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第19巻「天空の国の戦い」

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30.底

 「獣の爪痕?」

 とフルートは聞き返しました。

 ゼンは消魔水の井戸の丸い壁を指さしていました。苔のような水草で一面おおわれていますが、その一箇所が大きくはげていました。下の石壁がむきだしになっています。

 レオンが馬鹿にするように言いました。

「ただ苔がはがれているだけじゃないか。どこが爪痕だ。ここは井戸だぞ。獣なんかいるわけがない」

 ゼンはじろりとそれをにらみました。

「俺が爪痕を見間違えるかよ。素人(しろうと)は黙ってろ」

「ゼンは北の峰の猟師なんだ。ゼンの言うとおり、獣の痕跡を見間違えるはずはない」

 とフルートも言い、ゼンが示す壁をつくづく見ました。苔のような水草が二十センチ四方ほどの面積でなくなっていました。そら、とゼンがその上下を指さします。

「爪の痕だ。細く見えているだろう? 四本指だな」

「ポチかな?」

 とフルートは尋ねました。イヌは歩いた後に四本指の足跡を残します。

 ゼンは首を振りました。

「大きさが全然違う。しかも鋭い爪だ。水草だけでなく、その下の石にまで痕が残ってやがるからな」

 フルートは、たちまち真剣な表情になりました。

「どのくらいの大きさだ? いつ頃ついた痕だろう?」

「獣の種類がわからねえから見当がつけにくいんだが、けっこうでかいだろう。熊くらいの大きさはあると思うぞ。熊とは爪痕が違うけどな。水草のちぎれた痕が新しいから、それほど前のことじゃねえ」

 そんなゼンの話を、レオンはすぐ横で聞いていました。目をぱちくりさせながら言います。

「消魔水の井戸にそんな大きな生き物がいるって言うのか? そんな馬鹿な! そんな話は聞いたこともないぞ!」

「この井戸は二千年もたってるんだろう? たかだか十五年生きただけのヤツが知らねえことがあったって、不思議じゃねえだろう」

 とゼンが言い返します。なに!? とレオンはまた顔を赤くしましたが、それ以上反論することはできませんでした。フルートが先へ進み出し、ゼンが後を追いかけたからです。

 フルートは急いでいました。ペンダントが放つ光で行く手を照らしながら、下へ下へと潜っていきます。ゼンが追いついて言いました。

「もっと慎重に進め、フルート。その辺にでかいヤツがいるかもしれねえんだぞ」

「だからだよ!」

 とフルートは言い返しました。

「ポチとそいつが出会っているかもしれないんだ! 急ごう!」

 フルートはさらに速度を上げます――。

 

 すると、やがて井戸の行き止まりが見えてきました。上から投げ込まれたような石が、底をおおっています。ポチも大きな獣も見当たりません。

「そんな馬鹿な!」

 とレオンは また叫びました。

「彼は――ポチは絶対にここに飛び込んだんだぞ! どうして井戸の中にいないんだ!?」

「それはこっちが聞きてえな」

 とゼンは低く言うと、フルートと一緒に井戸の底へ降り立ちました。足元や周囲を見回しますが、やはりポチの姿はありません。

「ポチ! ポチ――!」

 声に出して呼んでも返事がないので、フルートたちは青くなりました。ポチが消えてしまったのです。

 ゼンがレオンの胸ぐらをつかみました。そのまま持ち上げてどなりつけます。

「この野郎、ポチをどこへやった!? さっさとポチをここに戻せ!」

「し、知らないよ……」

 とレオンは答えました。ゼンの手を振りきろうとしますが、すさまじい力なので、逃げることができません。

「こ、ここは消魔水の中だもの……ぼくでも誰でも、魔法は使えないんだ……」

「抜かせ! 現にポチはいねえだろうが! さては井戸に飛び込んだってところから大嘘だったな!?」

「違う! 本当に彼はここに飛び込んだんだ! 飛び込んだ瞬間を見たわけじゃないけど、水音がしたし――それしか考えられないんだ!」

 とレオンが必死で弁解します。

 フルートはまだ青ざめていましたが、それでも周囲を観察する余裕は取り戻していました。足元にかがみ込み、石の間に潜ったり隠れたりする隙間がないことを確かめると、立ち上がって頭上を見ました。金の光が届く向こうへ目を凝らしながら言います。

「ぼくたちは途中でポチとすれ違わなかった。でも、ポチは首輪を取り戻しても、自分でそれをつけることができない。しかも、ここは消魔水の中なんだから、ポチが風の犬になって脱出するのは不可能だ。考えられるのは、ぼくたちがここに来る前に、誰かに井戸から助け出してもらった、ってことなんだけれど、そうなると、呼んでもポチから返事がなかった理由がわからない……」

 井戸に潜んでいた獣にポチが襲われた、という恐ろしい可能性もないわけではありませんでしたが、それならば獣が残っているはずです。井戸にはその獣も見当たりません。

 フルートはさらに周囲を見回しました。水の中ですが、彼らは空気の中にいるように呼吸ができます。ただ、体だけは水中の動きをしていました。壁に捕まっていなければ、体は自然と浮いていってしまうし、兜からはみ出した金髪は水の流れに乗って揺れています。

 

「……?」

 フルートはその不思議に気がつきました。ここは井戸の底なのに、川の中にいるように、水が流れているのです。

 フルートはしゃがみ込んで、底に手を置いてみました。岩の間から湧き出してくる水を感じます。井戸の底から消魔水がこんこんと湧き出しているのです。これが流れを生んでいるのか、とは思いましたが、泉のように水が湧いているなら、それが井戸からあふれ出していないのが、やっぱり不思議でした。

 少し考えてから、フルートは底の岩に生えていた水草をちぎって、水に放してみました。草は流れに乗って上昇していき、やがて横へ向きを変えました。水草におおわれた壁に近づいていって、急に見えなくなってしまいます。

「そこだ!」

 とフルートは跳ね起きました。水草が消えたあたりへ行くと、底から二メートルほどの高さの場所に穴があいていました。周囲をすっかり水草におおわれていたので、ちょっと見ただけでは、そこに穴があるとはわからなかったのです。井戸の水はその穴へ流れ込んでいました。大きな穴ではないので、水がすっかりそちらへ流れ出てしまうということもありません。

「これで井戸の水量を調節していたのか……。ポチはきっとこの中に行ったんだな」

 とフルートが言うと、ゼンも穴の下の壁を調べて言いました。

「水草に壁を蹴ったような痕が残ってるぞ。この足跡はきっとポチだ」

「首輪が見つからないから、その先に進んだんだ、きっと」

 とフルートは推理して、難しい顔になりました。壁の穴は直径が三十センチもなかったのです。小犬のポチにはくぐれても、フルートたちにはとても通り抜けられません。ペンダントで中を照らして、ポチ! と呼びかけますが、奥は真っ暗で、返事はありませんでした。穴の向こうが長いトンネルになっていることが、声の反響具合からわかっただけです。

 こんちくしょう! とゼンはわめいて、またレオンの胸ぐらをつかみました。

「このくそ忙しいときに、なんてことをしやがるんだ! 全部てめえのせいだぞ! 責任とってポチを連れ戻してこい!」

 とレオンを穴がある井戸の壁にたたきつけてしまいます。

 とたんに壁の穴がいきなり広がりました。レオンの体がその中へ吸い込まれ、つられてゼンも前のめりに倒れ込んで行きます――。

 

「ゼン!」

 フルートはびっくりして親友に飛びつきました。捕まえて引き戻そうとしますが、その目の前でレオンとゼンは穴に呑み込まれていきました。次の瞬間には穴が消えて、また水草が生えた石の壁に戻ってしまいます。

「ゼン! ゼン、レオン――!!」

 フルートは壁をたたきましたが、壁はびくともしませんでした。表面の水草が拳の下ではがれただけです。

 フルートは無我夢中で壁の穴の周囲の水草をまさぐりました。どこかに穴を広げるスイッチがあるはずだと考えたのですが、そんなものは見つかりません。どこだ!? どうやったら穴が開くんだ!? とあせって水草をかき分けます。

 すると、指先が穴の縁の石にふれました。とたんに穴がまた大きくなり、フルートの背丈と同じくらいの出口が開きます。

 そこへどっと井戸の水が流れ込みました。激しい流れがフルートのマントを巻き込み、さらにフルートを背中から突き飛ばします。フルートはよろめき、水と一緒に穴に吸い込まれました。とたんに穴が閉じ、また水草が生えた石の壁に戻ってしまいます。

 やがて流れがおさまると、あたりは静かになりました。金の石の光もなくなって、井戸の底は暗闇に沈んでしまいます。

 フルートもゼンもレオンも、そしてポチも――誰の姿もそこにはありませんでした。

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