ロムド城のキースとアリアンの居間に、小猿の姿のゾとヨが戻ってきました。
尻尾で器用に扉を開けて中に入り、期待しながら部屋の中を見回しますが、そこには誰もいませんでした。キースやアリアンは元より、鷹のグーリーの姿もありません。ゾとヨはがっかりして溜息をつきました。
「やっぱりアリアンは出てきてないんだゾ」
「もう三週間だヨ。オレたち、アリアンに三週間も会ってないヨ」
「キースも全然部屋にいないゾ。相変わらず女の人とデートばかりしてるゾ」
「キースが呼べばアリアンも出てくるかもしれないんだヨ。だけど、オレたちがいくら頼んでも、キースは知らん顔なんだヨ」
「キースはアリアンに意地悪だゾ! フルートたちはキースがアリアンを好きだって言ったけど、絶対そんなはずないんだゾ!」
「そうだヨ! 好きだったら、アリアンをずっと放っておいたりしないはずだヨ!」
けれども、二匹がいくら騒いでも、アリアンの部屋の扉はやっぱり固く閉じたままでした。
ゾとヨはその場に座り込んでしまいました。互いの背中に背中をもたせかけながら言います。
「オレ、アリアンに会いたいゾ」
「オレはキースとも話したいヨ。アリアンが部屋にこもってから、キースもずっと何もしゃべってくれないんだヨ」
「キースは意地悪なのに?」
「でも、キースはオレたちにお菓子をくれたヨ」
二匹の小猿はしょんぼりと身を寄せ合いました。とうとう二匹なりの結論に到達します。
「どうやら、オレたちすごく間違ったことをしちゃったらしいゾ……」
「そうみたいだヨ……きっと、アリアンとユギルさんを部屋に閉じ込めちゃいけなかったんだヨ」
けれども、ようやくそのことに気づいても、もう、それをなかったことにはできません。
ゾとヨは立ち上がると、アリアンの部屋の扉の下まで行きました。耳を押し当てて中の様子をうかがいますが、部屋の中からは、ことりとも音は聞こえてきません。
二匹は扉をたたきました。最初は遠慮しながら小さい音で。返事がないのでだんだん強く、しまいには、ドン! ドン! と体当たりで扉をたたきますが、やっぱり中からは何の反応もありません。
ゾとヨはがっかりして、その場にまた座り込んでしまいました。扉にもたれながら呼びかけます。
「アリアン、オレたちが悪かったゾ――。いっぱい謝るから、部屋から出てきてほしいゾ――」
「お城の下に兵隊がたくさん集まってきてるんだヨ。これから何か起きそうなんだヨ。きっとアリアンの仕事もあるんだヨ――」
そして、二匹はまた耳を澄ましました。彼らが思いつく中で、一番効果のありそうなことを言ったのですが、それでもやっぱりアリアンは出てきません。部屋の中はひっそりと静まりかえっています。
とうとうゾとヨはべそをかき始めました。こぼれる涙を手でぬぐい、濡れた手でとんとん、ともう一度扉をたたいてみますが、やっぱり扉は開きません。
二匹は泣きながら立ち上がりました。何度も扉を振り返りながら出口に向かい、それでもアリアンが出て来ないので、肩を落として居間を出て行きます。
扉が閉じると居間の中はまた薄暗くなりました。窓を開ける人がいなかったので、カーテンはずっと閉め切りになっていたのです――。
すると、アリアンの部屋の扉が少しずつ開き始めました。扉の奥は居間よりもっと暗いのですが、そろそろと隙間が開いていって、やがて中からアリアンが出てきます。
彼女は薄緑のドレスの上に長い黒髪を無造作に垂らしていました。一週間前にメールたちと話したときより、もっとやつれてしまって、肌は透き通るように青白く、体はすっかり痩せ細っています。それなのに、彼女はやっぱりとても綺麗でした。悲しげな顔も、憂いを秘めて、とても美しく見えます。
アリアンはずっと自分の部屋のベッドに潜り込んでいたのですが、それでも、扉の外から自分を呼ぶゾとヨの声は聞こえていました。城の下に兵隊が大勢集まっていて、これから何か起きそうだ、という話が気になって、そっと部屋を抜け出してきたのです。
大勢の兵士……とアリアンはつぶやきました。それは間違いなく、戦争の準備が始まっているということです。彼女はこの騒動が始まってから、ずっと鏡で周囲を見張る仕事をしていませんでした。その間に何かが起きたらしい、とようやく気がつきます。
「北の塔に行かなくちゃ……」
とアリアンはつぶやき続けました。彼女の鏡はそこに置きっ放しにしてあったのです。深緑の魔法使いたちも、きっと彼女が戻ってくるのを待ちかねているでしょう。
何も飲み食いしていなかった体は、すっかり弱ってしまって、足元もおぼつかなくなっていましたが、アリアンは外に向かって歩き出しました。椅子やテーブルにつかまって、よろめく体を支えながら、出口に向かいます。
ところが、彼女が出口にたどり着く前に、扉が外から開きました。中に入ってきたのは白い服に青いマントをはおった青年――キースです。
アリアンは仰天して立ちすくみましたが、キースのほうも、思いがけずそこに彼女がそこにいたので驚きました。双方で混乱して立ちつくし、互いに相手を見つめてしまいます。
すると、キースが急に皮肉な顔つきになりました。アリアンから目をそらしながら言います。
「ずいぶん久しぶりのお出ましだな、お姫様。お忍びでどこに行くつもりだい?」
アリアンは痩せて青ざめた顔を、さっと赤くしました。キースのからかうような口調は、ユギルのところへ行くつもりだろう、と言外に言っていたのです。
「き……北の塔に……深緑さんのところに、お手伝いに行くんです……」
大声で言い返したつもりでしたが、弱々しい声しか出てきませんでした。
ふん、とキースはまた皮肉っぽく笑いました。自分の部屋へ歩いて行きながら言います。
「隠す必要なんかないさ。あいつのところに行くなら行くと、堂々と言えばいいんだ。ぼくはそれにどうこう言うつもりはないんだから」
実際には思い切りどうこう文句をつけているくせに、口ではそんなことを言うキースです。
アリアンはますます赤くなって首を振りました。
「ち、違います……! 本当に私は深緑さんのところへ……!」
もっと早く、もっといろいろなことを説明したいと思うのに、アリアンの咽は思うようにことばを紡ぎ出してくれませんでした。三週間も引きこもっていた間に、彼女の体は本当に弱ってしまっていたのです。泣き尽くして涸れてしまったはずの涙が、またあふれ出しそうになります。
キースは不愉快な顔になると、きびすを返して居間の出口に向かいました。吐き捨てるように言います。
「隠す必要はないと言ってるんだ。ぼくが邪魔だというなら、もうこの部屋には戻ってこないでやるよ。あいつをここに呼ぼうが、一緒に暮らそうが、君たちの好きにすればいい」
アリアンは唖然としました。何を言ってもユギルと付き合っていると決めつけられてしまうので、全身が震え出します。真っ赤になっていた顔が、みるみる青ざめていきます――。
本当に居間を出て行こうとしたキースに、アリアンは呼びかけました。
「待って! 出て行く必要はないわ!」
意外なほどしっかりした声が出ました。
キースは顔をしかめて振り向き、すぐに驚いた表情になりました。アリアンは真っ青な顔でキースを正面からにらみつけていたのです。
「あなたがここを出て行く必要はないわ。ここはあなたの部屋だもの、キース。私を嫌って部屋を避ける必要ももうないわ。私がここを出て行けばいいだけよ」
キースはたちまち目を鋭く光らせました。また皮肉な笑いを浮かべて言います。
「なんだ、壮絶な顔で何を言い出すのかと思ったら。やっと、あいつのところに行くって認めただけじゃないか。そうしたいなら勝手にすればいい、とさっきから言っているだろう――」
「いいえ!!」
とアリアンは強くさえぎりました。乾いてかさかさになった唇を激しく震わせて言い続けます。
「私はユギル様のところになんて行きません!! ユギル様と私は何も関係がないんだもの!! 私はこの城を――いいえ、このロムドを出て行きます!! だから、あなたももう私を避けて城中逃げ回ってる必要なんてないわ!! 安心してちょうだい!!」
なんだって? とキースは聞き返しました。実は、アリアンがひどく興奮していたので、言っていることがよく聞き取れなかったのです。ただ、城を出て行く、ということばだけは聞こえていました。
「城を出て行って無事ですむと思っているのか? 外には闇王の手下がうろうろしている。捕まって、またあの闇の国に連れ戻されるぞ」
けれども、アリアンはまた頭を振りました。
「捕まりません! 私は今までも、ずっと一人で逃げてきたんだもの――! お別れです。グーリーとゾとヨをよろしくお願いします!」
アリアンがゾとヨたちの名前を出してきたので、キースもようやく彼女が本気で言っているのだと気がつきました。彼女が背を向けて部屋を飛び出そうとしたので、追いかけて腕をつかみます。
「ちょっと待て! グーリーもいないのに、どうやって連中から逃げるつもりだ!?」
「それこそ、あなたには関係のないことだわ、キース! 私には透視の目があるもの! 昔と同じように、その力で逃げ続けるだけよ!」
バシン、とキースの手が音を立ててはじき飛ばされました。アリアンが魔法の力で振り切ったのです。キースは思わず手を押さえ、すぐにかっとした顔になりました。
「逃げられるもんか! 相手は闇王なんだぞ! 捕まってなぶり殺されるぞ!」
「だとしても、本当にあなたには関係のないことよ、キース! さようなら! 優しくて綺麗な人間の方と、末永く仲良くなさって――!」
言ったとたん泣き出しそうになって、アリアンは顔をそむけました。扉を開けて外へ飛び出そうとします。
けれども、その手はまたキースに引き戻されました。
アリアンはもう一度魔法で振り切ろうとしましたが、今度はキースの魔力で抑え込まれてしまいました。アリアンの魔法はキースにはかなわないのです。
「放して!」
力任せに振り切ろうとしますが、キースは手を放しませんでした。逆に、ぐいと引き戻すと、彼女をのぞき込むように見つめて言います。
「行かせない……君はここにいるんだ」
アリアンはぎょっとして、思わず抵抗をやめました。キースはこれまで聞いたこともないような声をしていました。絞り出すような、ごく低い声です。
「ずっとここにいろ……ぼくの隣に。君はぼくのものだ……」
アリアンは自分の耳を疑いました。いつもの女性相手の口説き文句だろうか、と考えますが、キースの顔は怖いくらい真剣でした。アリアンの手をつかんだまま、もう一方の手で強く彼女を抱き寄せ、激しく唇に唇を重ねてきます――。
ところが、キースはすぐにアリアンを突き放してしまいました。
空っぽになった自分の両手をにらみつけて叫びます。
「くそっ!」
その手の指には黒く鋭い爪が伸びていました。さらに、頭には二本のねじれた角が、背中には闇の色の翼が現れ、服が黒一色に染まっていきます――。
アリアンは驚いて立ちすくみました。彼女自身の姿は変わっていません。薄緑のドレスを着て黒髪を垂らした人間の娘の姿です。キースだけが闇の民の姿に変わっていきます。
すると、キースが彼女を振り向きました。その瞳も血の色に変わってしまっていました。苦しそうに目を細めて彼女を見つめます。
と、キースはまた顔をそむけました。そのまま背を向けて出口へ向かいます。すると、角と翼が消え始めました。キースが扉を開けて外に飛び出したときには、服もまた元通りの白と青に戻っていました。扉が音を立てて閉じて、二人の間をさえぎります。
アリアンは全身の力が抜けて、へたへたとその場に座り込んでしまいました。頭の中は大混乱でしたが、キースに言われたことばだけは、はっきりと思い出すことができました。「ずっとぼくの隣にいろ。君はぼくのものだ」と……。
そこにまた扉が開いて、外から小猿のゾとヨが入ってきました。
「今、キースが部屋から飛び出してきたゾ?」
「すごくあわてていたヨ。いったい何が――」
二匹は居間の真ん中に座り込むアリアンを見つけて飛び上がりました。キャーッと歓声を上げて飛びつきます。
「アリアンだゾ! アリアンだゾ! やっと会えたゾ!」
「アリアン、どうしたんだヨ!? 顔が真っ赤だヨ!? 具合悪いのかヨ!?」
喜んだり心配したりするゾとヨに、アリアンは首を振りました。
「いいえ……いいえ、具合は悪くないわ……」
床に呆然と座り込んだまま、アリアンはキースが飛び出していった扉を見つめ続けました――。