翌日、ザカラス皇太子のトーマ王子は、呼び出しを受けて父の部屋へ行きました。
何か事件があったようで、城内は前日からずっと落ち着かない雰囲気に包まれていました。城の庭を守備兵が隊列を組んで走っていき、城内の廊下を家臣たちが足早に往来しています。何が起きたのかわからない人々は、異様な雰囲気に誰もが心配そうな顔をしていました。トーマ王子も険しい表情で父王を訪ねます。ただ、父を見たとたん、いったい何事ですか!? と食ってかからない程度の分別はありました。
「す、座りなさい、トーマ」
とアイル王は息子に椅子を勧めると、部屋の中にいた衛兵や侍女を外に出しました。部屋の四隅にあった燭台(しょくだい)に自分で灯をともすと、王子の向かいの席について言います。
「こ、これは静寂の炎という、魔法の燭台だ。こ、この内側で話したことは、そ、外には洩れない」
その厳重な対応に、王子はますます厳しい顔つきになりました。緊張して父の話を待ちます。
アイル王は話し始めました。
「そ、そなたも知っているとおり、デ、デビルドラゴンは、や、闇の灰とフノラスドを利用して、この世界に復活してきた。セ、セイロスという名の男になったことは、そ、そなたも覚えているな?」
トーマ王子はうなずきました。真実の窓の戦いからまだ二カ月も過ぎていないのですから、忘れるはずはありません。
「そ、そのセイロスが、ユーラス海の北端にあるアマリル島から、ぐ、軍隊を率いて大陸に渡ってきた。じょ、上陸した先にあったトマンの国は、や、奴に占領されて、お、王や家臣たちが全員処刑されたようだ。や、奴は死者の口を借りて、つ、次はこのザカラスを攻めると言ってきた――」
トーマ王子は椅子を蹴って立ち上がりました。
「デビルドラゴンがザカラスを!?」
と思わず叫んで、あわてて周囲を見回します。自分の声を誰かに聞きつけられたのでは、と考えたのです。
アイル王は落ち着いて言いました。
「こ、ここでの会話は、外には聞こえない。ま、魔法の燭台を使っているからな。だが、て、敵の正体がデビルドラゴンだということを、む、むやみに公言してはならない。あ、あの竜は、闇と悪の権化だ。そ、その名前を聞いただけで恐怖して、た、戦う前から戦意喪失する者が出るだろう。て、敵を迎え撃つのに充分な体制が整っていない今は、な、なおさら慎重にならなくてはならない」
それを聞いて、トーマ王子は口を尖らせました。
「勇敢なザカラス兵が、戦う前に逃げ出すはずはありません! それに、このザカラス城は難攻不落の名城です。いくらデビルドラゴンが攻めてきても、落城させられるはずはないでしょう!」
「そ、それは人間の敵の話だ。や、奴は人間ではない」
とアイル王は簡潔に答え、それでも不満そうな顔をする王子へ、言い続けました。
「や、奴はどういう手段でか、せ、攻めた先々で手勢を増やしているようだ。ト、トマン城には一万の敵が攻めてきたというが、こ、このザカラスには、それ以上の敵が押し寄せるかもしれない。そ、それに、や、奴にはランジュールという幽霊が同行している。ゆ、幽霊は空から城に入り込むことができるだろう」
「ザカラス城は空へも守りの備えを怠っていません! 魔法使いたちが厳しく見張っているし、敵を撃退するために、ファイヤードラゴンも飼っているじゃありませんか! 父上こそ、敵がデビルドラゴンだというので、臆病風に吹かれているのではないのですか!?」
それは父に対する暴言でした。普通の男親であれば激怒するところですが、アイル王は怒りませんでした。王子から目をそらすと、視線を自分の膝に落として、頼りなさそうに笑います。
「お、臆病風……た、確かにそれはそうかもしれないな……。デ、デビルドラゴンは恐ろしい敵だ。だ、だから、我が国ひとつで対抗できるとは、わ、私にはとても思えないのだ……。わ、我々は闇に対抗するために、近隣の国々と、ど、同盟を結んだ。そ、それに基づいて、た、助けを呼ぼう。ト、トーマ、東隣のロムド国へ行って、え、援軍を要請してきなさい」
トーマ王子はびっくりしました。父王がロムドに援軍を要請することにも、もちろん驚きましたが、使者などという大役が自分に回ってきたことに、本当に仰天してしまいます。
「どうしてぼくに!?」
と聞き返すと、アイル王は真剣な顔と声で言いました。
「ロ、ロムド城には伝声鳥が贈ってあった。そ、それを通じて、この危機を知らせようとしたところ、と、鳥かごの鳥が死んでいたのだ。ロムドに贈った鳥の対(つい)だけではない。し、城で飼っている伝声鳥が、い、一羽残らず毒殺されていた――。ロ、ロムドに知らせるためには、ちょ、直接使者が向かうしかなくなったのだ」
伝声鳥というのは、魔法の力で創られた双子の鳥で、片方の鳥が聞いた人の声を、もう一羽が周囲の人へ伝えることができます。世界広しといえど、この鳥を創り出すことができるのはザカラスの魔法使いだけでした。あらかじめ片方の鳥さえ渡してあれば、距離も関係なく連絡が取り合えるので、ザカラスにとって非常に重要な通信手段になっています。それが一羽残らず殺されたことに、王子はまた大きな衝撃を受けました。いったい誰が!? とまた尋ねます。
「は、犯人は今も捜索中だ。だ、だが、それはそなたの役目ではない、トーマ――。そ、そなたは城を出て、そ、空飛ぶ馬車でロムド城へ行きなさい。こ、これがロムド王へ渡す書状だ」
アイル王が手紙を手渡してきたので、トーマ王子は震える手で受けとりました。文章をしたためた羊皮紙を折りたたみ、開封できないように、蝋(ろう)で封印してあります。封印に押されたザカラス王の印章は、これが紛れもなく王からの手紙であることを示しています。
ことばもなくそれを見つめている王子へ、アイル王は話し続けました。
「そ、そなたはまだ十二だ。に、荷の重い任務だということは、しょ、承知している。だ、だが、この城内にはすでに、て、敵の手の者が入り込んでいる。伝声鳥が殺されたのが、そ、その証拠だ――。こ、こうなっては、一刻の猶予もならない。ひ、秘密の通路を使って、し、城を抜け出しなさい、トーマ。脱出先に、ば、馬車を待たせてある」
父上、と王子はいいました。やっぱり、それ以上ことばを続けることはできません。彼が考えていた以上に、事態は差し迫っていたのです。
すると、アイル王は急に微笑しました。相変わらず頼りなく見える顔ですが、それでも王子を安心させるように言います。
「ば、馬車には頼りになる供を、ど、同乗させる。そ、それと、なんと言ったかな――メーレーン姫が気に入っていた子犬。あ、あれも乗せるように命じておいた。ロ、ロムド城にはメーレーン姫がいる。姫は、つ、つい昨日も、そなたとあの犬にまた会いたいと言っていたのだ」
それを聞いて、トーマ王子は真っ赤になりました。二つ年上のかわいらしい従姉妹(いとこ)を思い出してしまったのです。王子は城にいるときにはいつも、青いバラの刺繍の肩掛けをはおっていました。この肩掛けを作って贈ってくれたのは、メーレーン姫です。
アイル王はいっそう優しい目になって言いました。
「い、行ってくれるな、トーマ。ザ、ザカラスの命運は、そなたの肩にかかっている。き、気をつけていきなさい」
「はい、父上」
と王子は答えました。預かった手紙を上着の内ポケットへ大切にしまい、暖炉のそばに立ちます。そこが秘密の通路の入口だったのです。
アイル王は、部屋の一画から燭台を持ってきて、王子に手渡しました。
「て、敵は城内で聞き耳を立てているかもしれない。こ、この火が燃え尽きる前に、し、城を抜け出しなさい」
静寂の炎が燃える蝋燭(ろうそく)を受けとって、王子はうなずきました。父王が開けてくれた入口をくぐって、通路へ踏み込みます。通路の中には下りの階段があって、闇の中に見えなくなっていました。蝋燭の弱い灯りでは、先の様子もよくわかりませんが、唇をぎゅっと結び、足元をしっかり見据えながら歩き出します。その後ろで、通路の入口が音もなく閉まっていきます――。
部屋に自分一人きりになったアイル王は、それでもまだしばらく暖炉を見つめ続けました。その向こうには脱出用の通路が隠されているのですが、その秘密を知る人間はほとんどいません。無事に、と願いながら、残った燭台から静寂の火を消していきます。
そこへ、扉の外から声がしました。
「陛下! 火急の知らせでございます!」
王はすぐに応えました。
「は、入れ」
転がり込むように王の部屋に入ってきたのは、宰相と鎧姿の兵士でした。兵士はたった今駆けつけてきたばかりのように、肩で息をしていました。王の胸を嫌な予感がよぎっていきます。
「い、いったい何事だ?」
すると、兵士が王の前にひざまずいて、小さな書きつけを差し出しました。書きつけには細かく折りたたまれた痕があります。
「国境に近いムーバン候の館から見張りの塔に、早鳥による知らせが入りました! 昨日未明、謎の軍勢が北隣のトマン国から国境を越えて侵入! 館を取り囲んで攻撃を仕掛けてきたとのことです!」
アイル王は青ざめて書きつけに目を通しました。謎の軍勢が何者なのかは、火を見るよりも明らかです。
「も、もうやってきたのか……な、なんという速さだ」
そのことばを弱気と感じたのか、宰相が強く訴えました。
「陛下、今すぐ出撃のご命令を! 侵略者を迎え撃たなくてはなりません!」
「む、無論だ――。み、都にいる兵の半数は北へ、の、残りの半数は都の守りを堅めよ。また、国内の諸侯へ出動を呼びかけよ。て、敵の目的地は、こ、このザカラス城なのだ」
「御意!」
宰相が命令を伝えるために飛び出していき、知らせを運んできた兵士も急いで退出していきました。代わりに衛兵たちが王を守るために部屋に飛び込んできます。いつの間にか部屋からトーマ王子が消えていたのですが、状況が状況なので、それに気がつく者はありません。
ものものしい雰囲気の中、アイル王は黙って東の方角を見ました。その彼方には、これからトーマ王子が向かうロムド国がありました――。