木々が緑の天井を拡げる森の中に、シン・ウェイは着地しました。その片腕にはトーマ王子が抱えられ、王子はぶち犬のルーピーを抱いています。
足が地面に着いたので、王子はほっとして、そのまましゃがみ込んでしまいました。おそるおそる周囲を見回して言います。
「ここは……? あの幽霊を振り切ったのか?」
シン・ウェイは前髪とマフラーの間から、鋭い目で周囲を見渡しました。
「あまり遠くへは飛んでない。あの場所からせいぜい三キロというところだ。俺の術ではそれが限界だった」
「たった三キロ!」
と王子は思わず声を上げました。
「向こうは空を飛ぶ幽霊だぞ! そのくらいの距離はあっという間じゃないか! もう一度、もっと遠くへ飛べないのか!?」
シン・ウェイは肩をすくめ返しました。
「無理を言うな。俺は光の魔法使いじゃないから、そんな強力な術をほいほい使うことはできないんだよ。この場所替えの術だって、呪符を作るのに一ヵ月以上かかるから、一枚しか準備できなかったんだ」
そんな! と王子はまた叫びました。今にも木立の向こうからランジュールたちが追いついてくるような気がして、鳥肌がたちます。
すると、ルーピーが身をよじって地面に下りました。尻尾を振りながら王子の顔をなめ始めます。
「よせったら! 何をする!」
と王子がルーピーを押し返そうとすると、シン・ウェイが笑いました。
「その犬は賢いな。主人が怖がってるのを感じて、安心させようとしてるんだぞ」
王子は真っ赤になりました。
「ぼくはこれの飼い主なんかじゃない!」
「へぇ? 俺にはそんなふうにしか見えないがな。じゃあ、そいつの飼い主は誰なんだ?」
「そ、それは――」
王子は思わず返事に詰まりました。メーレーン王女に見せるためにルーピーを連れてきたのですが、王女はルーピーの飼い主ではありません。ザカラス城で飼われている犬なので、父王が飼い主ということになるのかもしれませんが、父はルーピーのことなど名前も覚えてはいません。かといって、普段犬の世話をしている飼育係が飼い主というのも、なんだか変な気がします。
あれこれ考えているうちに、王子は少し怖さを忘れました。顔をなめる犬の舌の暖かさに、なんとなくほっとしてきます。
そうそう、とシン・ウェイはうなずきました。
「まずは落ち着くのが一番だ。幸い、あの幽霊はこっちをまだ見つけていないようだからな。今のうちにここを離れて、目的地に向かうことにしよう」
「どうやって!? 空飛ぶ馬車はあいつに奪われてしまったじゃないか!」
と王子がまた声を上げると、シン・ウェイは苦笑いしました。
「あんたは馬車がなければどこにも行けないのか? あんたの下についてる二本のそれは、いったいなんだ?」
術師が王子の脚を指さしてきたので、王子はまた驚きました。
「歩くというのか!? ――ロムド城まで!?」
「まあ、さすがにロムド城まで歩くってのは無謀だな。軽く一ヵ月以上かかるから、あまりに遅くなる。森を抜けて馬車が手に入るところまでだ」
「どっちへ行けば森を抜けられるんだ!? 本当に馬車は手に入るのか!?」
と王子は尋ね続けました。せっかく落ち着いてきた心の中が、またざわざわと波立って、不安の大嵐が起きそうになります。――父のアイル王は、ちょっとしたことにもすぐ不安になって、人目もはばからず大騒ぎすることで有名でしたが、実はトーマ王子にも同じ傾向があったのです。すぐに気持ちが揺れるし、不安に支配されてしまいます。ただ、それを外に出すのが嫌で、ことさら冷静なふりをしていただけでした。そんな王子を見て、周囲の人々は、子どもらしくない、物事に心動かされない冷たい王子だ、と言いました。本当はまったく正反対だったのですが――。
すると、大きな手が、ぽんと王子の頭をたたきました。シン・ウェイが王子の顔をのぞき込んで言います。
「だから、落ち着けって。俺は修業の旅の間、こんな場所もしょっちゅう歩いてきたんだ。ちゃんと森を抜けて、ロムド城まで連れていってやるから、心配するな」
とても暖かい声でしたが、王子はまたかっとなると、頭を振ってシン・ウェイの手を払いのけました。
「無礼な! 誰が心配していると言うんだ!? ぼくは、先の見通しを立てろと言っているだけだ! それは家臣のおまえの役目だろう!?」
本当は、涙が出るくらいシン・ウェイを頼もしく感じているのに、ついつい口ではそんなことを言ってしまいます。
青年はまた肩をすくめました。王子の暴言は無視することに決めたようで、隠しから呪符を取り出すと、呪文を唱えて一羽の白い鳥に変えます。
「人の住んでいるところへ出たい。案内してくれ」
すると、鳥は先になって飛び始めました。行くぞ、とシン・ウェイが歩き出したので、トーマ王子はあわてて後を追いかけました。その後ろをルーピーがついていきます。
ユラサイの術を使う青年、ザカラス国の皇太子、それにぶちの雄犬。
平時ならばまずあり得ないような組み合わせの一行は、ロムド城を目ざして、自分の脚で旅を始めたのでした――。