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第22巻「二人の軍師の戦い」

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第12章 作戦

34.セシル

 ロムドの西の山々を夕日が赤く染める頃、セシルは、国境を守るリーバビオン伯爵の城にたどり着きました。オリバンたちがいるジタン山脈の麓を出発してから丸二日、管狐に乗って高原や荒れ地を駆け続けたのです。

 リーバビオン伯爵の城は、国境と街道を見下ろせる山の中腹に、要塞のようなものものしさで建っていました。もう夕刻だったので、頑丈な門もぴたりと閉じられていたのですが、セシルが来訪を伝えるとすぐに門が開いて、伯爵自らが迎えに飛び出して来ました。

「これは皇太子妃殿下! このようなへんぴな場所へ突然おいでくださるとは、何事でございましょう!?」

 厳密に言えば、セシルはまだオリバンと結婚式を挙げていないのですから、皇太子妃というわけではなかったのですが、伯爵はためらいもなく彼女をそう呼びました。彼女の正体を怪しむこともありません。伯爵は一年前にロムド城で行われたオリバンとセシルの婚約披露宴に参列して、その時に大狐に乗って戦う彼女の姿を見ていたのです。

 

 セシルは管狐から降りながら言いました。

「前触れもなく突然訪問して申し訳ない、伯爵。実は大変な事態になっているのだ――」

 と弟のハロルドがメイ国から運んできた知らせを伝えます。

 リーバビオン伯爵は真剣な顔になりました。

「デビルドラゴンに襲撃されたザカラス城を救うために、私の兵もワルラ将軍と共にザカラス国へ出撃しました。彼らが戻ってきて、たった一ヶ月しかたっていないというのに、今度はメイ城が奴の手に落ちたとは、なんたること……! 了解いたしました、セシル様。ただちに兵に命じて国境を固めましょう。メイ国から我が国へ攻め込むには、ザカラス南部を通過して西の街道に入るのが最も早いルートなのですが、そのためには関所がある国境の橋を渡らなくてはなりません。橋の対岸を守るザカラス軍と共同で、国境の橋を死守いたします」

 いかにも武人らしいリーバビオン伯爵のことばに、セシルはうなずきました。

「オリバンは幼少の時分、この城にかくまわれて敵の襲撃を受け、危なく殺されそうになったところを、あなたの父上の決死の勇気に救われたと聞いている。リーバビオン家の正義と勇気の熱い血潮は、脈々と受け継がれているのだな。ありがとう。よろしく頼む」

 思いがけずセシルから誉められた伯爵は、一瞬相好(そうごう)を崩すと、すぐに胸を張ってみせました。

「妃殿下からじきじきにそのようなおことばをいただくとは、光栄至極。西の国境はお任せください。敵が何者であっても、必ず守ってお目にかけます」

 控えていた兵士たちにただちに国境へ出動するよう命じます。

 

 ところが、セシルがまたすぐに管狐の背に飛び乗ったので、伯爵は驚いて引き留めました。

「間もなく夜がまいります、妃殿下。夜道は危険です。むさ苦しいところですが、今宵は私の城に宿泊して、明日の朝にご出立(しゅったつ)ください」

「ありがとう。だが、オリバンたちのいるジタンが気になるのだ。あそこもメイからの進軍ルートに当たるからな――。私のことならば心配いらない。夜間行軍には慣れているし、管狐は夜も目が見えるからな。では」

 セシルがそう言うが早いか、大狐はひらりと空中に跳ね上がりました。夕日に紅く染まった山道をたちまち駆け下り、街道を横切って、荒れ地を南東へ遠ざかっていきます。

 リーバビオン伯爵は感心しながらそれを見送りました。

「たいした方だ……! ジタン山脈からここまで供も従えずにやってきて、またすぐにとんぼ返りなさるとは。しかも、故郷のメイの軍勢を敵に回して戦うことになるというのに、そのことについては一言もおっしゃらなかった。皇太子殿下は武神カイタを思わせる立派な武人だが、妃殿下も戦女神の化身でいらっしゃるらしい」

 ロムド国境を守る武人の伯爵は、勇敢な未来の妃殿下が大変気に入ったようでした――。

 

 一方、管狐はセシルを乗せて走り続けていました。その付近は起伏の多い荒れ地なのですが、狐が飛び跳ねるような走り方をするので、道の悪さはあまり気になりません。岩も窪地もひらりひらりと飛び越えて進んでいきます。

「疲れていないか、管狐? 休憩も取らずに出発してしまったけれど」

 とセシルが尋ねると、ケーン、と狐は高い声で答えました。笑うような鳴き声です。

 セシルも思わず笑いました。

「そうか、あやかしだから疲れないのか。頼もしいな。では、できるだけ急いでくれ。どうも嫌な予感がしてならないんだ」

 大狐は、ちらりと振り向いてきました。どんな予感だ? と聞かれた気がして、セシルはまた言いました。

「西の国境はリーバビオン伯爵の軍勢とザカラス軍が守ってくれるが、もし敵がジタン山脈を越えてきたら、そこを守っているのはオリバンたちと女騎士団だけだ。ハロルドがロムド城に援軍を求めに向かっているが、到着までにはまだ時間がかかる。そこから援軍が駆けつけてくるまでには、さらに時間がかかるだろう――。援軍が来る前にセイロスが攻めてきたら、とても防ぎきれない」

 なるほど、と狐が納得した気持ちが、セシルに伝わってきました。ジタン山脈へ向かう足取りがいっそう速くなります。

 

 けれども、どんなに急いでも、間もなく完全に日は暮れて、荒野に夜が訪れました。月明かりなどなくても、大狐は飛ぶように走り続けますが、セシルの目には周囲が見えなくなりました。セシルは休息をとるために、狐の背中に横になりました。休めるときに休んでおくことは戦士の務めです。相変わらずオリバンたちが気がかりでしたが、不安をこらえて目をつぶります。

 すると、管狐がふと立ち止まって。犬のようにクーン、と鼻を鳴らしました。

「灯りが見えるだって?」

 とセシルは目を開けて起き上がりました。狐が示す方向へ目をこらすと、本当に、闇の中に灯りが見えました。はじめは一つだけでしたが、すぐに二つ三つと数が増え、やがて何十という灯りの集団になっていきます。

 セシルは闇の中で眉をひそめました。

「なんだあれは……? あんなところに集落があるのか?」

 ケーン、と管狐がまた鳴きました。

「山の頂上だって? 確かに、そんなところに村があるはずはないな。怪しい。調べてみよう」

 そこで、管狐はセシルを乗せたまま灯りの見えるほうへ走りました。やがて、星空をおおい隠して黒い山が現れます。国境の山脈とジタン山脈の間にに散在する、名もない山の一つでした。麓から見上げると、木立の間に、たくさんの灯りがちらちらと見えています。灯りの揺らめく様子から、どうやら松明(たいまつ)らしい、とセシルは推察しました。さっきより数が増えたような気もしますが、麓からではよくわかりません。

「近づいてみよう。戻れ、管狐」

 セシルに言われて、大狐はたちまち五匹の小狐に変わりました。周囲の木立を蹴って、セシルが腰から下げている銀の筒に飛び込んでいきます。そこが管狐たちの住処(すみか)なのです。

 

 セシルは音を立てないように注意しながら山を登っていきました。そう高い山ではなかったので、じきに頂上が近づいてきます。

 同時に、ざわざわと大勢が話す声が聞こえてきました。馬の鼻息や短いいななき、金属がふれあう堅い音も伝わってきます。

 セシルは、はっと緊張しました。

「軍隊がいる……」

 金属音は武器や防具がぶつかり合う音、興奮した話し声や馬の声は、戦を前に緊張している軍隊に独特のものでした。軍人の彼女にはなじみ深い雰囲気です。

 こんな場所にいるのはどこの軍隊か、目的は何なのか――セシルは確認のために、さらに山を登っていきました。見つからないように細心の注意を払いながら、木陰伝いに接近していきます。

 すると、不意に山頂からこんな声が聞こえてきました。

「各部隊整列しろ! 中央は空けておけ! 後からまだ出てくるからな!」

 セシルはまた、どきりとしました。

「チャスト」

 と思わずつぶやきます。

 山頂からは馬や人の足音が聞こえていました。ざわめきも続いています。それに負けないように声を張り上げているのは、間違いなく、メイ国の軍師でした。しきりに場所を空けるように言っています。木立の間から見える松明は、どんどん数が増えていました。どういう方法かわかりませんが、メイの軍勢がこの場所に姿を現しているのです――。

 

 セシルの体が震え出しました。あまりのことに目眩さえ感じますが、ここでぐずぐずしているわけにはいきませんでした。思いもよらない場所からの敵襲です。一刻も早くオリバンたちに知らせなくては……と山を下り始めます。

 ところが、焦っていたので、暗がりの中で藪(やぶ)に突っ込んでしまいました。彼女の周囲で、がさがさと灌木が音を立てます。

「誰だ!?」

 たちまち頂上から声がしました。馬や兵が駆け下りてくる音がします。セシルは藪の中を逃げるしかありませんでした。茂みをかき分け枝をかいくぐって、山の斜面を下ります。

 すると、背後で声がしました。

「いたぞ!」

「人か!?」

 追っ手にとっても暗闇は見通しがききませんが、セシルが着ている白い鎧が、頂上の松明を反射してしまったのです。その光を狙って、矢が放たれます。

 矢がすぐ右側をかすめていったので、セシルは反射的に左へ身をかわしました。木立を盾に逃げ切ろうとします。

 そこにまた矢が飛んできました。彼女の鎧がまた白く光ったのです。胸当てと左の肩当ての隙間を矢が直撃します。そこは心臓に届く急所でした。セシルが声もなく倒れます。

 ところが、その先は藪が切れて崖になっていました。前のめりに倒れたセシルは、そのまま崖を転がり落ちていきました。がらがらと石や土が崩れ落ちる音が続きます。

「どうした!?」

「なんだったんだ!?」

 さらに多くの兵士たちが駆けつけてきました。松明を掲げて崖の近くまで行きますが、崖は高くて、灯りは下までは届きません。

 

 すると、崖の下から声が聞こえてきました。

 ケーン……

 狐の鳴き声でした。

「なんだ、狐か」

「光ったのは狐の目か?」

「人騒がせだな」

 兵士たちはまた山頂に引き上げていきました。崖の周囲から人影が消えます。

 ケーン……ケーン……

 悲しげな狐の声は、崖の下からずっと続いていました。

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