「ここから村に下りるんだよ」
とアマニに案内された場所で、フルートたちは思わず、うわっと声を上げてしまいました。村は深い亀裂の底に細長く広がっています。そこへ至る切り立った崖に、長い長いはしごがかけられていたのです。崖の高さは百メートル以上なので、はしごもそれと同じ長さがあることになります。信じられないような通路ですが、アマニはそこから地上に昇ってきたのでした。
「これ、いくらなんでも私たちには無理よ! 下りられないわ! 風の犬にならなくちゃ!」
とルルが言ったので、アマニが、あらっと目を丸くしました。
「あんた、犬なのにしゃべれるんだ。コーなのね。へぇぇ」
「ワン、コーってなんですか?」
とポチが聞き返しました。彼女がもの言う犬にあまり驚かなかったので、話しかけても大丈夫だろうと判断したのです。
「頭が良くてことばが話せる動物のことさ。あんまり数はいないけど、たまに見かけるね」
フルートたちが住む中央大陸の人々は、もの言う獣を闇の怪物と考えて恐れますが、アマニにはそんな様子はありませんでした。南大陸では、ただ珍しい生き物と思われているだけのようです。
すると、赤の魔法使いが言いました。
「ヤ、ゼ、ヌ、ナイ。ゴ、ロ」
「ワン、風の犬では下に降りられないんですか? どうして?」
とポチが尋ねると、アマニがまた言いました。
「風の犬っていうのは魔法? 魔法はやめたほうがいいよ。村の人たちがすごく嫌がるからね」
それを聞いてフルートたちはまた驚きました。赤の魔法使いの故郷なのに、住人は魔法が使えないどころか、逆に魔法を嫌っているというのです。なんだかひどく不思議に思えますが、アマニがさっさとはしごを下りだしたので、それ以上の質問はできませんでした。
フルートとゼンが相談をします。
「本当に、ポチとルルがここを降りるのは無理だよ。運んでいかなくちゃ」
「どっちか一匹なら俺が抱いていけるが、いっぺんに運ぶのは、二匹を縛って束にでもしねえと無理だぞ」
「ちょっとぉ! やめてよ、そんな運び方!」
「ワン、そうですよ! そんな状態でゼンに抱えられたら、ぼくたち窒息しちゃう!」
と犬たちが抗議したので、フルートは少し考えてから言いました。
「それじゃ、ぼくのリュックサックを空にしよう。ポチなら入れるはずだ」
「お、なんか懐かしいな」
とゼンは笑いました。ポチがまだほんの小犬だった頃には、そうやってリュックサックで運ばれていたのです。今は体が大きくなったので、フルートがすっかり荷物を出してしまわなければ、ポチはリュックサックに入ることができませんでした。
アマニははしごをもう何メートルも下りて、そこから崖を見上げて彼らを待っていました。長いはしごは、目のくらむような崖に細々とへばりついています。恐ろしいほどの眺めですが、フルートはポチを入れたリュックサックを背負ったまま、最初にそこを降りていきました。ポポロがそれに続き、さらにメール、ルルを片腕に抱えたゼン、赤の魔法使いの順番で続きます。
すると、はしごを下るうちに、岩壁の様子が変わってきました。ごく普通の岩だったものが、次第に透き通るような白い石になっていったのです。それと同時に、亀裂の中がとても明るくなってきました。太陽は真上から照りつけているのですが、その光が岩壁で乱反射しています。
「地面の中に向かって進んでいるのに、すごく明るいね」
とメールが驚いて言いました。地下がとても苦手な彼女ですが、亀裂の中が光でいっぱいなので、恐怖はあまり感じずにすんでいます。
「光柱石(こうちゅうせき)の崖だからだな。光をよく吸収して反射する石だ。俺たちの洞窟でも、広場を明るくするのに、天井や壁に使ってるぜ」
とゼンが言います。猟師をしているし、見た目も人間のようなゼンですが、石に詳しいところはやっぱりドワーフです。
それを聞いて、ポチが言いました。
「ワン、この崖が明るいから、こんな深い谷間でも暮らしていられるんですね」
「そうだね。そうでなかったら、太陽の光は谷底までほとんど届かないはずだからな。そうなったら植物だって育たないし、牧場だって作れない」
とフルートも言って、はるか足元を見下ろしました。谷は東西に長く、南北にはとても狭い形をしています。その谷底をおおう緑の中で、畑は綺麗な畝(うね)の筋模様を描き、羊の群れは白い斑点の集まりを作っていました。地上の荒れ地とは対照的な、豊かで美しい景色です。
すると、フルートのすぐ下にいたアマニが言いました。
「昔はあんなにたくさん羊はいなかったんだよ。畑の緑も少なかった。ムパスコの魔法がすっかり弱ってたからね。あれは『外』から買った羊や種から増えたんだ」
外? とフルートは聞き返しました。なんとなく、特別な場所を示すことばに聞こえたのです。アマニはそれを見上げて、にやっと笑いました。
「あんたたちの場所のこと。あたしたちが住んでいるこの大地の向こうは、みんな『外』だよ」
「内」と「外」ということばが、ふいにフルートの頭の中に浮かんできました。ここ南大陸を、中央大陸の人々は暗黒大陸と呼んで、自分たちの世界の外にある未知の世界と考えています。けれども、南大陸の人々にとっては、フルートたちの住む中央大陸のほうが、自分たちの場所の外にある未知の場所なのです。
「内」から見た「外」は、その場所に立てば「内」になり、それまで内と思っていた場所は「外」になる。当然のことなのに、そこにとても大事な真理が隠れている気がして、思わず考え込んでしまいます……。
長いはしごは、崖の下から上までひと続きになっているわけではありませんでした。崖の途中にわずかな出っ張りや岩棚があって、そこで一度途切れてから、また次のはしごが始まるのです。
「これがないと、上る人と下る人がすれ違えないだろう? それに、これだけの距離を一気に上るのは大変だしね」
岩棚のひとつに到着したとき、アマニはそう説明してくれました。端のほうには座って休むための石もありましたが、彼ら全員がいるには岩棚が狭すぎたので、彼らは休まずに下へ進み続けました。長いはしごと白い絶壁が続きます。
すると、メールが声を上げました。
「あれっ、これって何さ?」
はしごの両脇の支柱はまっすぐな木でできていましたが、その途中に丸いヤシの実の殻で作った入れ物が、口を上に向けて取りつけてあったのです。
「こりゃ罠だな。この大きさだと、ネズミかリスか?」
とゼンが猟師らしい品定めをすると、下のほうからアマニが答えました。
「ネズミだよ! はしごを伝って下りてきて、大事な作物を荒らすんだ。捕まえたら煮込みにして食べられるしね」
「ネズミを食べるの!?」
とフルートとメールとポポロは叫んでしまいました。あん? と逆にそれを意外がったのはゼンです。
「ネズミは食えるんだぞ。リスもだ。食ったことねえのか?」
「ないよ、そんなの! 冗談じゃない!」
とメールが金切り声を上げると、アマニが笑いました。
「あんたたち、ネズミをあんまり食べないんだ。このあたりのはおいしいのにさ」
うーん、とフルートたちは思わずうなりました。場所が変われば食文化も変わるのだ、と改めて思い知らされます。
はしごと崖はまだ続いていました。本当に長い下り道ですが、足元の地面がだいぶ近づいてきて、谷間の村の様子がよく見えるようになっていました。ポチはフルートのリュックサックに入っていたので、そこからゆっくり地上を見物することができました。切り立った岩壁の間に、細長く地面が続き、中央を川が流れています。畑では肌の黒い小さな人々が働き、川を荷物を積んだ小舟が行きかうのが見えます。なかなか活気のある村です。
すると、赤の魔法使いが言いました。
「ラ、ノ、シ、ソウ、ナ」
妹のアマニに向かって言ったことばですが、ポチには意味が理解できました。みんな、暮らしぶりが良いようだな、と赤の魔法使いは言ったのです。気のせいか、どこか冷ややかに感じられる口調です。
妹は屈託なくそれに答えました。
「そう、クワーまで石を運んで売ってさ、市場で外から来た家畜や種を買ってくるから、ずいぶん暮らし向きは良くなったよ。もう誰も飢えてないから、誰も売られなくなったしね。採石場はモージャがいた頃よりずっと広くなったよ。魔法の道具を外から買ったから、作業が段違いにはかどるんだ」
「ワン、魔法の道具って、どんなものですか?」
とポチは口をはさみました。魔法が使えなくて、魔法が嫌いで、そのくせ魔法の道具は使うというのは、どういうことなんだろう、と不思議になったのです。
「採掘して売ってんのはこの光柱石か?」
とゼンは石について尋ねます。
「光柱石もだけど、一番はダイヤモンドだね。大きな鉱床があるから、ムパスコ中の村が共同で採掘してるんだ。外から買ったのは、地面を掘る道具や、石を綺麗に切り出して運ぶ道具。昔はみんな魔法でやっていたんだけど、できなくなっちゃったし、兄さんも外に出て行っちゃったからね」
とアマニは答えました。どうやら、以前はこの村に大勢の魔法使いがいたし、赤の魔法使いもここの採石場で働いていたということのようです。
赤の魔法使いはまた何も言わなくなっていました。普段から口数が少ない魔法使いですが、村へ下りていくにつれて、なんだかいっそう無口になったように感じられます。
「ワン、何か事情がありそうですね」
とポチがリュックサックから首を伸ばしてささやいたので、フルートは黙ってうなずきました――。