セイロスの髪が四枚の翼のように広がったとたん、周囲に猛烈な風が吹き出しました。誰も立っていることができないほど激しい風です。同時に雷が鳴り、どおっと雨が降り出します。土砂降りの中、ひらめく雷があたりを真昼のように照らします。
「きゃぁっ!」
「ワン!」
ルルとポチが変身していられなくなって、地上に転がりました。必死で降下したのですが、それでも二メートルほどの高さから墜落してしまいます。背中に乗せていたポポロやメールも一緒です。
「おい、大丈夫か!?」
飛ばされないように地面に突っ伏していたゼンが、顔を上げてどなりました。
「ワン、なんとか――!」
とポチが答えますが、その声は風に吹きちぎられてしまいます。
別の場所では、四大魔法使いたちが地面に倒れていました。長衣の袖や裾を風にはためかせながら、青ざめた顔を見合わせています。
「魔法が発動しなくなっていますぞ」
「私もだ。光の魔法が完全に封じられている。赤はどうだ?」
「ヤ、メダ」
と赤の魔法使いが首を振ります。彼もムヴアの術を使うことができなくなっていたのです。
別の場所では、風に飛ばされそうになったリリーナをシン・ウェイが抱きかかえて、地面に伏せていました。飛んでいきそうなマフラーをもう一方の手で必死に抑えて言います。
「本当かよ。一帯の魔法を種類に関係なく抑え込んでるぞ。そんなことができるなんて……」
小石が飛んできて、ぴしり、とリリーナの顔に当たりました。幸い眼鏡が防ぎましたが、レンズにひびが入り、リリーナが悲鳴を上げます。
嵐は周囲にも襲いかかっていました。ワルラ将軍やオリバンやトーマ王子たちも、全員地面に倒されてしまいます。小柄な王子が吹き飛ばされそうになったので、ドラティ宰相が必死でつかまえていました。ニーキ司祭長が魔法で引き留めようとしますが、ここでも魔法は使えなくなっていました。
軍隊も市民も捕虜も、全員が風に倒れているのを見て、ワルラ将軍は歯ぎしりしました。
「奴め、本当の力を隠していたな……! これほどの能力があるとは……!」
「奴はデビルドラゴンだ。本性を現してきただけだ」
とオリバンは答えて顔を上げ、セイロスにすぐ近い場所を見ました。夜のように暗い中、そこだけは金色に輝いています。それがフルートなのだと、オリバンにはわかっていました。どれほど闇が世界を濃く閉ざそうと、その中で輝き続ける金の光です。
と、雨がいちだんと強くなりました。オリバンは目を開けていられなくなって、また地面に伏せます。
うふふふっ……とランジュールは空で笑っていました。嵐が吹き荒れても、幽霊の彼と蜘蛛のアーラは、まったく関係なく空中に浮いています。
「これがセイロスくんの実力なんだよぉ、アーラちゃん。ステキだと思わなぁい? 今までなんだか力が弱いなぁって思ってきたけどさぁ。単に、出し惜しみしてただけだったんだねぇ。ちょっと本気を出しただけで、こぉんなに暴れることができるなんて、ふふふ、さすがはボクのフーちゃんと合体したデビルドラゴンだよねぇ」
チチッと大蜘蛛がそれに答えるように鳴きました。ランジュールには蜘蛛のことばがわかります。
「え、これで決まりだね、ってぇ? うふふ、そうなるといいねぇ。でもねぇ、相手はあの勇者くんだからね――どぉかなぁ?」
いったいどちらの味方なんだ、と言いたくなるようなことを、ランジュールは言っていました。表情はずっと楽しそうなままです。大蜘蛛が首をかしげるように頭をひねって、主人を見上げます。
ごうごうと吹き荒れる風の中で、フルートは闇の気配がますます濃くなっていくのを感じていました。地面に突っ伏したフルートの手では、金の石が激しく明滅を繰り返しています。
このままでは、ここにいる全員がやられる、とフルートは確信しました。セイロスがやろうとしているのは、黒い魔法の何十倍もの威力を持つ闇魔法です。それが破裂すれば、周囲は闇魔法の嵐に襲われ、この場所にいる人々は一人残らず魔法の直撃を食らってしまいます。全員が死ぬことでしょう。ワルラ将軍やオリバンやトーマ王子たちも、魔法使いたちも、ゼンもメールも犬たちも。そして、ポポロも――。
フルートはいきなり、がばと頭を上げました。真っ正面から吹き付けてくる風と雨の中で、黒い翼を広げるセイロスをにらみつけます。
すると、その目の前に赤いドレスの女性が現れました。先ほど一度姿を現し、フルートの肩越しに力を渡して消えていった願い石の精霊です。石を刻んだような美しい顔で言います。
「私を呼んだか、フルート?」
フルートのそばには仲間たちが伏せていました。ゼンなどは、手を伸ばせば届くほど近い場所にいましたが、嵐に顔も上げられないでいました。フルートの前に精霊が現れたことには、誰も気がつきません。
精霊の服と髪は風の中でも少しも吹き乱されていませんでした。ただ赤いドレスが炎のように揺れ続けています。フルートは手を伸ばすと、その裾をつかまえました。意外なほどしっかりした手応えのある服をつかんで、立ち上がっていきます。
ついに風の中に立ち上がると、フルートは精霊の両手をつかみました。今でもまだ自分より背が高い女性を見上げて、はっきりと言います。
「そうだ、呼んだ」
とたんにフルートの左手の中でペンダントが輝き、金の石の精霊も姿を現しました。
「フルート、何をしている!? 願いのを呼び出してどうするつもりだ!?」
どうする? とフルートは繰り返しました。
「決まっている。みんなを守るんだ。このままじゃ、みんなセイロスに殺されてしまう」
フルートの声に迷いはありませんでした。その体が赤い光を放ち始めます――。
すると、ポポロが急に顔を上げました。
「だめぇっ、フルート!!」
と鋭く叫び、跳ね起きて駆け出します。嵐はそんな彼女にまともに吹きつけて、赤いお下げと黒い長衣を狂ったようにはためかせましたが、ポポロはかまわず走り続けました。雨をかき分けるように両手を前に突き出し、まっすぐにフルートのほうへ――。
願い石の精霊を見上げていたフルートは、背中にいきなり衝撃を感じました。その胸当ての前に華奢な腕が回ってきたので、はっとします。ポポロが後ろから抱きついてきたのです。引き留めるようにフルートを抱いて、彼女は繰り返します。
「だめ……だめ! 行ってはだめ……! 約束よ、フルート! 絶対にだめ!」
でも! とフルートは振り向きました。
「このままじゃ、みんな奴の魔法に吹き飛ばされる! 誰の力でもこれは防げない! みんなを死なせるわけにはいかないんだ!」
「だめよ、フルート!! そんなことを考えちゃだめ!!」
ポポロが泣きながらフルートを強く抱きます。
その声をポチが聞きつけて、仰天して跳ね起きました。
「ワン、フルートが願い石を呼んでる!」
「ええっ!?」
「なんだって!?」
「またか! 唐変木のすっとこどっこい野郎!!」
仲間たちも跳ね起きてきて、フルートに飛びつきました。ゼンはフルートの手を精霊からはずそうとしながら、どなります。
「消えろよ、願い石! こいつは絶対に行かせねえからな!」
「私を呼び出しているのはフルートだ。呼ばれたらその者の願いをかなえるのが、私の役目だ」
と願い石の精霊は答えました。冷静な声ですが、変わらないはずの顔が、何故だか少し困った表情を浮かべているように見えました。フルート! と叫ぶ金の石の精霊のほうは、はっきりと困惑した表情をしています。
ポポロはさらに力を込めてフルートにしがみつきます――。
すると、急に雨と風がやんでいきました。雷もやみ、あたりが静かになります。
驚いてまた顔を上げたオリバンは、真っ暗な空を背景に向かい合って立つセイロスとフルートを見ました。セイロスはまだ体から暗い光を放っていますが、フルートも赤い光に全身を包まれているのを見て、跳ね起きます。
「馬鹿者! 何を願うつもりだ、フルート!?」
別の場所からは四大魔法使いが、もっと離れた場所からはゴーリスが、やはり赤く輝いているフルートを見て駆け出していました。フルートが何をしようとしているのか、皆が一瞬で悟ったのです。
ところが、彼らが駆けつけてくる前に、セイロスが言いました。
「やはり、この方法は使えんか。フルートにあの願いを言わせてしまうからな」
セイロスは苦い顔をしていました。広がっていた翼が音もなく閉じ、また髪の毛に戻って背中を流れます。
目を見張るフルートたちの前で、セイロスはきびすを返しました。右手を横に伸ばすと、その手の中に紫水晶の兜が現れます。
「行くぞ、ランジュール。作戦を練って、出直しだ」
と言いながら兜をかぶります。
へぇ、とランジュールは言って、くすくすと笑いました。
「やっぱり願い石には弱いんだねぇ、セイロスくん。いや、願い石に消滅を願われることに弱い、ってことかぁ。そぉいう弱みをもってるとこ、人間っぽくてけっこう好きだなぁ、うふふふ」
「無駄口をたたくな」
とセイロスはぴしゃりと言うと、そのまま歩き出しました。フルートの体から赤い光が消えていきますが、それにはもう目も向けません。
「待て、セイロス――!」
とフルートは後を追いかけようとしましたが、仲間たちがそれをさせませんでした。二人の精霊が、ほっとしたように光の中に消えていきます。
ところが、セイロスは急に立ち止まりました。足下を見て言います。
「ギー」
そこに彼の副官が倒れていたのです。鎧はまだ身につけていますが、角のついた兜はどこかに失い、全身に無数の傷を負って血にまみれていました。
ギーはすでに目も見えなくなっていましたが、声でそばにいる人物を知りました。顔をそちらに向けて言います。
「セイロス……だな? すまん……カマキリにやられて、この有様だ……」
あれれ、とランジュールは言いました。彼が地上へ送り込んだ大カマキリは、敵も味方も見境なく切り刻んだのです。
セイロスはじっとギーを見下ろしていました。特に表情らしい表情も浮かべずに眺めるだけで、ことばをかけることもしません。
けれども、ギーは話し続けました。
「俺はもうだめだ……あんたの役に立てなくなったからな……。俺を捨てていけ、セイロス。そして、世界の王様になれ……。あんたなら、必ずなれるさ。あんたは……世界一の男だからな……」
言うだけ言って、ギーは疲れたように首を垂れました。まだ息はしていますが、事切れるのは時間の問題でした。
「ほぉんと、忠実な部下だねぇ、セイロスくん? 自分が死にそうなのに、キミが王様になれますように、って言ってるんだもんねぇ。人間なら涙が止まらなくなるところだよぉ?」
ランジュールは、ちろりとセイロスの顔を伺いましたが、もちろんセイロスは涙を流したりしませんでした。やがて、苦しそうな息をするギーをそこに残して、また歩き出します。
代わりにわめきだしたのは、勇者の一行でした。
「てめぇ、セイロス! ずっと自分についてきた副官を捨てるのかよ!?」
「本当に悪魔だわね! 味方を片っ端から見捨てていくんだから!」
「最後の一人になった部下まで見殺しにするなんて、上に立つ者のすることじゃないだろ!」
すると、フルートが仲間たちを振り切って駆け出しました。その手にはまだペンダントが握られていました。死にかけているギーを癒やそうとしたのです。
とたんに、どん! とフルートの目の前で大地が破裂しました。寸前で止まったフルートを、金の石の光が守ります。
セイロスがこちらを振り向いていました。冷ややかな目でフルートを眺め、次に副官を見ると、すぐにまた前に向き直って言います。
「来い、ギー」
ギーの体が黒い光に包まれます。
次の瞬間、ギーは跳ね起き、驚いたように自分を見回しました。あれほどひどかった傷が、ひとつ残らず治ってしまったのです。目もまた見えるようになっています。気がつけば、なくした兜も頭に戻ってきていました。
「セイロス!」
ギーは歓声を上げて紫の鎧の戦士を追いかけていきました。フルートたちは思わず目を丸くしてしまいます。
すると、セイロスがまた言いました。
「ランジュール、空を飛べる魔獣を出せ」
「えぇ、空を飛べる魔獣? だぁって、キミ、自分の魔力で飛べるのに――」
とランジュールは不思議がり、ギーを見て、すぐにうなずきました。
「あ、そぉかぁ。キミ、部下のお兄さんを連れては飛べないんだねぇ。もう、しょぉがないなぁ。えぇっと……おいでぇ、ヒンヒンちゃんたちぃ!」
幽霊に呼ばれて現れたのは、灰色の体に黒いたてがみ、背中にコウモリのような翼を生やした二頭の馬でした。以前、トーマ王子とシン・ウェイの空飛ぶ馬車を襲撃したときに、ちゃっかり自分のものにしてしまった魔獣です。
セイロスとギーは空飛ぶ馬にまたがりました。セイロスの魔法で手綱と鞍が現れますが、鞍の下に鐙(あぶみ)はありません。馬が翼を羽ばたかせて空に舞い上がります。
空を遠ざかって行く二頭の馬と、その後ろを飛んでいく幽霊の青年を見ながら、ポチはフルートに尋ねました。
「ワン、後を追いかけますか?」
フルートは首を振りました。小さくなっていくセイロスたちの後ろ姿を見つめて、つぶやきます。
「あいつは副官を救った……部下の命を……」
そのまま考え込んでしまいます。
すると、そこにオリバンや四大魔法使いたちが駆けつけてきました。
「この馬鹿者! 何度同じ心配をさせれば気がすむのだ!?」
「勇者殿、大切なことを忘れてはなりません!」
とオリバンと白の魔法使いが厳しい顔でフルートを叱ります。
でも、と言いかけたフルートの腕に、ポポロがまたしがみつきました。涙を浮かべた目に見つめられて、フルートは初めてすまなそうな顔になりました。
「ごめん……」
とようやく謝ります。
そこへゴーリスやワルラ将軍もやってきました。ゴーリスが不肖の弟子にげんこつを一発食らわせてから言います。
「さあ、とにかく今回の戦闘はこれで終結だ。操り兵にされていた人間は全員解放できたし、ザカラス城も国王も取り戻すことができたからな」
「全軍に勝利を告げろ!」
とワルラ将軍に言われて、伝令兵が角笛を吹き鳴らしました。夜の色に変わった空に、笛の音が高らかに響き渡ります。とたんに戦場でいっせいに鬨(とき)の声が上がりました。勝ったぞ! 敵を撃退して城を取り戻したぞ! と歓声が繰り返されます。
すると、北のザカラス城の方角からも、角笛の音が返ってきました。城に残っていた人々が、勝利を知って返事をしてきたのです。歓声もかすかに聞こえてきます。
「ジャックたちだな」
とゼンが笑いましたが、フルートはもうペンダントを手に駆け出していました。
「戦場には負傷者がたくさんいるはずだ! 早く手当てをしないと!」
と怪我人を探し始めます。
仲間たちは、相変わらずのフルートに苦笑いをすると、手当を手伝うために一緒に駆け出しました――。