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第20巻「真実の窓の戦い」

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32.娘

 老いて錯乱した妻は、さんざん泣いて騒いだあげくに、とうとう疲れて眠ってしまいました。ベッドに倒れるように寝てくれたのが幸いでした。老人は妻をなだめるのに疲れ果てて、抱き上げてベッドまで運ぶ力など残っていなかったのです。なんとか妻の体をベッドの真ん中へ動かすと、布団をかけ、自分は椅子に座り込んでしまいました。それきり、もう立ち上がる元気も出てきません。

 妻は先ほどの騒ぎが嘘のように、安らかな顔で眠っていました。寝顔だけを見ていれば、以前と少しも変わらない妻です。この安らかさがずっと続いてほしいと思いますが、妻は目を覚ませばすぐまた娘を捜し始めるのに決まっていました。どんなに呼んでも探しても、もう二度と会えない娘だというのに――。

 老人は妻の寝顔を見ながら、思わずつぶやいていました。

「おまえは私に罰を与えているのかい、グレンダ……? 私がハンナとチャールズの結婚を許さず、困っているはずのあの子たちになんの援助も与えてやらなかったから。あの子が死んだのは私のせいだ、と呆けてもなお私を責め続けているのかい?」

 妻は何も答えませんでした。ただ静かに寝息を立てているだけです――。

 

 老人は、何かが自分の前を通り過ぎていった気がして、はっと目を覚ましました。椅子に座ったまま、いつの間にか眠り込んでいたのです。

 急いでベッドを見ると、妻は先ほどと同じように眠っていました。妻が目を覚ましてベッドを抜け出したのではありません。

 代わりにベッドのそばにいたのは、うら若い女性でした。小花模様のドレスをまとい、毛皮の襟がついた白いマントをはおり、頭には短いベールがついた帽子をかぶっています。どこかで見たような娘だ、と老人は考えました。まだ完全に目が覚めていなかったのです。なんだかとても懐かしいような気がして、女性を眺め続けます。

 すると、女性はベッドの妻にかがみ込んで言いました。

「お母さん、目を覚ましてくださいな」

 優しい声が老人の耳を柔らかく打ちます――。

 老人は仰天して椅子から飛び上がりました。

「ハンナ!?」

 と大声を上げます。その声に女性が振り向きました。

 それは確かに彼らの娘でした。優しく美しい顔立ち、帽子の下からのぞく輝く金の前髪、お気に入りだった小花模様のドレス……彼らの元を去って西部へ行った娘が、そこに立っていたのです。これは夢だろうか、それとも死んだ娘が幽霊になって現れたんだろうか、と老人は考えてしまいます。

 すると、娘がにっこり笑いました。

「お父さん」

 と言います。老人は思わず背筋が震えました。それは、片時も忘れたことがなかった娘の声だったのです。

 けれども、同時に老人はあれから二十年近い歳月が過ぎていることも思い出しました。彼も妻も二十年分年老いましたが、目の前にいる娘はあの頃と同じ姿で、少しも歳をとったように見えません。これはやっぱり幽霊なのか――と考えます。

 

 小花模様のドレスの娘は、また自分の母親にかがみ込みました。優しい声で呼び続けます。

「お母さん、お母さん、起きてくださいな。お母さん……」

 ついには手を伸ばして母親を揺り起こします。すると、母親は目を覚ましました。自分をのぞき込んでいる娘を、きょとんと見上げ――

「ハンナや!!」

 と叫んでベッドの上に跳ね起きます。

 幽霊のはずの娘は、母親に抱かれて、ほほえみながらそれを抱き返しました。

「ええ、私よ、お母さん。心配させてごめんなさい」

 と優しく言い続けます。

 老いた母親は堅く娘を抱きしめ、確かめるように何度もその体をなでました。

「ああ、ハンナ、大丈夫だったかい? 胸は苦しくない? 具合は悪くないの? あなたが西部へ行ってしまってから、私は本当に心配で心配で……ああ、でも良かった。ちゃんと元気でいたのね。無事でいてくれて、本当に安心したわ……」

 涙ながらに話す母親は、話の内容もすっかりまともになっていました。ただ、娘が二十年前と同じ姿で現れていることは、不思議に思えないようでした。娘を抱いて、良かった良かったと繰り返すばかりです。

 娘は話し続けました。

「聞いてね、お母さん……。私は西部のシルという町で、チャールズと一緒に元気で暮らしているのよ。子どもも生まれたわ。男の子で、フルートと名前をつけたの。チャールズは開拓団の仲間の人たちと一緒に大きな牧場を経営しているわ。牛も三百頭に増えたのよ。だから、お母さん、心配しないでね。私たちは元気でいるから。私たちは、幸せだから……」

 けれども、老いた母親は、そんな娘の話も理解はできないようでした。娘の頭をなでながら言います。

「西部は大変だったでしょう? 麦も牧草も育たない、それはひどいところだと聞いているわ。あなたが帰ってきてくれて、本当に良かった。お父さんだって、もう、あなたに怒ってなんていないんですよ。そうだ、大工を呼んで、あなたの部屋を作らせなくちゃ。家具屋も呼んでベッドを買って。そうそう、あなたの好きなミートパイも焼いてあげましょうね」

 それを聞いて、娘は焦るような表情になりました。あのね、お母さん――と頭を上げてまた言おうとします。

 とたんに、母親の手が娘の帽子を払いのけてしまいました。ベールのついた丸い帽子が飛んで床の上に落ちます。あとに現れたのは、輝く金髪を短く切りそろえた頭でした。まるで少年のような髪型です。

 

 老いた母親はびっくりした顔になりました。

「まあ、ハンナや! その髪の毛はどうしたの!? あんなに自分の髪を大切にしていたのに!」

 娘も驚きうろたえていましたが、すぐにまた落ち着いた表情に戻りました。

「切ったのよ、お母さん。西部で働いていくのには、長い髪は邪魔だったの。動きやすくて、とてもいいのよ」

 と短い髪のまま悪びれる様子もなく言います。

 まぁまぁまぁ――と母親はまた涙ぐみました。

「あなたはそんな姿で一生懸命働いていたのね。チャールズと二人で。ちょっと待ちなさい」

 そう言って母親は娘を放し、背中を丸めて自分の左手から指輪を引き抜きました。金の輪に大きな楕円形の緑の石がついています。

 それを娘に差し出しながら、母親は言いました。

「あの日、あなたが身の回りのものを鞄に詰めて、迎えに来たチャールズと家を出て行ったときに、私が二階の窓から大声で呼び止めたのを覚えているでしょう? あなたたちは戻ってきてくれなかったけれど。私はね、あなたにこれを持たせたかったのよ。これは私のお母さんが私に譲ってくれた指輪ですよ。この石は東方で採れた翡翠(ひすい)なの。西部で生活に困ったら、これを売ってお金に替えなさい。これだけ大きな翡翠なら、きっと高く売れるから、しばらくは食べていけるはずよ。その間に暮らしを建て直しなさい」

 お母さん、と娘は声を震わせました。老いた母親を見上げたまま、それ以上ことばが続きません。

 そんな娘に母親は指輪を握らせました。返そうとする娘の手を押しとどめて言い続けます。

「あなたがこれを持っていってくれれば、私は本当に安心できるんですよ。もしも具合が悪くなって、お金が必要になったときにも、これを売りなさいね。西部で一番いいお医者様を呼んで、しっかり診てもらうんですよ」

 娘は指輪を握りしめると、何度もうなずきました。その瞳に涙が光ります。

 母親はほほえみました。娘とよく似た笑顔で、また娘を抱きしめて言い続けます。

「お父さんを許してあげてね、ハンナ。お父さんはね、あなたたちのことが本当に心配だったのよ。でも、お父さんも、あなたたちが元気だったと聞けば、きっととても喜ぶことでしょう。いつもあんなに頑固な人だけれど、本当は人一倍情の深い人なんですよ」

 母親は自分の夫がすぐそばにいることに気づいていませんでした。まるで夫が留守のようなことを言って、内緒話をしたときのように笑います。夫が何かをこらえるように拳を握っても、やっぱり少しも気がつきません――。

 その時、娘がドレスの隠しから何かを取り出しました。金の透かし彫りに金色の石をはめ込んだ、美しいペンダントです。優しい手つきで、それを母親に押し当てます。

 すると、母親は急にゆっくりと倒れていきました。娘の手に支えられながらベッドに倒れ込み、そのまま、また寝息をたてて眠り始めます。

 

 娘は母親に布団をかけ、寝顔をもう一度のぞき込んでから、寝室の入口を振り向きました。そこには勇者の仲間たちが立っていて、中でのやりとりをずっと見守っていました。少女たちはもらい泣きをしています。

「これが限界だ。もうこれ以上はできないよ」

 とドレス姿の娘は、少し苦笑いをして言いました。その声は急に低くなっていました。さっきの優しく澄んだ声ではなく、男の声になってしまっています。

「声変わりの薬の効果が切れたんだな。だが、充分だったと思うぜ。お疲れさん」

 とゼンはフルートへ言いました――。

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