魔法で呼び出された記憶の場面が、赤の魔法使いの目の前から消えていきました。数週間に渡るできごとの思い出でしたが、実際に過ぎていった時間は、ほんの二、三秒でした。
彼はまだ、マグマの川の中州に倒れていました。力をナンデモナイに吸い取られたので、立ち上がることが出来ません。そのナンデモナイは、切りかかってくるフルートをかわしていました。フルートが休みなく攻撃するので、闇の風を吸い込むことができなくなっています。
赤の魔法使いは、思い出の場面が映し出されていた場所を見つめ続けました。低い声でつぶやきます。
「そうだ……。俺は、かけがえのないものを手に入れた……」
魔法の場面は消えても、彼の頭の中には、過去の出来事が次々によみがえっていました。
ロムド王から赤い長衣を与えられ、仲間たちからハシバミの杖を贈られて、赤の魔法使いになった日のこと。
白、青、深緑の魔法使いと共に、四つの守りの塔から魔法を繰り出し、敵からロムド城を守った戦いの数々。
彼が使うムヴアの術は、仲間たちが使う光の魔法とは体系が違うので、闇魔法には意外なほど効果を発揮しました。闇の敵を撃退して仲間や城を守ったことも、幾度もあります。
仲間たち以外に彼のことばは通じませんでしたが、ロムド城の人々は敬意を持って彼に接してくれました。ロムドに猫の目をした異大陸の魔法使いあり、という評価も、中央大陸に広がります。
そんな彼に、深緑の魔法使いはこんなことを言いました。
「いつまでも恨みや憎しみに囚われていてはいかんぞ、赤。気持ちはようわかるが、そういった類(たぐい)の想いは、自分をいつまでも過去に縛りつけるんじゃ。それに、強すぎる恨みや後悔は心を蝕んでいく。決して良い結果にはならんからのう」
年寄りは話がくどいので、赤の魔法使いは、しょっちゅうこの話を聞かされました。そのたびに、またか、とは思いましたが、反発することはできませんでした。深緑の魔法使いは修業中に愛する家族を病で失い、そのことをずっと後悔していたのだ、と聞かされていたからです。彼に忠告するとき、老人は決まって微笑していました。とても優しくて悲しいほほえみです……。
そうだな、深緑、と赤の魔法使いはつぶやきました。わかったようなつもりになっていたことが、今ようやく、本当に理解できた気がします。
彼はロムド城の四大魔法使いでした。ムパスコを追われて故郷は失いましたが、第二の故郷とも言えるロムドの国で、聡明な君主に信頼され、仲間たちと共に国と人々を守っています。赤の魔法使いとしての彼の役割は、他の誰にも代わることができません。
そして、大切な仲間たちは、今ではもう彼の家族も同然でした。白の魔法使いが時折ふわりと見せる暖かい笑顔、青の魔法使いの屈託ない話し声、深緑の魔法使いの仲間を見守るまなざし――それは彼がロムドに来てから手に入れたものでした。彼が故郷から離れたからこそ、得ることができたものなのです。
どんなに時間が過ぎても、自分で自分を説得しても、故郷の人々から誹(そし)られ追い出された怒りや悲しみは消えません。彼らを恨む気持ちも、完全に消し去ることは不可能です。けれども、そのために新しい仲間たちと出会い、四大魔法使いになれたのだとしたら、つらかった過去にも確かに意義はあったのかもしれない……。そんな考えが自然と湧いてきます。
マグマの中州でナンデモナイがまたハンマーをふるっていました。フルートは剣でそれを受け、止めきれなくて吹き飛ばされました。金の鎧が大きな音をたて、ゼンやメールたちがまた悲鳴を上げます。
フルートたちの顔は蒼白でした。地上では今まさに太陽が地平線から顔を出そうとしています。ポポロの守りの魔法が、終わりの時を迎えようとしているのです。
ナンデモナイが、くくく、とまた笑いました。
「弱いな、よわい、俺の齢(よわい)は八千歳――。おまえらみたいなチビの若造が、俺にかなうとでも思っていたのか? そぉれ、もう一息。来い、恨みの風!」
ナンデモナイが開けた口が、また黒いつむじ風を吸い込み始めました。憎悪の念が渦巻く闇の風です。
ところが、赤の魔法使いからは、黒い湯気のようなものが立ち上りませんでした。ナンデモナイが巨大な猫の目をぐるりと回します。
「どうした、ドウシタ、銅の舌! 何故、憎悪するのをやめた、ムヴアの魔法使い――!?」
すると、黒い小さな手が中州の上を強くたたきました。赤の魔法使いが両手をついて体を起こしていきます。その手の下には、小さな白い光がありました。この場を正そうとして捕まえていた魔法を、ぎりぎりまだ手放さずにいたのです。歪んだ魔法を自分の中に取り込み、自分の内側にある正しい魔法に波長を合わせ、最大限の力で再び外へ放出します。
「直れ!!!」
とたんに、ばん、と音をたてて白い光が広がりました。中州の半分以上を一気に輝きで包み、さらに広がっていきます。
同時に、赤の魔法使いを包んでいた見えない障壁も砕けました。こちらはガラスの割れるような音だけが響きます。
白い光がやってきたとたん、ポチとルルはまた風の犬に変身しました。呆然とするフルートたちに、ロズキが叫びます。
「魔力が戻った! 場の力が正されたぞ!」
光はますます輝きを強めていました。その中心で、赤の魔法使いがまた言います。
「勇者たちを死なせるわけにはいかん。広がれ、壁! 勇者たちを守るんだ!」
すると、白い光の中から光の壁がそそり立ちました。こちらは、魔法使いの長衣と同じ赤い色の光です。フルートたちやロズキや彼の周囲を取り囲み、頭上で閉じて、光の半球に変わります。
その時、ポポロが小さく叫びました。
「太陽が顔を出したわ! 夜明けよ……!」
音もたてずに、ポポロがかけた守りの魔法が消えていきました。もう灼熱や毒ガスから仲間を守ることはできません。
けれども、彼らは少しも変わらず、そこに立っていました。今まで同様、ひどい暑さも感じなければ、息苦しくなったりすることもありません。赤の魔法使いが新たに張った障壁が、彼らを守り始めたからです。
やったぁ! と歓声を上げたメールを、ゼンが抱きしめました。倒れていたフルートも、跳ね起きてポポロを抱きしめます。その胸の中でポポロは声を上げて泣き出しました。安堵の涙です。犬たちも、ワンワンほえながら頭上を飛び回り、風の体を絡めて喜びます。
ロズキは顔の冷や汗をぬぐうと、赤の魔法使いを振り向きました。
「ぎりぎりで間に合ったな……。もう大丈夫か?」
赤の魔法使いはまだ地面に両手をついていましたが、顔を上げると、フードの下から、にやりと笑いました。
「ああ、もう大丈夫だ。本当に大事なことに、気がつくことができたからな」
「本当に大事なこと?」
とロズキは聞き返しました。赤の魔法使いが見た光景は、他の者の目には見えませんでした。長い追憶と洞察も、実際にはフルートがナンデモナイと斬り合っていた、ほんの短い時間のことに過ぎません。その間に彼が何に気がついたのか、戦士には理解することができなかったのです。
赤の魔法使いは、猫の瞳を細めていっそう笑いました。
「物事は常に移り変わる。未来永劫(えいごう)変わらないような出来事はない――。俺は故郷に裏切られたが、それは新しい未来の始まりだった。ただ、過去に囚われていた俺には、それが見えていなかった。欲しかったものは、もうとっくに俺の手の中に入っていたのにな」
それを聞いて、戦士はまた首をひねりました。魔法使いの話はまだ抽象的で、何のことを言っているのか、やっぱりよくわかりません。ただ、魔法使いがとても嬉しそうなことだけは感じられて、彼も思わず笑顔になりました。そうか、と言ってうなずきます。
赤の魔法使いは、笑うのをやめると、障壁の向こう側をにらみつけました。広がる白い光の先に、ナンデモナイが立っていて、光はその手前で停められていました。ナンデモナイに防がれて、それ以上、場を正すことができないのです。
「おまえはこの地下の世界を闇で歪めている! そんなことはさせられん。地下を元に戻せ、ナンデモナイ!」
そう言うと、彼はまた呪文の旋律を繰り出しました――。