「貴様! 何故こんなところにいる!?」
と白の魔法使いが空に向かってどなりました。闇の灰の雲から、強烈な闇の気配と共に姿を現したのは、魔獣使いの幽霊のランジュールだったのです。
うふふ、とランジュールはまた女のように笑いました。呆然としている魔法使いたちや、幽霊に驚いている衛兵たちを見下ろして言います。
「ボクはしばらく前から、この灰の中にいたんだよぉ。これって、闇がたくさん含まれてる灰なんだよねぇ。この中で待ち伏せてると、闇の怪物がたくさん捕まるから、ここで魔獣集めをしていたのさ。フーちゃんと一緒にねぇ」
ランジュールが透き通った腕を上げると、雲の中から巨大な生き物が現れました。大木のような太さの首をした、黒い蛇です。ジャアア、と地上へ牙をむきます。
すると、それに続いて、大蛇が次々と雲から顔を出しました。黒い蛇が合計三匹、白い蛇が二匹、赤い蛇と青い蛇と金の蛇までが姿を現します。
大蛇の数を素早くかぞえて、大隊長は言いました。
「八匹もいるのか! だが、なんという大きさだ――!」
蛇たちは頭の先のほうだけを雲から突き出しているのですが、それだけでも二十メートル近くあったのです。頭の一つ一つが小山のようです。
ところが、白の魔法使いが言いました。
「いいえ、あの蛇は八匹で一匹です! フノラスドという怪物なのです!」
「うふん、そぉいうこと。出ておいでぇ、フーちゃん」
ランジュールが得意そうに言うと、雲の中から巨大な蛇が這い出してきました。色違いの頭と尾が八つずつありますが、すべてが一つの胴体から伸びています。頭の先から尾の先までは、実に百メートル以上もありました。あまりの巨大さに、大隊長や衛兵たちは思わず後ずさり、魔法使いたちは魔法を操るのを忘れそうになります。
とたんに青の魔法使いがまたどなりました。
「風を止めてはなりませんぞ! 魔法を続けなさい!」
その声に魔法使いたちが我に返って風を支えたので、ランジュールは舌打ちしました。
「だぁからぁ、せっかくの灰を散らさないで、って言ってるじゃないかぁ。まだまだ本命が捕まらないんだからさぁ」
「本命? 貴様は何を狙っている!?」
と白の魔法使いが聞きとがめると、ランジュールは細い目をきらっと剣呑(けんのん)に光らせました。
「うふふ、それは教えなぁい。とにかく、雲をなくされちゃ、ボクは困るんだなぁ。さっさと魔法をやめてよねぇ」
昼下がりのベンチでひなたぼっこをしながら話しているような、なんとものんびりした口調ですが、女神官はますます警戒を強めました。
「貴様はこれまで何度となく皇太子殿下や勇者殿のお命を狙ってきた! 貴様が油断ならない奴なのはわかっている! 貴様こそ、さっさとここから立ち去れ!」
「やぁだぁよぉ。どぉしてもボクたちを追い出そうって言うなら、こっちにだって考えがあるんだからねぇ」
とランジュールは言うと、後ろの蛇を振り向きました。
「黒イチちゃん、闇の息ぃ! あそこにいる人間をみんな即死させちゃってぇ!」
人々はいっせいに身構えました。闇の息とは、先ほどの黒い霧に違いありません。女神官が杖を掲げて障壁を強めます。
ところが蛇は闇の息を吐きませんでした。シャアシャア、と自分の主人へ何かを訴えます。
えぇ? とランジュールは言いました。
「人間を殺さずに、自分に食わせてくれ、だってぇ? 生きた人間でないと、まずくて食えないから――? だからね、フーちゃん、いつも言っているだろぉ? キミは人間の魂を百人分食べると、強制的に眠らされちゃうんだよ。そぉいう魔法が組み込まれてるんだからさぁ。キミはもう、九十七人分の魂でほとんど満腹なんだよぉ。え、九十六人分までお腹が減ってきたって? とにかく、ダメったらダメ! その分は勇者くんや皇太子くんを食べるのにとっておくんだからさぁ、これ以上人間を食べちゃダメなの」
シャアシャアシャア! 黒い蛇が負けずに言い返します。
空で大蛇と幽霊が口論を始めたので、呆気にとられていた大隊長が我に返りました。部下たちに命じます。
「蛇はあの幽霊が操っているらしい! 幽霊に攻撃しろ!」
白の魔法使いたちは、無駄だ! と止めようとしました。相手は幽霊なのですから、通常の攻撃が効くはずはありません。
ところが、兵士たちは長弓を引き絞って矢を射かけました。幾本もの矢が障壁の上を越えてランジュールへ飛んでいきます。
ランジュールは余裕でそれを眺めました。
「やだなぁ、兵隊さんたちったら。ボクがそんなものでやられるわけないのにさぁ――」
そこへ白い蛇の頭が飛び出してきました。ランジュールに抗議していたのとは別の頭です。飛んできた矢に食いついて呑み込んでしまいますが、一本だけ呑み込みそこねました。飛んでいった矢がランジュールの上着を貫き、上着の裾をばっと飛散させます。
えぇ!? とランジュールは驚きました。
「ボクに当たったぁ!? 何さ、この矢!? ボクの上着がぼろぼろになって、元に戻らないじゃないかぁ!」
すると、大隊長がまたどなりました。
「見たか、幽霊め! 怪物の中には、あの世から呼び出されてくる連中もいるから、我々は死せる者を倒す矢も常備しているのだ!」
つまり、幽霊にも効果のある魔法の矢だったということです。兵士たちが同じ矢をまた構えます。
ランジュールは、きいきいと怒り続けました。
「あったまきたぁ! ボクのお気に入りの服を破いちゃってさぁ! 白ニィちゃんが守ってくれなかったら、ボクも怪我したじゃないかぁ! 人間のくせに幽霊を傷つけようとするなんて生意気! そんなの筋じゃないよぉ!」
わめいている間に、ランジュールの破れた上着が元に戻っていきました。赤かった色は、死に装束(しょうぞく)のような白い色になり、デザインもこれまでのものと少し変わります。
「うぅん、まぁ、こんなものかなぁ」
と幽霊は自分の服を見回して溜息をつくと、改めて衛兵たちを見下ろしました。急に目を細め、口元に薄く笑みを浮かべて言います。
「決定。全員皆殺しぃ」
ぞっとするほど冷ややかな声です。
すると、背後から、ずいと大蛇が進み出てきました。八つの頭を高く上げ、シャァァ、と同時に声を上げます。
ランジュールは地上を指さして言いました。
「行けぇ、フーちゃん!」
命令と同時にランジュール自身は蛇の前から姿を消し、もっと空高い場所に現れます。
三つの黒い頭が口を開け、いっせいに闇の息を吐きました。大量の死の霧が押し寄せてきます。
白の魔法使いはトネリコの杖を振りました。今までの障壁に新しい障壁を重ね、素早く杖をふり直して、さらにもう一つ壁を重ねます。
すると、押し寄せてきた黒い霧が、光の障壁に激突しました。障壁の前で渦巻き、壁に沿って這い上がると、その内側へ流れ込んできます。とたんに、どん、と音がして壁が消し飛びました。闇の息に包み込まれて、光の障壁が壊れてしまったのです。
黒い霧は渦を巻いて次の壁に押し寄せ、それも乗り越えて吹き飛ばしました。残る障壁はあと一つだけです。
白の魔法使いは唇をかみしめると、最後の障壁を高く伸ばし始めました。この壁を破られれば、闇の息がその場にいる全員に襲いかかり、衛兵も魔法使いも一人残らず命を奪われてしまいます。障壁を高くすることで、闇の息を防ごうとしますが、頭上には灰の風も吹いているので、その部分だけには障壁を張ることができません。闇の息が風に巻き込まれ、灰色だった風を黒くにごらせていきます――。
とたんに赤の魔法使いが叫びました。
「ウペーポ、レガ、タ!」
ムヴアの術で操っていた風が、いきなり向きを変えて乱れ始めたのです。大きく蛇行すると、次に控えていた青の魔法使いの頭上を飛び越え、障壁のこちら側で暴れ回ります。
「赤! 風を止めろ! 青、皆を守れ!」
と女神官は叫んで、また杖を掲げました。風が途切れた瞬間に障壁を一気に引きあげて、闇の息を完全に防ぎます。
「はぁっ!」
と武僧は荒れ狂う風へ杖を突きつけました。青い光が風に激突し、魔法使いや兵士に吹きつける前に、風を四散させます。
すると、異大陸の魔法使いがまた叫びました。
「タ! ウペーポ、ルウ!」
彼が魔法を止めても、雲から灰は次々に噴き出し、うねりながらこちらに向かっていたのです。光の障壁に激突して、壁をびりびりと震わせます。
へぇ? とランジュールは空中で言いました。
「黒ちゃんたちの闇の息が、闇の灰を活性化させたのかなぁ? 灰が自分から動いてくれてるよ? フーちゃんがいくら尻尾でかき回してもダメだったのにさぁ――。黒ちゃんたち、どんどん闇の息を送り出せぇ! 灰の雲全体を動かしちゃおう!」
嬉しそうなランジュールの声に、蛇の怪物はまた黒い霧を吐きました。霧が灰の風に混じり合うと、風はますます乱れ狂い、光の障壁にぶつかり、空を駆け回って、灰の雲にまた飛び込みます。それが重い雲全体をかき回し、雲が沸きたつように動き出しました。あちこちの雲間で、ぴかりぴかりと稲妻が光り出します。
「まずい!」
と女神官は思わず叫びました。風が雲の中に渦を作り始めているのが見えたのです。渦は闇の灰を一箇所に集めていきます。
寄り集まった灰の中心から、何かが生まれようとしていました――。