室から盗ってきたのかね?」
と深緑の魔法使いが言うと、ゾとヨは怒って飛び跳ねました。
「違うぞ! これはオレたちのなんだゾ! 王様が前にご褒美にオレたちにくれたんだゾ!」
「そうだヨ! だから、オレたちはいつでも温室に食べに行っていいんだヨ! 誰かにあげてもいいんだヨ!」
「これを私に?」
とアリアンがとまどうと、塔の窓に留まったグーリーがピィと鳴き、また小猿たちが言いました。
「アリアンはキースが東に出かけてから、また食事しなくなってるゾ。いっぱい食べないと元気になれないんだゾ」
「実芭蕉はおいしいから、食べると元気になれるヨ。アリアン、これを食べて早く元気になるんだヨ」
「そうかそうか。アリアンが元気がないんで、心配して実芭蕉を持ってきたんじゃな。いい子たちじゃ」
と魔法使いの老人は目を細めました。小猿たちは小さな手に握った実芭蕉をアリアンに差し出しています。
アリアンはかがみ込むと、腕を広げて小猿たちを抱き寄せました。目を白黒させる二匹に、涙声で言います。
「ありがとう、ゾ、ヨ……どうもありがとう……」
アリアンが実芭蕉を食べる様子を、ゾとヨは嬉しそうに見守りました。うむうむ、と深緑の魔法使いもうなずきます。
「いくら闇の民だから平気だと言うたって、やはり食べるものを食べんでは、力は出んからのう。食事は誰にでも大事なことじゃ」
アリアンは食べながら、まだ涙ぐんでいます。
すると、ふと思い出したように、ヨが言いました。
「アリアン、キースは今どこにいるんだヨ? 仕事で戦争に出かけたって聞いたけど、それってどこなんだヨ?」
ばさばさばさ。グーリーがさえぎるように翼を羽ばたかせ、アリアンも顔色を変えましたが、ヨはそれに気がつきませんでした。ゾも言います。
「キースはしょっちゅう怒るけど、オレたち、キースは嫌いじゃないんだゾ。それに、キースはオレたちと違って、ひどい怪我をしたら死んじゃうんだゾ。キースが戦争で怪我してないか、オレたち心配なんだゾ」
アリアンは食べるのをやめてしまいました。青ざめたままうつむきますが、ゾとヨは小さいので、それを見上げて言い続けました。
「アリアン、鏡でちょっとキースの様子を見てほしいんだゾ」
「キースが元気だったら、オレたち部屋に帰るヨ」
アリアンは今度はうろたえました。私は今、透視することができないのよ、と言おうとしますが、二匹があまり真剣に見つめてくるので、断ることができなくなってしまいます。
とうとうアリアンは鏡を壁に掛けました。実際にやってみせれば、透視できないことを二匹にわからせることができる、と考えたのです。期待して見つめる二匹の視線を背後に感じながら、鏡と向き合います。
すると、いきなり鏡の中が明るくなって、一面の青が広がりました。白い雲が浮かんでいるので、空の上だとすぐにわかります。そこをキースが飛んでいました。黒い服と長い黒髪を風になびかせ、黒い翼を羽ばたかせています。
「見えたのかね!?」
と深緑の魔法使いが驚きましたが、アリアン自身もびっくりしていました。何故急に透視ができるようになったのかわからなくて、鏡を見つめてしまいます。
けれども、ゾとヨは単純に喜んでいました。
「良かった、キースは元気だゾ!」
「キースは空を飛んでるヨ。どこに行くところなんだヨ?」
すると、鏡の中でキースが急に口を開きました。
「青さん、もうじきそっちに到着するよ。離れたところに降りて、人間になってから、そっちに行く。ぼくを怪しんだりしないように、部下によく言っといてくれよ」
「それは心配ありませんぞ。私の魔法でキース殿を呼び寄せると言ってありますからな」
と、どこからか青の魔法使いの声が聞こえてきました。魔法で先に目的地に到着しているのです。
「クアロー軍は近くにいないだろうね? 戦場の真ん中に降りるようになったら、さすがにまずいからな」
「それもご心配なく。エスタ軍の最前線から少し下がったところです。まず作戦を練らなくてはなりませんからな」
キースと青の魔法使いのやりとりが続きます。
アリアンはとまどって深緑の魔法使いを振り向きました。
「ど……どうして急に見えるようになったんでしょう? さっきまでは、あんなに……」
魔法使いはこの頃にはいつもの表情に戻っていました。アリアンに向かって穏やかに言います。
「おまえさんはこっちを見たかったんじゃな。だから、他の場所が見えなかったんじゃ」
アリアンの顔がたちまち赤くなっていきました。両手で頬を押さえますが、それでもほてりはおさまりません。
「わ、私は……」
弁解しようとしてしきれないアリアンに、老人は優しく言い続けました。
「かまわんよ。透視の力はおまえさんのものじゃ。おまえさんが見たいところを見ればいい――。それに、この東の戦いも油断はできん。陽動とはいえ、巨大な闇の怪物がいるからの。クアロー軍がエスタを突破したら、ロムドは西と東から挟み撃ちにされてしまうわい。アリアンはこのまま東の戦線を見守るんじゃ。わしは陛下にご報告してから、わしの部下たちに指示を出してこよう」
すると、足元でゾとヨが飛び跳ねました。
「オレたちも、ここでキースを見ていてかまわないかヨ!?」
「オレたち、やっぱりキースが戦ってるところを見ていたいんだゾ!」
つぶらな瞳で一生懸命に訴えてくる二匹に、深緑の魔法使いはまた笑顔になりました。
「いいじゃろう。ただし、あそこにある棒だけは触ってはいかんぞ。あれは光の御具と言うて、この城を守っとる魔法の道具じゃ。強力な光の魔法で動いとるから、おまえさんたち闇のものが触れたら、たちまち消滅してしまうからの」
ひぇっ、とゾとヨは飛び上がり、すぐに何度もうなずきました。
「おおお、オレたち、御具には触らないゾ!」
「おおお、オレたち、アリアンの邪魔もしないヨ! いい子でここにいるヨ!」
「よし、約束じゃ。では後を頼むぞ、アリアン」
そう言って老人は塔から姿を消していきました。後にはアリアンとゾとヨと鷹のグーリーが残ります。
鏡は、アリアンが目を離したとたん、キースを映さなくなっていました。グーリーが飛んできてアリアンの肩に留まり、ピィィと鳴きます。グーリーも戦場に行ったキースを心配していたのです。
「アリアン、またキースを見せてほしいゾ!」
「キースは地上に降りたかヨ!?」
ゾとヨにせかされて、アリアンはまた鏡の向こうにキースの姿を探し始めました――。