「いよいよ出発かい。なんだか淋しくなるねぇ」
カルドラ国の山間の町の出口で、宿の女将が旅姿のフルートたちに言っていました。決してお世辞などではないことが、表情と口調から伝わってきます。
青い胸当てをつけたゼンが馬の背中から答えました。
「この宿は居心地よかったぜ。おばちゃんの飯はうまかったし、何かと世話をしてもらったしな。でも、こいつがやっと旅をできるようになったから、先を急がなくちゃならねえんだ」
と金の鎧兜を着たフルートを示します。フルートは馬の上から女将へぺこりと頭を下げました。
「本当にいろいろお世話になりました。薬や精のつく食事や……。おかげで、すっかり元気になりました」
「それならいいけれど。でも、無理はしちゃだめだよ。なにしろ、あんたは十日も寝込んでいたんだからね。本当は、今だってまだ旅には早すぎると思うよ。昨日ようやく起きられるようになったばかりじゃないか」
女将が心配そうに言うので、フルートはちょっと困ったように笑い返しました。
「もう大丈夫ですよ。それに、ゼンも言ったけれど、ぼくたちは先を急がなくちゃいけないんです。メイの女王様のところへ戻らなくちゃいけないから」
自分たちはメイ女王に仕える魔法使いで、メイ国に戻る旅の途中だということになっていたので、そんなふうに話します。
すると、女将と一緒に見送りに来ていた町長が言いました。
「本当に気をつけて行きなさい。どうやらこの国は戦争を始めようとしているようだ。君たちが行こうとしているセイマの街は大騒ぎになっているかもしれない。あそこは軍港になっているからね」
フルートたちは驚きました。ポチが首をかしげて言います。
「ワン、戦争ってどこの国と? カルドラと戦争をしそうな国があるなんて話は、あまり聞いたことがなかったんですけど」
彼らを魔法使いの一行と思い込んでいる町長は、ポチが話しても、もう驚きませんでした。
「我々にもどこと戦うのかはわからないんだ。昨日、突然カルドラ王からのお使いが来て、召集令を伝えていったんだよ。このヤダルドールの町からは、五十人の男たちを兵隊として出さなくちゃならないんだ」
「それで、昨夜は町中が途方に暮れていたのさ。綿花の収穫が終わったばかりで、これから出荷や畑の耕作に忙しくなるっていうのに、五十人も男手を取られるなんてね。しかも、戦争だろう? 無事に帰ってこられるかどうか、わからないんだよ」
と女将が大きな溜息をつきます。
「召集された男たちは、年末までにセイマの街へ行くように言われている。船で外国へ攻めていくんだろう。うちの息子のフリスも行くことになったよ。せっかく君たちに命を助けてもらったのにな……」
そう話す町長は、淋しそうな父親の表情になっていました。
「どうしてそんな命令に従うのさ! 行きたくもない戦いに行かせるなんて、横暴もいいとこじゃないか! 抵抗しなよ!」
とメールが憤慨すると、町長は今度は苦笑しました。
「逆らえば町の人間全員がひどい罰を受けることになるんだ。下手をしたら、このヤダルドールの町自体が潰されてしまうかもしれない。我々庶民は、生きるも死ぬも、いつだって王様の一言で決められるんだよ……」
静かなあきらめの声に、フルートたちは何も言えなくなりました。その背後にはヤダルドールの町の通りが見えています。綿花の収穫が終わって、人が増えていた目抜きの通りでしたが、今日は人の姿はほとんどありませんでした。父親や息子が突然戦いに行くことになって、誰もが家の中で悲しみとまどっているのです。
気をつけて行きなさい、と町長と女将は笑顔でまた言ってくれました。旅立つ一行がそれ以上心配しないように、わざと笑ってみせたのです。彼らが別れを告げて進み始めると、町の出口の門で手を振りながら、ずっと見送ってくれました――。
町から充分離れて、見送る人の姿も見えなくなると、一行は話し始めました。
「ワン、戦争だなんて心配だなぁ。それに、年末までに五十人も兵隊に出せだなんて、本当に急だし大がかりですよ」
「そうね。大晦日(おおみそか)まであと二日だもの。ヤダルドールの人たちは、今日中には出発しなくちゃいけないはずよ」
とポチとルルが話していると、ポポロが心配そうに言いました。
「カルドラはどこと戦うつもりかしら……。メイやロムドじゃないといいんだけれど」
すると、ポチが首を振りました。
「ワン、ロムドってことはありませんよ。ロムドは海に面していないから、船で攻めることはできないんです」
「あたいは、カルドラがどこへ攻めていくかより、セイマの港のほうが心配だなぁ。戦争の時には港を封鎖して、船が出入りできないようにすることがあるからね」
とメールが言ったので、ゼンが声を上げました。
「冗談じゃねえ! そんなことされたら、俺たちは船でメイに渡れねえし、ロムド城でフルートの記憶を戻してもらうこともできねえぞ!」
「ワン、その時にはぼくやルルが風の犬になって、みんなをロムド城まで運びますよ。ただ、馬たちまでは乗せられないから、船で一緒に行くのが一番いいんですけどね」
とポチが言うと、ポポロがしょんぼりとうなだれました。
「ごめんなさい。あたしがロムド城まで魔法の道を開けたらいいんだけど、魔法使いじゃない人にはとても危険な道だから、途中で迷ってしまうかもしれないのよ……」
それを聞いて、メールは肩をすくめました。
「どっちにしたって、ポポロには無理だよ。ポポロは、ランジュールや闇の怪物がまた襲ってこないように、魔法であたいたちをずっと守っているんだからさ。守りの魔法とそれを継続する魔法で、魔法は二つ。これ以上の魔法を使うことはできないもんね」
ゼンも溜息をつきました。
「とにかく、セイマまで行ってみようぜ。港の様子を見て、それからどうしたらいいか考えよう」
そうだね、そうしよう、と仲間たちがそれに同意します。
ところが、間もなくフルートが馬の手綱を引いて、後ろを振り返りました。今来た道を眺めます。
「どうしたの?」
と他の仲間も立ち止まって尋ねると、フルートは少しためらってから、口を開きました。
「ぼくが具合が悪くて寝込んでいた間、ヤダルドールの人たちは、本当によくしてくれたよ。宿の女将さんだけでなく、他の人たちも、山の高いところから薬草を採ってきてくれたり、肉や卵を届けてくれたり……」
「ああ、そうだったな。町長の息子を助けてくれた恩人だから、って、みんなして親切にしてくれたよな」
とゼンが言うと、フルートはかすかに笑うような表情で目を伏せました。
「ぼくは何もしていなかったんだよ。町長の息子さんが事故にあったときに。ランジュールの注意を引くようなことをしたらまずいと思ったから……。だけど、みんなはぼくにもとても親切にしてくれたんだ」
それは、と仲間たちは言いかけて、ちょっと困惑しました。なんと返事を続けたらいいのか、とっさには思いつかなかったのです。
彼らが出てきた町は坂道の上に隠れて、そこからはもう見えませんでした。両脇から迫る山の斜面に、段々畑だけが見えています。ヤダルドールの人たちが丹誠込めて育てている綿花の畑です。
「あの人たちが戦争でひどい目に遭わなければいいな……。みんなに無事でいてもらいたいよ」
とフルートが言いました。ひとりごとのような声です。
仲間たちは思わずフルートを見つめてしまいました。彼らが行く先を不安に思って話し合っている間、フルートはずっと、自分に親切にしてくれた町の人たちのことを心配していたのです。そんなフルートは、記憶を失う以前とまったく同じ声、同じ表情をしていました。
「……そうだな」
とゼンは言い、他の仲間たちは静かにうなずきました。
戦争の気配が迫るカルドラ国。けれども、その空は水色によく晴れ渡っていました――。