ザカラス城の中央付近にある王の部屋で、アイル王はゆっくりベッドから起き上がっていました。
彼がセイロスの捕虜になり、この部屋に監禁されてから二十日がたとうとしています。その間、食事と暖炉用の薪は毎日二回運ばれていましたが、部屋から出ることはできないし、身の回りの世話をする者もいなかったので、アイル王は見る影もなくやつれていました。元から痩せていた体はさらに痩せ細り、力も失っていたので、ベッドから床に下りて立ち上がるだけでも、かなりの時間がかかります。
しかも、アイル王は怪我をしていました。以前セイロスからひどく殴られたので、歯が何本も折れ、顔の骨や肋骨にもひびが入っていたのです。震える足を室内履きに突っ込み、王の錫杖(しゃくじょう)を杖代わりにして歩き出しますが、数歩進んだだけで、もう息が上がり始めます。
けれども、アイル王は歩くのをやめませんでした。向かう先にはテーブルがあって、そこに今日の朝食が置かれていたのです。彼が寝ていた間に運ばれたので、もうすっかり冷えていましたが、パンや肉、スープなどが並んでいます。椅子に座ると肋骨が痛んで、しばらくは胸を押さえたまま動けなくなりますが、痛みが引くと、おもむろにパンを取り上げました。歯がなくなった口ではうまくかめないので、小さくちぎってスープに浸してから、口に運びます。
その後も一口かむごとに顔や顎に痛みが走るので、アイル王はそのたびに顔をしかめました。肉片を口に入れたときには、痛みに思わず声が出てしまいますが、食べることはやめませんでした。じっと痛みをこらえ、痛みが治まると、また食べ物を口に運びます。
食べてさえいれば、生きることができます。王の体はもうぼろぼろになっていましたが、それでも、生きることをやめたくはなかったのです。弱った体で懸命に食べ続けます。
すると、遠くから急に怒声が聞こえました。
セイロスが、用のない者はこの付近に近づくな、と部下たちに命じていたので、王の部屋がある階は、静まりかえっているのが普通でした。アイル王は思わず食事を中断して聞き耳を立て、声が階段のほうから聞こえることに気がつきました。階下から騒ぎが伝わってくるのです。じきに、人と人が戦っているらしいこともわかってきます。
「し、城の中で、た、戦いが起きている……?」
とアイル王はひとりごとを言いました。ことばにつまずく癖は相変わらずですが、顔つきが急にしっかりして、考える表情に変わります。
王は椅子から立ち上がると、よろめく体を錫杖で支えながら、また歩き出しました。部屋の隅の柱まで来ると、胸を押さえてぜいぜいとあえぎ、痛みが治まってから、片手を柱に押し当てます。
「い、出でよ」
ひゅっと空を切るような音がして、柱の上のほうから太い蔓(つる)のようなものが降ってきました。アイル王の体に絡みついて締め上げたので、王がまた悲鳴を上げます。すると、蔓は透き通って見えなくなってしまいました。後には、柱にもたれてあえぎ続けるアイル王だけが残されます――。
そこへ、乱暴に入り口の扉が開いて、二人の人物が入ってきました。紫の鎧兜に金茶色のマントをはおったセイロスと、角がついた兜に青いマントをはおったギーです。ギーは一瞬で地下室から王の部屋の前まで移動したので、びっくりして、きょろきょろ周囲を見回しています。
セイロスが言いました。
「我々と来い、ザカラス王! 出発の時間だ!」
その後ろに開け放たれた入り口からは、戦いの音が聞こえ続けています。アイル王は確かめるように言いました。
「き、金の石の勇者たちがやってきたのだな。ロ、ロムド軍も一緒なのだろう」
セイロスは何も答えませんでしたが、ギーのほうは階下から伝わる騒ぎにあせって言いました。
「セイロス、急がないと! 正気に返った操り兵がやってくるぞ!」
アイル王は目を見張り、すぐに状況を察して言いました。
「さ、先ほど、私は緑の光が体を通り抜けていく夢を見た……。ゆ、夢だとばかり思っていたが、あれは本当のことだったのだな。ゆ、勇者たちが、城と兵たちを救おうとしているのだろう……。そ、それで、私を人質にして、城を逃げ出すつもりでいるのだな、デビルドラゴン」
アイル王がセイロスをドラゴンと呼んだので、ギーは妙な顔をしました。彼は自分たちの大将が闇の竜であることをまだ知りません。
ギー! とセイロスは命令口調になりました。
「我々はこの城を捨てるぞ! 元より仮の宿営地にしていただけだ。ただちに出発して南へ向かう!」
言いながらセイロスが投げたのは、大きな黒い角笛でした。ギーは受け取ってうなずきました。
「正門前で待っている! 必ず来てくれよ!」
と言い残して王の部屋から飛び出していきます。すぐに廊下から聞こえてきたのは、大音量の角笛の音でした。石造りの城の壁や天井をびりびりと震わせて鳴り響きます。
「て、撤収の角笛か」
とアイル王は言いました。歯が抜けた口は笑っています。
セイロスは、かっとなって王の襟首をつかみましたが、殴ることはかろうじて思いとどまりました。これから王を人質に逃げることになるので、弱っている王をさらに弱らせてはまずい、と考えたのです。代わりに、ぐいと王を引き寄せます。
「貴様は我々の盾だ。一緒に来い」
言うなり、王と一緒に城外へ飛ぼうとします――。
ところが、一度消えかけたセイロスの体が再びはっきりしました。腕をつかんだアイル王に至っては、消えていく様子もありません。セイロスが空間を越えて門の前へ飛ぼうとしたのに、王の体がびくとも動かなかったのです。
セイロスはどなりました。
「貴様、自分を何かで引き留めているな!? 何を使っている!?」
アイル王はまた笑いました。何本も歯の抜けた口が、すきま風のような笑い声をたてます。
「ザ、ザカラス王は、大昔からいつも、暗殺や誘拐の危険にさらされてきた。だ、だから、城にはいくつもの避難路が張り巡らされてきたし、ぎゃ、逆に、王がさらわれないための仕掛けも、施されてきたのだ」
セイロスは歯ぎしりすると、アイル王の顔に平手打ちを食らわせました。顔の骨にひびが入っていた王が、悲鳴を上げてうずくまります。
その背中を見て、セイロスは言いました。
「それか!」
ばしん、と空中で音がして、見えなくなっていた蔓が再び現れました。途中で断ち切られ、みるみる崩れて消えてしまいます。
床に倒れたアイル王を、セイロスは乱暴に引き起こしました。
「余計な手間をかけさせおって。行くぞ!」
すると、アイル王はあえぎながら言いました。
「も、もう一つ、忘れているぞ、デビルドラゴン……。こ、この城には、隠し通路が張り巡らされている……。こ、この部屋にも、それは通じているのだ……」
セイロスは馬鹿にしたように笑いました。
「隠し通路を開閉する装置は、前に私が壊したではないか。もう使うことはできないはず――」
ところが、話しているうちに、セイロスの表情が急に変わってきました。確かに彼は王の部屋にあった開閉装置を壊しました。それでもう隠し通路の出入り口を開けることはできなくなったのですが、通路が一つとは限らないことに、ようやく気がついたのです。
「貴様、まさか……!」
と通路の出入り口があった壁を振り向きます。
そこはただの壁のままでした。開閉装置の取っ手があった場所は、今は打ち砕かれて穴が開いています。
すると、突然部屋の別の場所から、ごごぅっと風の音が聞こえてきました。次の瞬間、部屋中に強風が巻き起こり、セイロスのマントを巻き上げて視界をさえぎります――。
「この!」
セイロスは魔法で風を止めて、マントを払いのけました。すると、火が燃える暖炉の前に、いつの間にか数人の人々が立っていました。金の鎧兜のフルート、青い胸当てのゼン、花模様のシャツのメール、黒い長衣のポポロ、黒っぽい鎧を着たトーマ王子、マフラーを巻いたシン・ウェイ、若草色の衣のリリーナ――犬の姿のポチとルルも一緒です。
「父上!!」
トーマ王子は床に倒れているアイル王を見つけて駆け寄っていきました。
「アイル王は返してもらう! あきらめて降参しろ!」
フルートは剣を構えて言いました――。