フルートたちは眠ってしまった祖母を起こさないように、そっと寝室を抜け出し、階下の衣装部屋に戻りました。そこでようやくまともに話ができるようになります。
「ああ、緊張した! これまでの女装の中で一番気を遣ったな!」
とフルートは言って、長持ちと呼ばれる衣装箱に腰を下ろしました。両脚を行儀悪く前に投げ出します。
メールが拾ってきた帽子を掲げました。
「帽子が脱げたときには、どうなることかと思ったよねぇ。よく、とっさにあんな言い訳を思いついたね」
「実際にシルにいるんだよ。仕事に邪魔だから、って髪を短くしている女の人が――。でも、お母さんは本当に自分の髪の毛を大切にしてるから、こんなふうに切ったりはしないけれどね」
とフルートは苦笑します。まだ小花模様のドレスに白いマントという恰好ですが、表情は男に戻っていました。
ポポロがフルートのマントを脱がせながら言いました。
「服が窮屈なのをおばあさんに気がつかれなくて良かったわね……。急いでつけた紐だから、切れたらどうしようって心配していたのよ」
マントを外した下のドレスは、背中のボタンが途中までしか留まっていませんでした。フルートの体のほうがドレスより大きくて、ボタンをはめることができなかったのです。他のどのドレスもフルートの体を完全に収めることはできなかったので、しかたなくポポロが紐をドレスに縫いつけて縛り、空いたままの背中をメールのマントで隠しました。ドレスの下からのぞいている靴も、フルートが元々はいていたものでした。お母さんの靴は衣装部屋にいくつもあったのですが、どれもフルートには小さすぎたのです。
ポポロがドレスの紐をほどくと、フルートは大きな息をしました。
「ああ、楽になった。ありがとう」
「ワン、フルートは今ではもうお母さんより大きくなってしまってるんですね」
とポチが言います。
ドレスを脱ぎ始めたフルートを、仲間たちは見守りました。美しい娘に見えていた姿が、たちまち袖なしシャツにズボンの少年の姿に変わっていきます。まだ顔に化粧は残っていますが、もう女性のようには見えません。
「体型補正の下着もなかったから、大変だったわね。胸の詰め物がずれなくて良かったわ」
とルルが言ったので、フルートは肩をすくめました。
「あっちこっち、見られちゃ困るところがあったから、本当に気を遣ったんだ。おばあさんが信じてくれて良かったよ」
話すフルートの首には、金のペンダントが揺れています。ゼンが言いました。
「おまえ、さっき、最後にばあちゃんに金の石を押し当てただろう? そうしたら、ばあちゃんが眠っちまったけれどよ。あれは何をしたんだ?」
「あ、それはあたいも思ったよ。金の石に人を眠らせる力なんかあったっけ?」
とメールも言います。
フルートは首を振りました。
「そんな力はないよ。金の石は癒しの力と闇から守る力を持っているだけだ。ただ、おばあさんは腰が痛そうだった。金の石がそれを癒したから、痛みが消えて、おばあさんは眠ったんだよ」
「ははぁ。気持ちよくなって眠っちまったわけだな」
とゼンは納得しましたが、メールのほうはまだ首をひねっていました。
「おばあさんの頭のほうは? 呆けたのも金の石で治せたのかい?」
いつものことながら、単刀直入に質問してくるメールです。
フルートはまた苦笑しました。
「わからない。たぶん無理だと思うな。金の石は痛みや病気は癒せるけれど、おばあさんの物忘れは年齢のせいだからね……。金の石も、人の老化まで癒すことはできないんだ。例えば、歳をとって曲がった腰は、いくら金の石を使っても、やっぱり曲がったままなんだよ」
「ワン、もし老化まで癒してしまったら、金の石を使ってもらった人が全員、若者か子どもになっちゃいますからね。それは逆に困りますよ」
とポチも言います。
フルートは胸のペンダントを見つめて言い続けました。
「おばあさんを正気に戻すのは、きっと無理だけど、少しでも安心してくれたらいいな……。お母さんは西部で本当に元気に暮らしているんだもの。確かに体は弱いけれど、シルの町には腕のいい先生がいるから大丈夫なんだ。町の人たちとも仲よくしていて、いつも助け合っているし。だから、おばあさんにも安心してほしいと思うよ……」
そのシルの町で、フルートは歳をとって物忘れをするようになった老人を見てきていました。どんなに丁寧に話しても、どんなにしっかり言い聞かせても、時間がたてば老人の頭から記憶は消えてしまいました。フルートの祖母も、そんなふうにまた元に戻るのかもしれません。娘に化けたフルートと話したことも忘れて、ハンナがいない、とまた捜し回るのかもしれないのです。フルートは着替えの手を止めてうつむいてしまいました――。
すると、衣装部屋の入口から老人の声がしました。
「家内は忘れてしまっても、私が覚えているよ。家内が探すたびに、私が言い聞かせよう。ハンナは西部で元気に暮らしているよ、チャールズも元気で、優しくて立派な息子も生まれて、幸せに暮らしているんだよ、と……」
フルートの祖父がそこにいました。フルートたちが衣装部屋の入口を開けっ放しにしていたので、その外に立って、彼らの話を全部聞いていたのでした。
「おじいさん」
とフルートは言いました。自分がまだ化粧をしたままだったことを思い出し、急いで布を取りだして、顔をこすります。
そんなフルートの前に祖父が立ちました。優しい目と声で言います。
「君はハンナとチャールズの息子だったんだな……。さっき、居間であったことも、やっと思い出したよ。君たちは恐ろしいサソリの怪物から私たちを守ってくれたね。それに、その金色の石――。金の石の勇者というのは、君のことだったんだな。私の孫が噂の勇者で、私たちを助けてくれたとはね。何もかも、ユリスナイ様のおはからいに違いない」
祖父は老いた目に薄く涙を浮かべていました。おじいさん、とまた言ったフルートを、両腕の中にしっかりと抱きしめます。
「ハンナは本当に幸せなのだな。君を見ればわかる。君のような良い子が育てられているんだ。幸せでなければ、できるはずがない――」
祖父の声が震えます。
フルートは祖父の腕の中で言いました。
「お母さんたちは、おじいさんとおばあさんをいつも気にかけています。ぼくも、ずっと会いたいと思ってきました。こうしてお会いすることができて、本当に良かったと思ってます」
祖父は涙をこぼしながら、うんうん、とうなずきます。
すると、ポポロが遠慮がちに言いました。
「みんな……窓の外を見て」
衣装部屋には窓があって、外の光を入れるためにカーテンを開けてありました。そのガラスの向こう側の中庭に、もうひとつの窓が見えていたのです。空中に窓枠だけが浮かび、周囲に蔦(つた)のような縁飾りを伸ばしています。真実の窓がまた出現したのでした。
それを見たフルートは、祖父をそっと押し返しました。
「ぼくたちはもう行かなくちゃ。時間が来たんです」
祖父はまだ涙ぐんでいましたが、それでもフルートにうなずきました。
「金の石の勇者は闇の敵から世界を守っているのだったな。立派な役目だ。私にこんなすばらしい孫が生まれていたことを、心から誇りに思うぞ」
「ありがとうございます」
とフルートは鎧兜や武器を身につけながら、にこりと笑い返しました。装備を整えて勇ましい姿になっても、笑顔は優しいままのフルートです。
ところが、フルートは急に祖母から渡された指輪のことを思い出しました。ドレスの隠しにしまっておいたので、あわてて取り出して祖父へ差し出します。
「これ、お返ししておきます。おばあさんの大切なものですから」
すると、祖父はそれをフルートへ押し返して言いました。
「これは家内の気持ちだ。戦いの邪魔になってしまうかもしれないが、持っていってハンナに届けてやってくれないか? そして、ハンナとチャールズに伝えてくれ。私たちは今はレコルに住んでいるから、いつでも訪ねてきなさい、とね。その時に君もまた来てくれたら嬉しいな」
「フルートです、おじいさん」
とフルートは名乗りました。祖父がまた大きくうなずきます――。
フルートたちが屋敷から出て行っても、老人は衣装部屋に残っていました。見送らないでほしい、と彼らに言われたからです。孫たちは世界を闇から守る勇者の一行でした。強大な敵と戦うために、彼の知らない場所へまた旅立っていくのです。
過ぎてしまえば、何もかも夢だったような気がしてきますが、衣装部屋にはフルートが脱いでいった小花模様のドレスが置きっぱなしになっていました。短い髪を隠していたベール付きの帽子も、長持ちの上に残されています。やっぱり夢なんかじゃなかった、と老人は自分に言い聞かせます。
すると、そこへひょっこり妻が顔をのぞかせました。目を覚まして、自分一人で二階から下りてきたのです。夫を見つけて言います。
「こんなところにいたのね、ロレン。見当たらないから探したわよ」
妻がいやにまともなことを言うので、彼は目を丸くしました。彼女から名前で呼ばれたのも久しぶりのことです。そばへ行って顔をのぞき込んでみます。
妻はにこにこと笑っていましたが、彼を見ているにしては、いやに遠い目をしていました。笑顔も虚ろな感じで、誰に向かって笑っているのかわかりません。
老人は溜息をつき、彼女が夜着姿のままなのに気がついて言いました。
「その恰好では風邪をひくよ、おまえ。ベッドに戻ろう。夕方までにはパティも来るから、そうしたら食事を作ってもらおう」
すると、妻は急に、ハンナ、と言いました。女中の名前を娘の名前と聞き間違えたようです。夫は、どきりとしました。妻がまた娘を捜して半狂乱になるのでは、と身構えてしまいます。
ところが、妻は穏やかに笑いました。
「ハンナの衣装部屋に来たって、あの子はこんなところにはいませんよ、ロレン。あの子はチャールズと西部にいるんですからね。でも、大丈夫。あの子は私の指輪を持っていったんですもの。何があっても、きっと指輪があの子たちを助けるわ」
そう言って、妻は自分の左手を目の前にかざしました。そこに緑の翡翠の指輪はもうありません。指輪がなくなった手を、嬉しそうに見つめています。
夫は思わず妻を抱きしめました。冷えた体を自分の体で包み込んで言います。
「そうだ。あの子たちは大丈夫だよ。西部で皆と助け合いながら、たくましく生きているんだ。すばらしい、優しい息子にも恵まれてな――」
フルートたちが去り際にカーテンを引いていった窓の向こうで、風の音がしました。
音はうなりながら頭上へ遠ざかり、それきり聞こえなくなってしまいました。