シン・ウェイとトーマ王子は、ランジュールから逃れるために国境の橋から飛び降りました。深い谷の上にかかった橋です。谷底を流れる川までは百メートル近い断崖絶壁が続いています。
シン・ウェイはすぐに術を使おうとしましたが、恐怖にかられた王子に抱きつかれて、呪符を取り出せなくなりました。
「ば、馬鹿、しがみつくな!」
あせってどなりますが、パニックになった王子の耳には入りません。悲鳴を上げて、いっそう固くしがみつくだけです。
二人は真っ逆さまに落ちていきました。岩だらけの谷川が迫ってくるのに、青年はまだ術が使えません――。
すると、急に王子の悲鳴がやみました。墜落していく恐怖に、とうとう気を失ってしまったのです。しがみついていた力が緩み、シン・ウェイの腕が動かせるようになります。
「しめた!」
青年はすぐに懐に手を突っ込みました。谷底はもうすぐそこです。それが何の術か確かめる間もなく、呪符を取り出して読み上げます。
とたんに猛烈な風がわき起こりました。谷川の水面でつむじを巻いて水しぶきを立て、雨のようになった川の水と共にシン・ウェイと王子を吹き飛ばします。二人は川岸に生えていた木の梢に飛び込みました。大きく広がっていた枝に受け止められて、やっと墜落が止まります。
枝に顔や手をひっかかれて、あたたた、とシン・ウェイは声を上げました。
「俺はやっぱり風を操るのが下手だな……まあ、命があっただけでも上出来か」
見上げれば、彼らが飛び降りてきた石橋が、谷の上に細長い枝のようにかかっていました。あんな場所からまともに落ちたら、いくら下に川があっても、たたきつけられて即死していたでしょう。
そのとき、王子が正気に返りました。鋭く息を呑むと、シン・ウェイの腕の中で跳ね起きます。
「馬鹿、急に動くな――!」
青年は警告しましたが、間に合いませんでした。彼らの体の下で枝が折れ、二人は木の上から落ちました。幸い低木だったので、落ちても命には関わりませんでしたが、王子は痛めていた膝を岩にぶつけてしまいました。悲鳴を上げ、膝を抱えて転げ回ってしまいます。
けれども、激痛はまもなく消えていきました。驚いて目を開けると、シン・ウェイが王子の膝に呪符を貼って呪文を唱えていました。呪符はたちまち見えなくなり、王子の膝から痛みが完全に消えます。
王子は河原に横たわり、あえぎながらシン・ウェイを見上げました。青ざめた顔は涙と汗でぐしょぐしょになっていましたが、そんな自分に気がつく余裕もありません。
すると、シン・ウェイが王子の頭に手を載せました。
「膝の骨が折れていたんだ。痛かったな。もう大丈夫だ」
とたんに、王子はまた泣き出しそうになりました。シン・ウェイの大きな手が、優しく王子の頭をなでています。
そのとき、はるか頭上の橋から、ワンワンワン……とルーピーの声が聞こえてきました。それと同時に白いものが舞い降りてきます。ランジュールが後を追ってきたのです。たちまち王子たちの前にやってきて、腰に両手を当てます。
「まったく、キミたちったらぁ! あんな高い場所から飛び降りたりして、死んじゃったらどぉするつもりだったのさぁ!? トウちゃんは生きた餌しか食べないんだよぉ!」
ランジュールは決して彼らを心配しているわけではありません。
シン・ウェイは王子を背後にかばってまた呪符を握りました。ランジュールをにらみつけて言います。
「いいかげんあきらめて親方のところへ帰れ! さもないと、貴様をこの世から消滅させるぞ!」
「へぇ、どぉやってぇ? ボクは以前フーちゃんにユラサイの術を覚えさせたことがあるから、呪符がすこぉし読めるんだけど、それ、悪霊退散の呪符だろぉ? 残念でしたぁ。ボクはただの幽霊で、悪霊なんかじゃないから、その術は全然効かないよぉ」
ランジュールは余裕の顔で、ふわふわと空中に漂っていました。その後ろには大きな鎌のカマキリが飛んできています。
シン・ウェイはいっそうにらむ目になりました。
「それだけあくどいことをしているのに、まだ自分は悪霊じゃないと思っているのか。おめでたい奴だな! 破魔矢(はまや)で受けた傷は、まだ治っていないんだろう!?」
えぇっ? とランジュールは驚きました。
「破魔矢? なにさ、それぇ?」
「ことば通り、魔を打ち破る矢――つまり悪霊を撃ち抜く矢のことだ。貴様が悪霊になっているという証拠だ!」
とたんに風もないのにランジュールの前髪が揺れ、隠されていた右半分の顔がまた現れました。先の戦いで矢に射抜かれた右目は、今もまだ虚ろな穴のままです――。
ふぅん、とランジュールはつぶやきました。前髪をかきなでて右目を隠すと、残った左目で術師を見下ろします。
「つまりぃ、キミはボクが悪霊の仲間入りをしたって言いたいわけぇ? あのつまんなくて下等な悪霊どもの仲間にさぁ」
「貴様は闇の竜の仲間になった。それを悪霊と言わなかったら、なんと言うんだ!?」
とシン・ウェイは言い返すと、呪符を投げて呪文を唱えました。呪符が強い輝きに変わり、ランジュールを大きくはね飛ばします。その隙にシン・ウェイは王子の手をつかんで駆け出しました。
「逃げるぞ! 走れ!」
王子は必死になって一緒に走りました。今度は振り向いて転んだりしないように、懸命にシン・ウェイと歩調を合わせます。
ところが、ぶぶん、と羽音がして、行く手に大カマキリが舞い降りてきました。続いてランジュールもまた姿を現します。
「どぉやら、半分はキミの言うとおりみたいだねぇ。悪霊退散の術で退散はしなかったけど、けっこう飛ばされたもんねぇ。面白くないなぁ。このボクが悪霊だなんてさぁ。ボクは才能あふれる魔獣使いなのに」
ランジュールが口を尖らせていると、キチキチ、とカマキリが鳴きました。たちまちランジュールが笑顔に戻ります。
「うんうん、そぉだねぇ。魔獣使いは魔獣使いらしく、直接手は出さずにキミたちに戦ってもらわなくちゃねぇ――。いけぇ、トウちゃん! あの生意気なお兄さんが術を使えないように、マフラーを破いちゃえぇ!」
大カマキリは羽を震わせて飛び出しました。シン・ウェイが口元に巻いている白いマフラーを切り裂こうとします。
シン・ウェイはまた呪符を取り出しました。呪文と共に右腕が鋼鉄製に変わり、カマキリの鎌を払いのけます。
すると、ランジュールの笑い声がまた響きました。
「うふふ、そぉら、ひっかかったぁ! 口を狙ったと見せて、本当の狙いはこっち――トウちゃん、お兄さんの目をやれぇ!」
たちまちカマキリのもう一つの鎌がひらめきました。シン・ウェイはとっさに右腕で防ごうとしましたが、間に合いませんでした。鎌の先が、まともに彼の両目を切り裂いていきます。
つんざく悲鳴に、王子は立ちすくみました。
今まで彼を守って前に立っていたシン・ウェイが、両目を押さえて崩れていきます。宙に飛び散ったのは鮮血です。その向こうで、大カマキリがキチキチキチと得意そうに鳴きます。
ランジュールも笑いながら言いました。
「ユラサイの術は呪符を見て、声に出して読まなくちゃ発動しないもんねぇ。目を潰せば、もう呪符は読めないってわけさぁ。うふふふふ……」
シン・ウェイは石だらけの河原に膝をつきました。背を丸め、顔をおおってうめいています。王子は飛びついて叫びました。
「シン! シン、大丈夫か、シン――!?」
大丈夫なはずはありません。シン・ウェイはカマキリに両目を潰されたのです。もう何も見ることはできません。
ところが、青年は激痛にあえぎながら王子を押し返しました。
「早く……ここから逃げろ……!」
王子の体を押した手は血にまみれていました。王子の服にも血の痕がつきます。
王子は泣きそうになりました。いえ、もう泣き出していたかもしれません。両手を拳に握り、ランジュールたちへ命じます。
「あっちへ行け! シンに手出しはさせない! 即刻ここから立ち去れ!」
城で家臣を叱り飛ばすときのような、強い声でした。同時に自分の体でシン・ウェイをかばいます。
ランジュールは腰に手を当てて王子を見下ろしました。
「へぇぇ、これは意外。きぃきぃ騒いでばかりのうるさい坊やかと思ってたけど、少しは気骨もあるみたいだねぇ? うふふ、ちょっと気に入っちゃった。キミはザカラス王の預かり物を持ってることだし、キミを殺すのは後にしよぉ。トウちゃん、まずはそっちのお兄さんを真っ二つぅ。こっちの坊やは、時間をかけてじっくり殺してあげよぉ。ボク好みに、綺麗にさぁ。ふふふふ」
シン・ウェイは傷から血をしたたらせ、地面にうずくまってあえいでいましたが、それを聞いて背中を揺すりました。
「行け! 行け、早く……!」
トーマ王子が彼の上におおいかぶさっていたのです。少年の体で完全にかばうことなどできるはずはないのに、それでも必死で伸び上がり、両腕を伸ばしてシン・ウェイを抱きかかえています。どんなに言われても揺すぶられても離れようとしません。
もうっ、とランジュールはまた口を尖らせました。
「しょうがない王子様だなぁ。そぉんなにマフラーのお兄さんと一緒に死にたいの? よぉし、わかった、希望をかなえてあげる。トウちゃん、二人の頭をちょん切っちゃえ! 王子様も、まさか首に預かり物なんか持ってないはずだもんねぇ」
カマキリは宙から地面に降り立ちました。河原の岩を乗り越え、獲物に近づいていきます。王子はシン・ウェイの背中に突っ伏しているし、シン・ウェイは目を潰されているので、迫ってくるカマキリを見ることはできません。カマキリは二人の上に鎌を振り上げました。うふふっ、とランジュールが満足そうに笑います。
すると、そこへ突然一本の矢が降ってきました。カマキリのすぐ横の石に当たって跳ね返ったので、カマキリが驚いて飛びのきます。
同時に、空から声が聞こえてきました。
「ああもう、外れたじゃないのさ! へたくそだね!」
「るせぇ、急降下しながら狙いなんてつけられるか!」
「ワン、上出来ですよ。怪物が逃げたもの」
上空から谷底に向かって飛び降りてくる一団がいました。二頭の風の獣に四人の男女が乗っています。
「彼らに手を出すな、ランジュール!! おまえたちの相手は、ぼくたちだ!!」
谷に降る日差しに抜き身の剣をきらめかせて、フルートは叫びました――。