雪崩が埋め尽くした谷を、巨大な黒牛が突き進んでいました。頭を下げ、大きな角で雪を押していくと、その先で雪はみるみる溶けて水蒸気に変わっていきます。立ち上った蒸気は雲になり、じきに雪を降らせ始めますが、牛はまったく意に介しません。雪の中をぐいぐいと進み続けます。
そこへ空から人が下りてきました。長い黒髪の青年が雪だまりの上に立って、黒い翼をたたみます。とたんに青年の様子が変わりました。黒い服を着て、頭には角さえ見えていたのに、白い服に青いマントの人間の姿に変わったのです。翼も角ももう見当たりません。それを見て、サータマンの兵士たちはいっそう騒ぎました。
「変身したぞ!」
「魔法使いだ――!」
「まあ、魔法使いには違いないけどね」
とキースは言うと、黒牛へ向き直りました。キースは牛の進行方向の雪の上へ舞い下りたのです。
サータマン兵たちが、今度は笑いました。牛にやられてしまうぞ、あんなところに下りるなんて馬鹿なヤツだ、と考えたのです。牛がキース目がけて突き進んでいきます。
すると、キースが、すっと片手を上げました。迫ってくる巨大な牛へ突きつけて、鋭く言います。
「暴れろ、闇の石。おまえをつなぎ止めているものを食い尽くすんだ」
とたんに牛がすさまじい声を上げました。山々がびりびりと震え、頂のあちこちで雪煙が上がって雪崩が起きます。
黒牛が蹄を踏み鳴らして暴れ出したので、サータマン兵たちは驚きました。地響きがして、また周囲で雪が崩れます。軍勢が危険を感じて後ずさると、牛が走り出しました。角をめちゃくちゃに振り立て、雪の壁に激突します。牛が放つ熱に、雪がたちまち蒸発して空に昇っていきます。
キースは青い目を細めました。相変わらず雪だまりの上に立ったまま、狂ったように暴れ回る牛を眺めてつぶやきます。
「悪いね。おまえにはなんの落ち度もないんだけれど、一度闇の石と合体してしまったものを、元に戻す方法がないんだよ。あきらめて、闇の石に食われてくれ」
すると、黒牛の角の間から、毛並みよりもっと黒いものが広がり始めました。光をまったく出さない、本物の闇です。たちまち巨大な牛の全身に広がって包み込んでしまいます。
とたんに牛が音を立てて崩れたので、サータマン兵は驚きました。牛の体がみるみる縮んでいき、自分で切り開いた雪の道の上で、鶏の卵ほどの大きさの黒い石に変わってしまいます。
キースは雪だまりの上から道の上へ飛び下りました。十数メートルの高さがあったのに、難なく着地すると、石を拾い上げて言います。
「闇の石は人や生き物を凶暴な怪物に変える。そして、少しずつその怪物の体と魂を食っていって、やがてもっと大きな闇の石に戻るんだよ。ぼくはその速度を速めただけだ。おまえたちも、こんな石を身につけていると、いつか石に食われて、自分が闇の石になってしまうぞ――」
キースが話しかけていたのは、サータマン軍の兵士たちでした。彼らはその鎧や馬の鞍に闇の石を装備していたのです。キースの手の中で牛だった闇の石が消滅していったので、軍勢がたじろいだようにまた後ずさります。
すると、隊列の後ろのほうで、急に、ばさばさっと翼が打ち合う音がしました。停まっていた馬車の中から十数頭の飛竜が飛び出し、空に舞い上がっていきます。竜の背中には手綱を握った兵士が乗っていました。サータマンの飛竜部隊が出動したのです。
「そいつらはロムド王の手先だ! 生かして帰すな! 殺せ!」
と部隊長が地上から声を張り上げました。飛竜たちがキース目がけて殺到していきます。
ところが、その目の前に大きな怪物が飛び込んできました。ワシの頭にライオンの体の黒いグリフィンです。鋭い爪とくちばしで襲いかかり、翼を打ち合わせて強い風を起こして、飛竜を片端から地上へたたき落としてしまいます。
グリフィンの背中から、青の魔法使いが言いました。
「キース殿、交代ですぞ。これから少々光の魔法を使います。グーリーと空へ避難してください」
「少しぐらいの光なら、ぼくは平気だけれどね」
とキースは言いましたが、ここは素直に忠告通りにすることにしました。また闇の王子の姿になって空に舞い上がり、軍勢へ大きく手を振ります。
「来い、闇の石!」
とたんに軍勢のあちこちから悲鳴が上がりました。彼らの乗っていた馬の蹄が、急に雪に沈み始めたのです。馬車も車輪が雪に埋まって動けなくなってしまいます。キースの手には、直径が一センチほどの小さな闇の石がたくさん握られていました。やれやれ、とキースが溜息をつきます。
「闇の石は放っておくと自分でどんどん子石を生むからなぁ。これを全部葬っても、きっとサータマンにはまだ残っているんだろうな」
とひとりごとを言いながら、闇の石を消滅させていきます。
闇の石の力がなくなって、身動きが取れなくなった軍勢の前に、ひげ面の大男が立ちました。黒い翼の青年と黒いグリフィンは空の高い場所へ遠ざかっていきます。大男が青い長衣を着て手に太い杖を握っているのを見て、サータマンの軍勢は青ざめました。大男の正体に気がついたのです。
「ロムド城の四大魔法使いだ……!!」
あわてて逃げ出そうとしますが、雪に足や車輪を取られて、思うようには逃げられません。たたき落とされた飛竜も、すぐには飛べなくなっていました。飛竜は地面から飛びたつときに助走が必要なのですが、冷たい雪を嫌がって走ろうとしなかったのです。
立ち往生する軍勢へ、武僧の魔法使いは言いました。
「ここは光の聖地のミコン山脈だ。そこへ闇の力を使って攻め込んでくるとは無礼千万。ユリスナイの裁きを受けなさい」
どん、と杖が雪の地面を突くと、青い光が広がって周囲を照らしました。とたんに山々が大きく揺れ出し、積もった雪がまた崩れて、軍勢の上へ落ちかかっていきます。闇の石がなくなったサータマン軍には、雪崩を防ぐことができません――。
雪に呑まれていく軍勢をキースたちが上空から見下ろしていると、グーリーの背中に青の魔法使いが姿を現しました。どっこらしょ、と腰を下ろして、重々しく言います。
「連中が無事にあそこから抜け出せるかどうかは、連中の運次第ですな。もうロムドを攻めることはできないでしょう」
キースは思わず肩をすくめました。
「本当に、四大魔法使いというのはすごい実力者だな。あっという間に敵を倒してしまったじゃないか」
「いやいや。キース殿が闇の石を片づけてくれたおかげです。前回はあの石にだいぶ手こずらされましたからな。それに、連中は闇の力を当てにしすぎて、自分たちが途中で発見されることは考えていませんでした。魔法使いも同行していなかったから、我々に有利な状況でしたな」
と青の魔法使いが言いました。厳しかった表情が緩みます。
キースもつられて微笑しました。雪煙がまだおさまらないミコン山脈を見ながら言います。
「彼らにはかわいそうだけれど、生きて帰ってくれない方が、ぼくとしてはありがたいな。なにしろこの恰好を見せてしまったからね。噂が広がって、ロムド城に闇の民がいると世間に知れたら大ごとだ」
「キース殿もアリアン殿もグーリーも、姿は闇でも魂は光の戦士です。人々も、見た目になど惑わされずに、真の姿を見てくれれば良いのですが」
と青の魔法使いが大真面目な顔で言ったので、キースは苦笑しました。いつもの癖で、人差し指で頬をかいて言います。
「それは無理ってものさ。闇のものは闇。人間には恐怖の存在だからね――。それより、用がすんだなら城に戻ろう。今日は貴重な休日なんだ。ぐずぐずしていたら、一日が終わってしまうよ」
そして、キースは魔法使いの返事も待たずに羽ばたきました。ロムド城がある方角めざして飛び始めます。
その時、グーリーがふいにキイッと鳴きました。警告の声です。
えっ、と振り向いたキースの真下から、雪をはねのけて何かが飛び出してきました。矢のような勢いで上へ飛び、キースにまともにぶつかります。
それは飛竜でした。背中に乗ったサータマン兵が叫びます。
「悪魔め! 竜に食われて地獄に堕ちろ!」
すると、飛竜が向きを変えました。今度は上からキースに襲いかかります。竜の体当たりを食らったキースは、攻撃を防ぐことができませんでした。竜の牙がキースの肩を食いちぎり、鮮血が空に飛び散ります。
「キース殿!」
グェェン!!
青の魔法使いとグーリーの声が響く中、キースは空から墜落していきました――。