セイロスはザカラス城の通路をたった一人で歩いていました。掲げた魔法の灯火が紫水晶の鎧兜に映って、怪しく揺れています。
ザカラス城は大きな二つの中庭を建物と塔が取り囲んだ巨大な建造物なので、通路も曲がり角が見えないほど長い距離がありました。通路に面した部屋はあちこちで扉が開け放たれ、つい先ほどまで人がいた痕が残っていましたが、人の姿はどこにも見当たりませんでした。行けども行けども、人がまったくいないのです。空っぽになった城内に、セイロスの足音だけが響きます。
けれども、城の中央付近まで来たとき、先のほうで通路に一筋の光を落としている部屋がありました。扉の隙間から灯りが洩れているのです。セイロスは早足に近づくと、ためらうことなく扉を開けました。とたんに豪華な調度品が並ぶ部屋が現れます。
ここまでの部屋はどこもがらんとしていて、暗く冷え切っていたのですが、この部屋は明るく、壁際の暖炉では火が燃えていました。部屋の中央のテーブルには、立派な服を着た痩せた男性が座っていて、セイロスを見て引きつった笑いを浮かべました。
「や、や、やっと来たな、セイロス――あ、あまり時間がかかるので、こ、こ、ここには来ないのかと思っていた」
セイロスは入り口に立ったまま部屋を見回し、相手へ目を向けました。
「ここにいるのは貴様だけか。だが、その声には聞き覚えがある。この城の主のザカラス国王だな」
アイル王はそれには答えずに、また引きつった笑いを浮かべてみせました。声が出せなかったのです。テーブルの上で組み合わされた両手は、ぶるぶると大きく震えています。
ふん、とセイロスは冷笑すると、部屋に入ってテーブルの前に立ちました。王を見下ろして言います。
「家来は一人残らず城から逃げ出したようだな。国王は城と共に見捨てられたか。情けない話だ」
アイル王は大きく息を吸い、それを吐き出して、ようやくまた話せるようになりました。組んだ手を震わせながら言います。
「わ、私は見捨てられたのではない。じ、じ、自分からここに残ったのだ。し、城の者たちが脱出するのを見届けて……。そ、そなたに、ザ、ザカラス国民を操られては、た、大変だからな」
セイロスはぎらりと両目を剣呑(けんのん)に光らせました。身を乗り出し、アイル王の襟首をひっつかんで椅子から持ち上げます。
「生意気に、私の邪魔をしたというのか!? くだらぬ人間の分際で! 貴様は城内の人間をどこから外に出した!? 我々は城を包囲していたはずだぞ!」
「こ――この城には、ま、魔法の隠し通路がある――。そ、そこから、に、逃がしたのだ――」
つるし上げられた王は、あえぎながら答えました。どんなに立派な服を着ても、痩せて貧弱な体は隠すことができません。セイロスに捕まれば、その手を振り切る力さえなかったのです。
「隠し通路だと?」
セイロスはアイル王を椅子に放り投げると、また部屋を見回しました。すぐに壁の一カ所に歩み寄ると、隠し扉を見つけて、中の取っ手を操作します。とたんに大きな音がして、壁に出口が開きました。城内の至る所から、同じ音が響いてきます。
セイロスは淡い光に満ちた通路の行く先を確かめ、再び扉を閉じて操作の取っ手を破壊すると、アイル王をにらみつけました。
「こんなものが城内に張り巡らしてあったのか。連中はどこへ行ったのだ?」
「わ、わ、私は知らない……か、各自好きに逃げよ、と言ったから……」
アイル王がうわずった声で答えます。
セイロスは怒りに顔を歪めると、またアイル王の襟首をつかみました。その顔面を拳(こぶし)で殴りつけます。
すると、そこへ幽霊のランジュールが姿を現しました。ちょうどアイル王が吹っ飛んで、テーブルや椅子もろともひっくり返ったところだったので、目を丸くして言います。
「何をしてるのさぁ、セイロスくん? あれぇ、このおじさん、どこかで見たことがあるなぁ。えぇっとぉ……」
「家来たちから捨てられたザカラス王だ。そちらのほうこそ、どうなった? 連中は倒せたのか?」
「ザカラス王? ああ、そぉかぁ、アイル殿下かぁ。ボクがまだ生身の魔獣使いだった頃、里によく依頼してきたザカラス王は、もう死んじゃったから、今はアイル殿下がザカラス王なんだ。でも、相変わらず頼りなさそうなおじさんだなぁ――」
のぞき込んだランジュールの後ろから、大カマキリも顔を出したので、アイル王は悲鳴を上げました。立ち上がれなくて床に尻餅をついたまま、必死に後ずさります。その顔はセイロスに殴られたために鼻血で汚れています。
うぅん、とランジュールは頭を振りました。
「ほぉんと、みっともないなぁ。ボク、こぉいうおじさんって我慢できないんだよねぇ。どぉせ殺しちゃうんだろぉ、セイロスくん? トウちゃんの餌にしてかまわないよねぇ?」
自分の名前が出てきたので、大カマキリは喜んで鎌を振り上げ、キチキチと鳴き声を立てました。アイル王は必死で後ずさりを続けています。
セイロスはうんざりしたように言いました。
「勝手に話を進めずに、私の質問に答えろ、ランジュール。連中はどうなった? 操り兵が倒したのか?」
「え? あぁ、勇者くんたちのことぉ? それがねぇ、お嬢ちゃんの魔法でぱっと姿が消えちゃって、その後どこに行ったのか、ぜぇんぜんわかんないんだなぁ。お城の中に入ったのかと思って、後を追いかけてきたんだけど、どこにも見当たらないしぃ。どぉやらザカラス城はあきらめて、逃げていっちゃったみたいだねぇ」
逃げた? とセイロスは怪訝(けげん)な顔をして、アイル王を振り向きました。
「ザカラス王がこうしてまだ城に残っているというのにか? ザカラスはロムドの同盟国だ。しかも、連中は守りの勇者なのだから、守るべき相手がいる限り、決してあきらめないはずだが」
すると、それまでずっと震えていたアイル王が、後ずさりをやめました。はぁはぁと肩で息をつき、気持ちを落ち着けるように胸を押さえて、声を振り絞ります。
「か、か、彼らは、わ、私を助けになど来ない! わ、私を助けても意味がないからだ! お、おまえたちは、つ、つ、捕まえても役に立たない人間を、つ、捕まえたのだ……!」
ぎりぎりまで張り詰めた気持ちがついに崩壊して、甲高く笑い出してしまいます。
「なに?」
セイロスとランジュールは意味がわからなくて、アイル王を見つめ直しました――。
それとほぼ同時刻。
ザカラス城からはるか東のロムド城では、トーマ王子が術師のシン・ウェイと一緒に、王の執務室に飛び込んでいました。
「国元から城の者が到着したと知らせを受けました、ロムド王! いったい誰が――!?」
とトーマ王子は言い、フルートたちの隣に二人の家臣を見つけて声を上げました。
「宰相! それに司祭長も! 父上のそばにいるはずのおまえたちが、どうしてこんなところにいるんだ!?」
王子がとがめる声になっていたので、宰相と魔法僧侶は急いでその前にひざまずきました。宰相は床に頭をすりつけるようにして言います。
「お許しください、殿下。これはすべて国王陛下のご命令なのです」
「父上の?」
と王子は言って部屋の中を見回しました。ロムド王、リーンズ宰相、ユギル、勇者の一行……ロムド側の人々は大勢いますが、父の姿はありません。
口元にマフラーを巻いたシン・ウェイが、魔法僧侶を見て深刻な顔になりました。
「あんたは城の寺院の司祭長だ。最後の最後まで城と国王を守る責任者がここにいるってことは、よほどのことが城にあったんだな?」
トーマ王子はたちまち顔色を変えました。宰相と司祭長に飛びついて尋ねます。
「何が……城で何があった!? 父上はどうされたんだ!?」
すると、フルートがそれに答えました。
「ザカラス城は敵の手に落ちたんです。セイロスと奴の軍勢がザカラス城を占拠しています。城内の人たちは秘密の通路から全員脱出しましたが、アイル王は一人城内に残って――」
王子は息を呑みました。まだひれ伏している宰相を揺すぶりますが、宰相が顔を上げようとしないので、司祭長のほうに尋ねます。
「何故だ!? 何故、父上は城に残られた!? おまえたちはどうして父上を残してここに来たんだ!?」
王子からいっそう責められて、司祭長も顔を伏せました。
「お許しください、殿下。我々も陛下に脱出を強くお勧めしたのですが、陛下は城に残るのが自分の務めだから、とおっしゃって、どうしてもご同行くださらなかったのです」
王子は怒りに身震いしました。人々の面前で家臣たちをどなりつけてしまいます。
「父上が残ると言ったから、自分たちだけで逃げてきたのか!? 父上一人を敵のいる城に残して!? おまえたちは宰相と司祭長なのに!! お――おまえたちなど――」
即刻牢屋に放り込んでやる! と言いかけて、王子はようやくここがロムド城だということを思い出しました。たとえ処罰を言い渡しても、それを実行に移すことはできません。
すると、宰相がひれ伏したまま言いました。
「我々は陛下から、城を脱出してこのロムド城へ行くように、という勅命を受けました。そして、殿下に直接これをお渡しするように、と……」
宰相が両手で差し出したのは、ずっと後生大事に抱えてきた、あの布袋でした。フルートたちもロムド城の人々も、中身については何も知らなかったので、全員が思わず注目してしまいます。
「なんだ、それは?」
と王子は尋ねましたが、宰相は袋を捧げ持ったまま顔を伏せていて、何も答えようとはしませんでした。司祭長もうつむいたままなので、しかたなくシン・ウェイが進み出て袋を受け取り、王子の元へ運びました。何かずしりと重い物が中に入っていることが、見た目からもわかります。
王子は家臣たちの様子をいぶかりながら袋の口を開けて、中をのぞき込みました。たちまちその顔から血の気が失せていきます。
袋を持っていたシン・ウェイのほうは、手触りから見当がついたようでした。こりゃぁ……とつぶやきながら袋を広げて、中身をあらわにします。
それは黄金の冠でした。周囲に大粒の宝石がはめ込まれ、全体は金色に光り輝いています。
トーマ王子は青ざめたまま、思わず一歩後ずさりました。震える声で言います。
「こ……これは父上の……ザカラス王の王冠じゃないか。どうして、これがここにあるんだ……?」
王冠は国王の象徴なので、就寝や入浴などの時を除いて、王が常に身につけているべきものでした。父のアイル王も、起きているときにはずっと、これを頭にかぶっていたのです。王子は急に嫌な予感に襲われて震え出しました。まさか……と心の中で考えます。
すると、宰相が言いました。
「左様でございます。陛下はこれを殿下に譲ると仰せになりました。そうすれば、ザカラス城を敵に奪われても、ザカラス王を敵に捕らえられたり、殺されたりすることはなくなる。新しいザカラス王を中心に、再びザカラス国を興(おこ)せるのだと――」
宰相の声が震えて途切れ、部屋の中が、しんと静かになりました。誰も何も言えなくなっていたのです。
そんな中、ロムド王がおもむろに口を開きました。
「アイル王は先の書状の最後に、このことも書かれていた。万が一の際には、城内の全員を避難させた後、自分は最後まで城に残り、王位を息子のトーマ王子に譲る。ザカラスは新しいザカラス王の下に国民を再結集させ、軍備を整え、同盟軍の一翼を担う国として闇の軍勢と戦う。その旨、よろしく頼む、と」
すると、すすり泣きの声が聞こえ始めました。床にひれ伏していた宰相が泣き出したのです。司祭長もうつむいたまま、肩をふるわせて涙をこぼしています。
「ザカラス王……新しいザカラス王……このぼくが?」
トーマ王子はそうつぶやくと、呆然と立ちすくんでしまいました。