夜明け前、ハロルド王子は寒さと空腹で目を覚ましました。
空はすでに白んでいて、木々の枝では鳥がさえずりを始めています。昨日、救援要請のためにメイ城を抜け出した王子は、日暮れまで馬を走らせ、夜の暗闇にそれ以上進めなくなって、街道脇の林の中で野宿をしたのです。
夜露はマントをしみ通って着ている服まで濡らし、王子の体をすっかり冷やしていました。王子は震えながら立ち上がり、傍らの木につないであった馬に歩み寄りました。長い首を抱くと、馬の体温が伝わってきて、少しほっとした気分になります。
「以前ならこんなことは絶対にできなかったな……少しでも冷えると、すぐに熱を出していたんだから」
と王子はひとりごとを言いました。我ながらずいぶん丈夫になったものだと考えながら、手綱をほどいて馬と一緒に林の奥へ行きます。そちらから水の音が聞こえていたのです。じきに綺麗な小川に出会うと、馬に水を飲ませ、自分も手で水をすくって飲みます。
朝食は、城から持ち出したパンでした。
「外を行くときには、何でも良いから食料を持って行くように心がけろ。それが命を救うことがあるのだから」
姉のセシルがまだ城にいた頃、姉はよく彼にそう言っていたのです。軍人としての心がけだったのでしょうが、それが今、王子を助けていました。厩(うまや)の棚の上でかちかちになっていたパンでしたが、水と一緒に呑み下せば空腹が収まり、元気が出てきます。
「よし、行こう。まずはナージャの森だ。女騎士団に協力してもらわなくては」
馬を相手にひとりごとを言いながら、王子は鞍にまたがりました。林から街道に戻り、朝日が昇ってくる方角に向かって駆け出します――。
馬を走らせながら、王子は城と襲撃者のことを考えていました。
セイロスは母を監禁して玉座の間に立てこもったといいます。セイロスの正体はデビルドラゴンです。母を人質に軍事力を要求するつもりなのは明白でしたが、今ひとつ納得がいきませんでした。メイは小国なので、領主の私兵まで総動員しても、ロムドを中心にした同盟にはかなうはずがないのです。母が言っていたように、隣のサータマンと手を組む方が、ずっと効果的なはずでした。
「奴は何をたくらんでいるんだろう……?」
と王子はまたひとりごとを言いました。セイロスの本当の狙いが軍師のチャストだということには、まだ気がつけません。
その後、王子はナージャの森の女騎士団のことも考えて、心配になってきました。彼女たちは聖地であるナージャの森を警護している戦士です。百人ほどの部隊で、全員が女性ですが、勇猛なうえに統制が行き届いているので、男たちの部隊に少しもひけを取りません。
彼女たちの隊長は今でも姉のセシルでした。姉が婚約者と一緒にロムドへ行った後も、姉の命令を守って、忠実に任務を遂行しているのです。自分が行っても話も聞いてもらえないかもしれない、と心配になります。なにしろ、自分は姉を迫害したメイ女王の息子なのです……。
それでも馬は街道を進み続けました。やがて、行く手の丘の向こうに、金色に輝く森が見えてきます。それは一年中黄色の葉をつけている金葉樹(きんようじゅ)でした。そこが女騎士団のいるナージャの森なのです。
安堵が半分、不安が半分の気持ちで、ハロルド王子は馬を進めていきました。森が近づいてきます。
ところが、丘の麓までやってきて、森が一時的に丘の陰になったとたん、馬がいなないて後足立ちになりました。目の前の地面に矢が突き刺さったのです。続けて二本目の矢が王子の顔のすぐ横を飛びすぎていきます。
王子はぎょっとして叫びました。
「何者!?」
矢は街道脇の林の中から飛んできました。木立の間に人影が動いて、三本目が飛んできます。
とたんに馬が前脚を下ろしました。かろうじて矢をかわした王子は、馬の腹を蹴りました。
「狙われている! 急げ!」
ことばの意味がわかるように、馬が駆け出しました。丘を越えてナージャの森に向かいます。
すると、林からも二頭の馬が飛び出してきました。黒っぽい服と覆面の男たちが乗っていて、王子の後を追ってきます。
王子は馬の首に身を伏せて馬を走らせました。彼は剣が得意ではないので、戦って敵を撃退することはできません。全速力で逃げるしかなかったのです。
けれども、賊の馬のほうが足は速く、たちまち蹄の音と馬の鼻息が背後に迫ってきました。丘を越えたのでナージャの森がまた見えてきましたが、森まではまだかなりの距離があります。たどり着く前に敵に追いつかれそうです。
「急げ! 急げ、早く――!」
王子は馬に鞭を入れますが、すでに全速力の馬は、それ以上の速度では走れませんでした。口から泡を飛ばしながら丘の斜面を駆け下っていきます。
背後で賊が剣を抜いた音がします。
すると、街道の行く手の林から高い音が響きました。
ピィィーッ!
鳥の声にも似ていますが、人が吹く口笛です。とたんに、それに答えるように反対側の林からも口笛が鳴りました。
ピィィィーッ!
続けて林から馬で飛び出して来たのは、白い鎧兜で身を包み、赤いマントをなびかせた二人の戦士でした。蹄の音を響かせて街道に駆け込み、行く手をふさぐように立って、王子と賊へどなります。
「この先を国王直轄領のナージャの森と知って近づくか!?」
「何者かただちに名乗れ! 名乗らなければ容赦なく切るぞ!」
格好もことばづかいも男のようですが、声はどちらも女性のものでした。ナージャの女騎士たちです。
ハロルド王子は馬を走らせながら叫びました。
「私だ! 賊に追われている! 助けてくれ!」
その顔を確かめて、女騎士たちも声をあげました。
「ハロルド殿下!」
「何故このようなところに!?」
けれども、彼女たちが驚いたのは一瞬だけでした。次の瞬間には剣を抜き、まっすぐ賊に向かって駆け出します。
ハロルド王子の元には、林の奥からまた別の女騎士が駆け寄ってきました。王子より長身で逞しい体つきをしています。
「第三十二部隊の副隊長補佐官のジュリエットです。お久しぶりでございます、殿下。森の近くに不審な男たちが隠れていると報告があったので、部下たちと見張っておりました。まさか殿下を待ち伏せていたとは。何事でございますか?」
その間にも、林の奥からは次々と馬に乗った女騎士たちが飛び出してきました。総勢十名ほどで賊へ突進していきます。先に駆け出した二人は賊に駆け寄り、戦闘を始めていました。馬と馬を寄せ、剣で激しく切り結びます。
「何故狙われたのか、私にもわからない……」
と王子は答えました。全力疾走で逃げてきたので、馬も王子も息を切らしています。
「城に一大事があったので、姉上がいるロムドに救援を求めなくてはならなくなった……。そのために馬を走らせてきたら、連中に待ち伏せされた……」
「城に一大事?」
ジュリエットと名乗った女騎士はたちまち険しい表情になると、賊に向かう部下たちに言いました。
「そいつらを殺すな! 捕まえて聞き出したいことがある!」
はいっ、と女騎士たちからいっせいに返事がありました。黒装束に覆面の男たちを取り囲んで捕まえようとします。
二人の賊は多勢に無勢と察して、戦っていた女騎士へ何かを投げつけてきました。彼女たちがとっさに顔をそむけたので、鎧や兜に当たって地面に落ちます。その隙に賊は逃げ出しました。丘を越え、西の方角へ駆け去っていきます。
「待て!」
「逃がすな!」
女騎士たちが後を追いますが、じきに振り切られて戻ってきました。
「申しわけありません。逃げられました」
「丘の向こうの森へ姿を消したのです。それと、これを。連中が投げつけてきたものです」
女騎士の一人がジュリエットに手渡してきたのは、ごく短いナイフのようなものでした。ジュリエットが眉をひそめます。
「これは普通の武器ではないな。私は初めて見るが、タニラ様ならご存じかもしれない――。殿下、どうぞこちらへ。我々の宿舎へご案内いたします」
女騎士たちはハロルド王子に非常に丁寧な態度で接していました。王子の前後を守りながら、金色に輝くナージャの森へと案内を始めます。
彼女たちと共に進みながら、王子は後ろを振り向きました。賊の姿はもうどこにも見当たりませんが、誰かがどこかからこちらを見ているような気がしたのです。
「私は誰にも言わずに城を抜け出してきた。なのに、連中は何故私がナージャの森へ行くと知っていたのだろう……?」
王子の胸に疑問がわき上がっていました。