フルートたちは、寝室に飛び込んだとたん、目を丸くしてしまいました。
彼らは、闇の灰から生まれた怪物が老婦人を襲ったのではないか、と考えたのですが、そんなものはどこにもいなかったのです。老婦人は夜着姿でベッドの上に起き上がり、布団を抱いて叫んでいました。階下にいては聞き取れなかったことばが、はっきり聞こえてきます。
「ハンナ! ハンナ、どこに行ったの!? 返事をしなさい! ハンナや――!」
老婦人は娘の名を呼び続けていました。年老いた小さな体のどこからこんな声が出るのだろう、と思うような大声です。きょろきょろと部屋を見回していますが、入口に立ちつくす一行は目に入らないようでした。先頭にはフルートがいたのですが、今度はそれもまったく無視です。
老人がやっと到着して、部屋に入ってきました。ベッドの妻に駆け寄って体を抑えます。
「落ち着け、グレンダ! ハンナはいないんだ! もう二十年も前に家を出て行ったじゃないか!」
けれども、彼女には夫の声も聞こえていませんでした。抑える手を振りきろうともがきながら、大声で呼び続けます。
「ハンナ! ハンナ! 早く戻ってらっしゃい! 外にいたら体が冷えますよ! 発作が起きたらどうするの――!?」
老婦人は相変わらず虚ろな目をしていました。部屋にいる誰のこともわからないようなのに、娘の体を案じて呼び続けています。ゼンとメール、ポチとルルは思わず顔を見合わせてしまいました。フルートは立ちつくしたまま、自分の祖母を見つめ続けます。
老人は妻に呼びかけ続けていました。
「ハンナはもういないんだよ! チャールズと一緒に西部へ行ってしまったんだ! いくら呼んでもここには来ないんだよ!」
けれども、やっぱり老婦人は何も聞いていませんでした。
「大変だわ! これだけ呼んでも返事もないだなんて! きっとまた、どこかで倒れているのよ。探しに行かなくちゃ――!」
そんなことを言いながら、とうとう夫を押しのけ、ベッドから下りてワードローブへ駆け寄ります。中に吊してあった衣類を片端から引きずり下ろして床に投げ捨て始めたので、老人は尋ねました。
「何をするつもりなんだ、おまえ?」
「もちろん、ハンナを探しに行くんですよ。急がなくちゃ」
と妻は答えました。突然やりとりがまともになっています。けれども、彼女は、急がなくちゃ急がなくちゃ、と繰り返して衣類を投げ捨てるだけでした。夜着を着替えるわけでも、上にコートをはおるわけでもありません。
老人は溜息をつくと、立ちつくしているフルートたちに言いました。
「驚かせてしまってすまないね。家内は毎日こんなふうに騒ぐんだよ。娘がいない、探しに行かなくちゃ、と言ってね……」
老婦人はワードローブを空っぽにすると、そのまま呆然としてしまいました。次に自分がどうすればいいのかわからないようでした。床中に積み重なった服を見回すばかりです。
老人はまた大きな溜息をつきました。
「家内がこんなふうになるまで、私は家内がどれほど娘を心配していたのか知らなかったんだ……。私はずっと娘たちに怒っていたし、親の言うことも聞かずに飛び出したのだから、西部でのたれ死んでも自業自得だと考えていた。だから、家内も私の手前、口に出すことができなかったんだろう。私は怒ると怖い夫だったしな……。だが、こうして呆けてしまってからは、家内は毎日毎晩娘を呼び続ける。ロアにいた頃には、家を飛び出して娘を捜し回ることもしょっちゅうだった。それがあまりに頻繁(ひんぱん)になって、馬車にひかれそうになったこともあったものだから、ずっと暮らしてきたロアの家を引き払って、このレコルの街に越してきたんだ。街が変われば娘を捜しに出なくなる、と人に言われたのでね。それはその通りだった。知らない街ではどこをどう探して良いのか見当がつかないんだろう。以来、家の外には出なくなったんだが、やっぱり毎日こうして娘を呼ぶ。もういないのだ、死んでしまったのだ、といくら言い聞かせても納得しないんだ……」
それを聞いてゼンは何かを言いかけ、メールにつねられて飛び上がりました。口をはさむんじゃないよ、とメールににらまれてしまいます。
フルートはベッドに座り込んだ老人を見つめました。疲れたように背中を丸めているこの人物はフルートの祖父、呆けてきょろきょろしている老婦人はフルートの祖母です。何かを言わなくては、と思うのですが、言うべきことばが思い浮かびません。娘のハンナは今も生きていますよ、ぼくのお母さんですよ、と言えば、祖父は納得して喜ぶかもしれませんが、肝心の祖母にはきっと伝わらないのです。やっぱり、どう言えば良いのかわかりません――。
それでも、フルートは思いきって祖母のそばへ行きました。祖母は夜着を着ただけの恰好だったので、このままでは風邪をひいてしまう、ベッドに戻らせなくちゃ、と考えたのです。
「あの、おばあさん……」
と、そっと話しかけます。
すると、祖母はフルートを見ました。灰色の目を大きく見開いてフルートを見つめると、突然大声を上げます。
「きゃぁぁ、強盗! 強盗よぉっ! 助けてぇ!!」
フルートはいきなり強盗扱いされてびっくりしました。たちまち祖父が飛んできて、祖母を抱きかかえます。
「こら! ここにいるのはお客様だよ! 失礼なことを言うんじゃない!」
けれども、祖母は叱られてますます興奮しました。強盗よ! 警察を呼んで! 助けて! と叫び続けます。フルートは大あわてで寝室から飛び出しました。自分が姿を見せているのが良くないのだろう、と考えたのです。寝室からは、祖母の悲鳴と祖父のなだめる声が聞こえてきます。その声に追われるように階段を駆け下り、ホールまでやってきて、ようやく立ち止まります。
その後を仲間たちが追いかけてきました。うつむいて立ちつくすフルートを見て、とまどいながら階段の途中で立ち止まります。
ポポロだけはフルートのすぐそばまで行きました。大きな瞳に涙をいっぱいにためて、そっと見上げます。
すると、フルートのほうでもポポロを見ました。意外にも、その顔は傷ついた表情をしていませんでした。もっと強い表情で何かを考えていたのです。
驚く彼女にフルートは言いました。
「ここはぼくのお母さんの実家だ。家は引っ越したと言っていたけれど、どこかにお母さんの服はしまってないかな。見つけることはできるかい?」
「フルートのお母さんの服を?」
とポポロはますます驚きました。
「んなもん見つけてどうするんだよ?」
とゼンが尋ねました。フルートが何を思いついているのか、仲間たちにはさっぱりわかりません。
階段の上からは、まだ祖母の悲鳴が聞こえ続けていました。なだめようとする祖父の声が、次第にどなり声に変わっていきます。
「おばあさんを自分の娘に会わせてあげるんだ。お母さんに会わせてあげよう」
フルートはきっぱりとそう言うと、階段の上へ目を向けました――。