頭が呆(ぼ)けてしまったという老婦人は、フルートをハンナと呼んで離しませんでした。いくら夫が、それは別人だよ、と言っても耳を貸しません。しまいには怒って暴れ出しそうになったので、フルートは急いで言いました。
「ぼくならかまいません。ぼくに一緒に行ってほしいのなら、家までお送りしますよ」
彼らの前には、老婦人が呼び止めた辻馬車(つじばしゃ)が停まっていたのです。辻馬車の御者が、乗るんだろうかどうするんだろうか、という顔でこちらを見ています。
「そうしてもらえるかね? 重ねがさねすまんな。ありがとう」
と老人が言ったので、フルートは自分をつかむ老婦人の腕に手を回して言いました。
「さあ、家に帰りましょう。馬車に乗りますよ。足元に気をつけて」
その優しい声に老婦人はたちまち落ちつきました。フルートに支えられて、素直に馬車に乗り込み、自分の横の席を空けて言います。
「あなたはここにお座んなさい、ハンナ」
フルートはちょっと苦笑しながらそこに腰を下ろしました。着込んだ鎧がガチャンと音を立てますが、老婦人は気にしません。
「完全にフルートを娘さんだと思い込んでるよねぇ」
「いくらなんでも、あの恰好で娘ってのは変だろうが。よっぽど呆けてやがるよな、このばあちゃん」
とメールとゼンが遠慮もなく話し合っていると、老人が別の辻馬車を呼び止めながら言いました。
「本当にすまんね。家内の妄想なんだが、つきあってやってくれんか。自分の思い通りにさえなれば、おとなしくしていてくれるんだ――。ジョン、おまえはパティに知らせに行ってくれ。予定より早く帰ってきたので、屋敷には誰もいないだろうからな」
と老人は自分の家の御者にも命じます。話の内容や口調から見て、どうやら裕福な階級の人物のようですが、貴族に特有の取りすました雰囲気はありません。
やがて、彼らは二台の辻馬車に分乗して、老夫婦の屋敷へ出発しました。後に残された御者の元には、怪物の知らせを受けて駆けつけた衛兵がやってきます。御者は衛兵相手に、不思議な少年たちが助けてくれたことを話し出しました――。
老夫婦の家は広場から馬車で五分ほど走ったところにありました。高い塀で囲まれた、文字通りのお屋敷ですが、門は閉じられています。その鍵を外しながら老人が言いました。
「私と家内は五年前からここに住んでいてね。普段は女中を置いているんだが、この冬は寒くなると聞いて、家内を連れてハルマスへ保養に行っていたから、女中にも休暇をやっていたんだ」
ハルマス、とフルートたちは言いました。リーリス湖畔の地名で、彼らが魔王相手に激戦を繰り広げた場所です。戦いの後、一面の焼け野原になりましたが、今は、ロムド王の指示で病院と保養の街に生まれ変わろうとしています。
すると、フルートと腕を組んで立っていた老婦人が、突然また言いました。
「あんなところにいつまでもいられるわけがないでしょう! 家ではハンナが待っていたんですよ! かわいそうに、ひとりぼっちで心細かったでしょう!」
ねえ、ハンナや!? と夫人がフルートを見たので、はぁ……とフルートは曖昧(あいまい)に返事をしました。目の前にそびえる屋敷に人の気配はありません。老夫婦と一緒に暮らす家族はいないのです。
「ハンナはもう子どもじゃない」
と老人はつぶやくように言うと、門に続いて屋敷の玄関の鍵も外しました。長い間留守にしていたので、扉が雪と氷で凍りついていましたが、ゼンがちょっと押すと、簡単に入口が開きました。
屋敷に入ると、中も外に劣らず冷え切っていました。薄暗いホールを進んでいくと、足の下で砂埃がじゃりっと音を立てます。頭上には立派なシャンデリアがありますが、もちろん灯りはありません。
フルートは眉をひそめ、すぐに仲間たちに言いました。
「メール、ポポロ、カーテンを開けるんだ。ゼンは暖炉に火を。こんな寒いところにいたら、おばあさんたちが風邪をひいてしまうからな」
「あいよ」
「じいちゃん、ちょっと失礼するぜ」
メールとポポロがホールの階段を駆け上がってカーテンを開け、ゼンが屋敷の奥へ向かったので、老人はゼンを追いかけました。
「居間はこっちだ」
「居間の後で寝室にも火を入れてやるよ。そっちも暖めておいたほうがいいんだろう?」
とゼンがいつもの気配りの良さをのぞかせます。
老婦人は、相変わらず焦点が合わない目で、ぼんやりとホールに立っていました。自分から何かをすることはないのですが、フルートが少し離れようとすると、すぐにまたしがみついてきました。
「心配ありません。そばにいますよ」
とフルートは言いましたが、老婆は手を放そうとしませんでした。
ポチとルルはホールの中を見て回っていました。くんくんと匂いをかぎ、そっと二匹で話し合います。
「ワン、留守にしている間、ずっと屋敷を閉めきっていたみたいだな。ずいぶん埃が溜まってる」
「そうね。それに、ここでもやっぱり闇の匂いがしているわよ。本当にこの街はどこも闇の気配だらけだわ」
「ワン、でも怪物は隠れていないよね?」
「ええ、それは大丈夫。匂いは薄いわ」
歩き回る二匹の足の下で、細かい砂埃が舞い上がります。本当に、冷え切って、人のぬくもりがない屋敷の中でした。
やがて、ホールや部屋のカーテンが開けられ、居間の暖炉が燃え始めると、家の中が明るく暖かくなってきました。ゼンが寝室の暖炉にも火を入れたので、フルートたちは老婦人をベッドに連れていきました。長時間、寒い中に立っていたので、顔色が悪くなってきていたのです。
夫人は自力で夜着に着替えることもできなかったので、年老いた夫と、メールとポポロがそれを手伝いました。フルートはそれを機に部屋を退出しましたが、もう老婦人に引き止められることはありませんでした。
ホールに続く階段を下りながら、ゼンが言いました。
「しかし、思いがけねえ手伝いをする羽目になっちまったな。この街で闇の怪物を探すはずだったのによ」
「うん……」
とフルートは言いました。何かを考え込んで、ことば少なになっています。
するとそこへポチが走ってきました。階段の下へ来て言います。
「ワン、フルート、ちょっと居間に来てください! 見てほしいものがあるんです!」
「見てほしいもの?」
フルートとゼンはすぐにポチに続きました。ホールの奥にある居間に足を踏み入れます。フルートがその部屋に入ったのは初めてでした。分厚い絨毯を敷き詰めた上に、安楽椅子やテーブルが置かれていて、奥の壁では暖炉が勢いよく燃えています。
ポチが暖炉の上を示して言いました。
「ワン、あれです。あの絵を見てください――!」
暖炉の上の壁には一幅の大きな絵が掲げられていました。小花模様のドレスを着た若い女性の立ち姿が描かれています。女性は長い金髪を垂らして、とても優しい表情で笑っていました。
「ああ、綺麗だよな、その絵。なんか、見てるこっちの心まで温かくなるような気がするんだよな」
先に絵を見ていたゼンがそんなことを言ったので、暖炉の前にいたルルが笑いました。
「ゼンにしてはずいぶん繊細な批評をするわね。赤い雪が降り出すんじゃないの?」
雌犬にからかわれて、なんだと!? とゼンが怒ります。
けれども、フルートは黙ったまま絵を見つめていました。かなり長い間眺めてから、ゆっくりと近づいていって、また間近から見上げます。そんなフルートを、ポチが見上げていました。確かめるように言います。
「ワン、やっぱりそうだと思いますか?」
フルートはうなずきました。
「間違いないな。ひょっとしたら、ってずっと思っていたんだけれど、ここはロアじゃなかったし……。でも、やっぱりそうだったんだ」
「ワン、ハンナって言ってましたからね」
フルートたちが意味のわからない会話をするので、ゼンとルルは目を丸くしました。
「なんだよ? おまえら、何を話してるんだ?」
「何か思い当たることがあるわけ?」
すると、フルートは絵を見つめながら言いました。
「これはぼくのお母さんなんだよ。ハンナは、ぼくの母さんの名前なんだ――」