バルコニーでアリアンを貴族の青年から救出したユギルは、彼女を抱いたまま通路に面した部屋に入りました。
部屋の椅子に彼女を座らせて言います。
「もう大丈夫でございます。落ち着いてください、アリアン」
闇の娘は両手で顔をおおってうつむいて震えていました。爪が黒く変わった手の間から、額の角が飛び出しています。
「しつこく迫られて動揺なさったのですね。ここは誰にも透視できない特別な部屋です。陛下たちがごく内密な話をする際にご使用になる部屋で、四大魔法使いの魔法で守られておりますので、魔法軍団にもここを見ることはかないません。ご安心ください」
ユギルにそう言われて、アリアンはようやく顔から両手を外しました。額の角は完全に伸びきってはいませんでしたが、瞳が血のような色に変わっていました。震えながらユギルに感謝します。
「ありがとうございました……。ユギル様に助けていただかなかったら、正体を見られてとんでもない騒ぎになるところでした……」
彼女は窓から離れた場所に座っていましたが、ユギルは念のために窓のカーテンも閉めました。暗くなった部屋の中で燭台に灯りをともしながら言います。
「占盤の南西の方角に何やら騒ぎが起きそうな気配の象徴が現れたので、アリアン様に確認していただこうと思って、お探していたのです。ちょうど良いところに駆けつけることになりました」
アリアンは黙って頭を下げました。体の震えが収まらないので、今はまだ鏡で透視することはできません。
ユギルは話し続けました。
「完全に落ち着くまで、ここにおいでください。陛下にもお話しして、あの青年には二度とこの城に立ち入らないよう命じていただきます。ご安心ください」
ロムド城の一番占者は、十以上も年下のアリアンにとても丁寧に話しかけていました。その穏やかさにアリアンの心もようやく落ち着きを取り戻してきました。瞳と爪の色が薄くなり、額の角が短くなっていきます。
先ほどまで部屋の扉越しに大勢の話し声が聞こえていたのですが、それもいつの間にか聞こえなくなっていました。
「どうやら野次馬も退散したようでございますね」
とユギルも腰を下ろしました。こちらはアリアンから離れた窓際のソファです。部屋の中も静かになります。
すると、扉のほうからかすかな音が聞こえてきました。
カシャカシャ……金属がこすれるような音です。
ユギルは、はっと飛び上がりました。
「いけません!」
と叫んで扉へ駆け出しますが、それより先にまた金属音がしました。
カシャン。
続いて、話しながら遠ざかっていく甲高い声が聞こえます――。
アリアンは目を見張って腰を浮かしました。
「今のはゾとヨの声? どうかしたんでしょうか?」
ユギルは取っ手を回して押したり引いたりしましたが、扉は開きませんでした。思わず扉に額を押し当てます。
「部屋に鍵をかけられました……あの二匹のしわざです」
アリアンは驚きました。
「どうしてそんなことを! あの子たちも最近は悪戯(いたずら)しなくなってきたと思っていたのに」
「どうやら、わたくしたちを二人きりにしようと考えたようですね。気を利かせたつもりなのでしょう」
アリアンはますます目を見張り、突然この部屋にユギルと二人きりでいることに気がつきました。しかも、窓にはカーテンが閉められ、蝋燭(ろうそく)の灯りだけが揺れている状況です。ここで扉に鍵をかけられたら、部屋は完全に密室です。
赤くなったり青くなったりしてうろたえるアリアンに、ユギルは言いました。
「この部屋には魔法がかけられているので、陛下や一部の重臣以外にこの部屋を使おうとする者はありません。普段は衛兵さえ近づきません。ですからここに避難したのですが、それが仇(あだ)になりました。閉じ込められていることに気づいていただけません」
そんな……とアリアンは言いました。思わずユギルから後ずさってしまいます。その額から角は消えていました。人間の姿になったときの彼女は、非の打ち所がない美女です。
ユギルは苦笑しました。
「ご安心下さい。おかしな真似はいたしません。ですが、この状況では、他の方たちがそうは思わないでしょう。さて、いかがいたしましょうか……」
「助けを呼ぶことはできませんか? 大声を出せば、誰か聞きつけてくださるのでは」
とアリアンが言うと、ユギルはまた苦笑しました。
「それはすでに占いました。その程度のことならば、占盤がなくても読むことができますので。聞きつけてやってくるのは、先ほどの野次馬たちでございます。衛兵に追い払われても、関心を持ってこちらを見張っております。彼らが来ては、かえっておかしな誤解を招くことでございましょう」
「でも、ずっとここにいるわけには――!」
アリアンは焦りました。北の塔で周囲を見張る任務のこと、キースやグーリーやゾとヨのこと、城の一番占者と一緒にいることで騒ぎになるかもしれないこと……様々なことが一度に心配になります。
ユギルは顔にかかった長い前髪をかき上げて溜息をつきました。
「明朝になれば、部屋の点検に下男が回ってまいります。そのときに扉に鍵がかかっていることに気づいて、わたくしたちを助け出してくれることでしょう。それが一番平穏に外へ出る方法なのですが、先ほどバルコニーで一芝居打ってしまいましたので、人の噂になることは避けられそうにございません」
ユギルは自分自身をほとんど占えません。そのために、バルコニーでアリアンを救ったことがどんな結果を招き寄せるか、あらかじめ知ることはできなかったのです。わかるのは、ロムド城にとんでもない騒ぎが巻き起こるだろう、という予感だけでした。それは今すぐ大声を上げて助けを呼んでも、明朝下男に発見されても、変わることはなかったのです。
アリアンはまだおろおろしていました。ユギルと距離をとるように後ずさりながら、こう言います。
「わ……私、キースを呼んでみます。彼には私の声が聞こえますから……」
ユギルはまた溜息をつきました。アリアンがキースの名を出したとたん、彼女の背後に燃えさかる炎と黒い翼と角と牙が見えたからです。それは一番やってはならないことだ、と直感します。
「このままおとなしく明日の救出を待つことにいたしましょう。アリアン様はそちらのソファをお使い下さい。わたくしはこちらで」
とソファがある窓際とは反対側の、扉の横に椅子を動かします。
とたんに、窓のカーテンの隙間から強い光が差し込み、一瞬おいてガラガラガラと割れるような音が響き渡りました。アリアンは飛び上がって窓を見ました。
「雷……」
次いで聞こえてきたのは、たたきつけるような雨音でした。先ほどまであんなに天気が良かったのに、突然雷雨が始まったのです。窓際に近づくように見えていたグーリーの象徴が、雷を恐れて遠ざかっていったので、ユギルは三度目の溜息をつきました。これで助けを予感させるものはすべてなくなってしまいました。
「問題はキース様がこれをどう思うかでございますね……」
立ちつくしたまま泣きそうな顔で雨音を聞くアリアンを見ながら、ユギルはそっとつぶやきました。