トーマ王子は術師のシン・ウェイと共に旅を続け、とうとうザカラスとロムドの国境にある関所までやってきました。
二人は呪符の力でまだ旅の兄弟に変装していました。乗合馬車から降りた他の客と一緒に、関所の建物へ進んでいきます。ここを通り抜けた先には、目もくらむほど深い谷川があって、石造りの橋がかかっています。橋を渡った先にも関所がありますが、そちらはもうロムド国の施設です。つい一年前までは、双方が侵略に備えてものものしい警備をしていたのですが、両国で和平交渉が結ばれてからは、取り調べもあまり厳しくなくなって、人の行き来が盛んに行われるようになっていました。
今も、王子とシン・ウェイは通関税を払っただけで、すんなり関所を通れてしまいました。ザカラスの乗合馬車はザカラス国内に戻っていくので、歩いて石橋を渡り、ロムド側の関所へ向かいます。
橋の上を歩きながら、王子はシン・ウェイに文句を言っていました。
「いったいいつまでこんな格好で旅をするつもりだ? 城を出てからもう六日になるぞ。早くロムド城に着かなければ、間に合わなくなるのに!」
彼らは他の客と距離を置いて一番後ろを歩いていましたが、シン・ウェイは、しっと注意しました。
「大声を出すな。あいつに見つかるぞ」
「あいつとはランジュールのことか? 奴はもういないぞ。ずっと気配もしていないんだから。いいかげん正体を明かしてロムド城に急ごう! 早くしないと、本当に間に合わなくなる!」
「馬鹿、大声を出すな。きっとここには――」
「馬鹿だと!? 今、ぼくに馬鹿と言ったのか!? 無礼者め! こちらがずっと大目に見てやっていれば図に乗りおって!」
王子は本気で腹を立て始めていました。ずっと行き場がなかった不安と心配が、シン・ウェイに向かって爆発したのです。要するに八つ当たりでした。王子の声があまり大きかったので、先を行く人々が何事かと振り向きます。
とたんに、足下を歩いていたルーピーが、ウゥゥ、とうなり出しました。黒い毛並みになった頭は、彼らの頭上をにらんでいます。シン・ウェイは飛び上がって叫びました。
「来たぞ! 走れ!」
えぇ!? と王子は立ちすくんでしまいました。犬は空へうなり続けていますが、王子の目には何も見えないのです。
すると、その空の中から声が聞こえてきました。
「なんか偉そうな口をきいてる坊やがいると思ったらぁ。その声、間違いなく王子様だよねぇ。うふふ、見ぃつけたぁ。きっとこの関所を通ると思って、ずぅっと待ってたんだよぉ」
空中に白っぽい人の姿が現れました。長い上着を着て前髪を顔の半分に垂らしたランジュールです。
それと同時に、彼らの姿も変わり始めました。王子は黒髪に薄水色の目の少年に、シン・ウェイは黒髪黒い目に白いマフラーを巻いた青年に、ルーピーもぶちの毛並みに戻ってしまいます。驚きあわてふためく王子に、青年は苦々しく言いました。
「姿変えの術は見破られたら終わりだ。だから大声を出すなと言ったのに。馬鹿め」
シン・ウェイは王子にまた馬鹿と言いましたが、今度は王子も腹を立てることができませんでした。彼らの頭上にはランジュールが浮かんでいます。先を行っていた人々が、こちらを指さして、お化けだ! 幽霊だ! と騒ぎ立てています。
ウォンオンオン! とルーピーがほえながら飛び上がりました。ランジュールに食いつこうとしたのですが、白い体に牙を立てることができなくて、また橋の上に落ちてきました。それでも全身の毛を逆立ててほえ続けます。
ランジュールは口を尖らせました。
「うるさいワンワンちゃんだなぁ。どぉせ魔獣ってわけでもないから、生かしておく必要はないよねぇ。トウちゃん、出ておいでぇ! ワンワンちゃんを刻んで食べちゃってぇ!」
ランジュールの呼びかけで、空中に大カマキリも現れました。ぶぅん、と羽根を鳴らしてルーピーへ急降下します。王子は立ちすくんだままでした。ルーピーを助けなくちゃ、と思うのに体が動きません。
すると、王子の背後から呪文が聞こえて、大きな鷲(わし)が飛び立ちました。王子とルーピーを飛び越え、襲いかかってくるカマキリに反撃します。キチキチ、とカマキリは声を上げて鎌を鷲に振り下ろしましたが、鷲は翼の一打ちで跳ね返してしまいます。
シン・ウェイは王子の手を引いて駆け出しました。
「今のうちだ! 走れ!」
行く手にはロムド側の関所がありました。数人の衛兵が騒ぎに気づいて飛び出してくるのが見えます。
けれども、そこにたどり着かないうちに、彼らの後ろでピィィと鷲の悲鳴が上がりました。思わず振り向いた王子の目に、切り裂かれて呪符に戻っていく鷲が映ります。カマキリは鎌を振り上げたまま、大きな目玉を王子たちへ向けました。次の瞬間、羽を広げてこちらへ飛んできます。
王子はあわてた拍子に足がもつれました。シン・ウェイが王子の手をつかんで走り続けていたので、引き倒されて橋の上で転んでしまいます。
「王子!」
シン・ウェイは振り向き、すぐに呪符を取り出しました。呪文と共に宙に突き出すと、白い障壁が丸い盾のように拡がり、襲ってきたカマキリを跳ね返します。
その間に王子は立ち上がりましたが、すぐにまた、がくりと膝をつきました。右足に激痛が走って、力が入りません。石造りの橋の上で転んだので、膝を痛めてしまったのです。
呪符の障壁はすぐに消えてしまいました。シン・ウェイはまた呪符で障壁を呼び出しながら叫びました。
「立て! 立って早く行くんだ!」
王子はまた立ち上がりましたが、痛くて走ることはおろか、歩くこともまともにできませんでした。よろめきながら石橋の端に寄ると、欄干にしがみついて進み始めます。右足を引きずるたびに、息が止まるほどの激痛が走りますが、王子は泣きながら必死で進んでいきました。背後で、何かがぶつかり合う音や、ルーピーがほえたてる声が聞こえてきますが、振り向いて確かめる余裕もありません。
すると、その目の前に白いものがふわりと降りてきました。行く手に立ちふさがって、うふふふ、と笑います。
「逃がさないよぉ、王子様。おとなしくボクに捕まって、持ってるものを渡しなよねぇ。セイロスくんが待ってるんだからさぁ」
王子は立ちすくみました。欄干にしがみついたままランジュールを見つめ、前へ行くことも後ずさることもできなくなります。
そこへ、シン・ウェイの声が聞こえました。
「行け、王子! そいつはただの幽霊だ! あんたには何もできないぞ!」
術師はランジュールを突き抜けて先へ進め、と言っているのでした。幽霊は半ば透き通っていて、体を通して向こう側の景色が見えています。
けれども、王子はやっぱり動けませんでした。恐怖に立ちすくんでしまったのです。欄干にしがみついたまま、がたがた震え続けます。
そんな王子にランジュールは迫ってきました。一つだけの目を光らせ、うふふ、と笑いながら言います。
「そぉそぉ、いい子だねぇ、王子様。父上のザカラス王から預かったものを出してよねぇ」
ランジュールのことばは、おびえきった王子の心を絡め取りました。王子は震えながら、胸元へ手を伸ばしました。胸の内ポケットには封をした手紙があります。
シン・ウェイは舌打ちすると、王子に駆け寄りました。片腕を王子に回して抱きかかえると、そのまま橋の欄干に足をかけ、橋の下へ飛び降ります。そこは切り立った崖の下でした。はるか眼下を谷川が流れています――。
何十メートルという高さから墜落を始めて、王子は我に返りました。けたたましい悲鳴を上げて、シン・ウェイにしがみつきます。それがシン・ウェイの腕を上から押さえつける格好になりました。今度はシン・ウェイがあわてます。
「ば、馬鹿、しがみつくな! 呪符が出せないだろう!」
パニックになっている王子と、懐から呪符を出そうと必死になるシン・ウェイ。
二人は深い谷底に向かって真っ逆さまに落ちていきました。