翌朝、目を覚ましたセシルは、自分が花畑の中に寝ていたことに気づいて、びっくり仰天しました。周囲は地平線まで薄緑色の植物でおおわれ、色とりどりの花が咲き乱れて、吹いてくる風に波打っています。まるで花の海の中にいるようです。
まだ夢を見ているのだろうか? とセシルは考えました。自分たちは大砂漠の真ん中にいたはずです。雨に出会ったおかげで、かろうじて渇き死には避けましたが、全員が弱っていたし、水筒の修繕もしなければ出発できないというので、昨夜はそのまま砂漠に野宿しました。こんな花畑の中にいるはずはないのですが……。
すると、そこへオリバンがやってきました。目を丸くしているセシルを見て、笑いながら言います。
「驚いただろう。砂漠が一晩でこうなったのだ。まるで魔法のようだな」
「では、やはり夢ではないのか! どうしてこんなことになったんだ!?」
とセシルが聞き返すと、オリバンは足元の砂を指さして言いました。
「雨が降ったせいだ。ダラハーンが言うには、砂漠には何十年も前に実った種や、風で運ばれてきた種がたくさん眠っていて、雨が降ると、いっせいに目を覚ますらしい。すぐにまた水がなくなって枯れてしまうとわかっているので、大急ぎで花を咲かせて、次の実を結ぶのだそうだ。昨日の雨は三キロ四方ほどの中に降ったが、そこがすべて花畑になっている」
「たった一晩で芽吹いて咲いたのか! なんという成長の早さだ!」
とセシルはますます驚きました。砂漠の植物のたくましさに、思わず圧倒されてしまいます。
そこへ今度はダラハーンがやってきました。
「やあ、お姫様も目を覚ましたな。おかげで水はたっぷり補給できたし、水筒の補修もすっかり終わった。水は水筒に移したから、当分水の心配はなくなったぞ。キャラバンにはまだへばっている奴が二人ほどいるが、たっぷり水を飲んだから、間もなく元気になるだろう。まったく、あんたたちの占い師のおかげだな。このままずっとキャラバンにいてもらいたいくらいだ」
ところが、その占者が見当たりませんでした。
「ユギル殿は? どこにいるのだ?」
とセシルが尋ねると、オリバンは大きな植物の葉陰を指さしました。
「あそこだ。夜明け前から起きだして、我々の旅の行く先を占っている」
緑の葉が作る日陰にユギルが座り込み、砂の上に占盤を置いてのぞき込んでいました。葉の間から差し込む朝の光が占盤に光の筋を作り、占者の髪の上で銀色に踊っています。すると、その表情が急に険しくなりました。占盤をまじまじと見つめ、つと顔を上げると、砂漠の彼方へ鋭い目を向けます。
どうした、ユギル? とオリバンが声をかけようとすると、占者のほうが先に口を開きました。
「また賊がまいります。殿下を狙っておりますが、何かを知っているようです。殺さずに、生け捕りになさってください」
三人は、いっせいに身構えました。オリバンは剣に手をかけ、ダラハーンは自分のラクダへ駆け寄り、セシルは腰から下がった筒に棲む管狐を呼び出そうとします――。
そこへ、花が咲く砂丘の向こうから、一人の男が現れました。黒っぽい長い服を着て、頭にはフードをかぶっています。キャラバンの男たちが気づいて、いっせいに騒ぎ出しました。
「また来たぞ!」
「盗賊だ!」
「迎え討て!」
と、こちらもいっせいに刀を抜きます。
ところが、男は襲いかかってきませんでした。砂丘の頂上から斜面へ、ふらふらと下りてきて、そのまま足を滑らせ、砂と一緒に落ちてきます。男は馬にさえ乗っていなかったのです。その拍子に黒いフードが脱げて、男の顔がはっきり見えるようになりました。まるで女のような顔立ちの、美しい青年です。
すると、青年が目を開けました。武器を構えた一団が自分を取り囲んでいるのを見回し、かすれた声を上げます。
「な、何もしない……。もう何もしないから……頼むから、水を恵んでくれ……!」
かさかさに乾ききった唇で、青年はそう言いました――。
「つまり、おまえは命令で私を誘拐しようとしたのだな。水筒を壊して仲間と待ち伏せていたが、いくら待っても我々が引き返してこないので、おまえだけが様子を見に後を追ってきた。そのあげく砂漠で迷って、ようやくここにたどり着いた――と、そういうことか?」
とオリバンは重々しく言いました。その目の前には、キャラバンに転がり込んできた青年が座っています。上半身を縄で縛られ、キャラバンの男たちに取り囲まれていますが、水をわけてもらえたので、生き返ったような顔をしていました。オリバンに確認されて、素直にうなずきます。
「そうです。馬に乗ってきたのですが、暑さで倒れて死んでしまいました。もう駄目かと思ったときに、こちらに緑が見えたので、必死で来たんです。蜃気楼(しんきろう)かとも思いました。まさか、本当に草原になっていただなんて……」
青年は顔だけでなく、しぐさにもどこか女めいたところがありました。うつむきがちに話す姿は、妙に頼りなく見えます。
けれども、セシルは腰のレイピアに手をかけたまま、油断なく身構えていました。この青年は、先に襲撃してきたときに、オリバンやセシルへ毒の吹き矢を放ち、賊の集団に命令を下していました。こんな姿をしていても、賊の首領なのです。
オリバンのほうも、外見で相手に手加減をするようなことはありませんでした。厳しい声で尋ね続けます。
「おまえの名前は? おまえに命令した主君は誰だ?」
それは……と青年は口ごもりました。彼の正体は間者です。間者は普通、自分や主君の名前は言いません。
それを見て、オリバンは、よし、と身を起こしました。腰の大剣を抜きながら言います。
「敵を連れ歩くような危険な真似はできん。この場に切り捨てていく」
青年は悲鳴を上げました。オリバンからは本物の殺気が伝わってきます。切り捨てる、ということばは、はったりや脅しなどではないのです。
「ままま――待ってください! 言います、言いますよ――! ぼくはミカール! クアロー王に仕えているんです!」
クアロー王、と一同は驚き、オリバンはユギルを振り向きました。占者は色違いの目でじっと青年を見つめていましたが、うなずいて言いました。
「この者の背後に緑の蛇が見えております。これはクアロー国の紋章。この者の主君は確かにクアロー王のようでございます」
一同はまた驚きました。セシルが考え込みながら言います。
「クアローは長年エスタ国と行動を共にしてきた同盟国だ。だが、その王がオリバンを誘拐しようとしたということは――」
「おそらく、エスタに対して反逆を企んでいるのだろう。ロムドがエスタへ援軍を送ることを阻止するために、私を人質にしようとしたのだ」
とオリバンが答えます。
ふぅむ、とダラハーンはうなりました。
「クアローの王様がそんなことを企んでいるとは思いもしなかったな。寄らば大樹の陰、と大国エスタの下で安泰にしているとばかり思っていたのに」
「クアローの蛇は思いがけない毒牙を隠していたということだ。まったく、油断がならん」
とオリバンも言います。
ところが、ユギルはまだミカールという青年を見つめ続けていました。あまりまじまじと見るので、ミカールのほうで気味悪そうに目をそらしますが、それでも目を離さず、やがて静かに言います。
「あなたの背後にはペンと書状も見えます。どちらも、偽りの紫に染まっている……。殿下、この者を問いただしてください。まだ何かを隠しております」
なに? とオリバンたちが言ったとたん、ミカールは跳ね起きました。大きく飛びのき、身構えながら叫びます。
「ロムドの一番占者は本当によく当てるな! そうとも、ロムド城では間もなく大変なことが起きる! おまえたちは金の石の勇者を絶対に見つけられないぞ!」
甲高い笑い声と共に、青年の体から縛っていた縄が落ちました。いつの間にかほどいていたのです。ミカールは一同に背を向け、行く手にいたキャラバンの男を殴り飛ばして逃げ出しました。背後の砂丘を駆け上り始めます。
「待て!!」
とオリバンとセシルはすぐに後を追いました。聞き捨てならないことを言ったミカールを、捕まえて問いただそうとします。
すると、ユギルがまた言いました。
「追ってはなりません、殿下、セシル様! お戻りください!」
だが――とセシルは躊躇(ちゅうちょ)しましたが、オリバンは即座にユギルのことばに従いました。セシルを小脇に抱えて砂丘を駆け戻ります。とたんにその後ろの砂へ矢が何本も突き立ちました。砂丘の上から飛んできたのです。
いつの間にか、山脈のような砂丘の上に男たちが姿を現していました。全員が黒っぽい服を着て、馬にまたがっています。弓矢で攻撃してきたのはその男たちでした。ミカールがその中に駆け戻り、空いていた馬に飛び乗ります。
「砂漠で馬をなくしたってのは嘘か! 王子をおびき出して捕まえるつもりだったな!?」
とダラハーンが言って、部下へ攻撃の合図を送りました。砂漠の男たちが刀を抜いて砂丘へ走ります。
すると、セシルの声が響きました。
「管狐! 敵を追い払え!」
たちまち見上げるような大狐が現れて、敵の中に飛び込みました。飛んでくる矢をかわすと、馬にかみつき、乗っていた賊もろとも地面にたたきつけてしまいます。
他の馬たちは怯えていななきました。いっせいに後ろを向いて逃げ出します。ミカールも全速力で逃げながら叫びました。
「見ていろ! 我が君はロムドもエスタも、いつか必ずこの地上から消してみせるからな!」
負け惜しみとも宣言ともつかないことばが、砂丘の向こうへ遠ざかっていきます――。
オリバンたちが無事に砂丘の下へ戻ってくると、ダラハーンが言いました。
「危ないところだったな。あいつの誘いに乗って追いかけたら、王子たちを人質にされるところだった。あんなに大勢が待ち伏せしていたのに、あんたは気がつかなかったのか?」
とユギルに尋ねると、占者は平然と答えました。
「もちろん見えておりました。あの者から情報を聞き出すために、気づかぬふりをしていただけでございます」
「あいつは、間もなくロムド城に大変なことが起きる、と言っていた。我々には金の石の勇者が見つけられない、とも。いったいどういうことなのだ」
とオリバンは真剣な顔で言いました。どう考えてもただごととは思えません。
ユギルは考えながら言いました。
「どうやら、わたくしたちの知らないところで、大がかりな策略がめぐらされているようでございます……。あの男の背後に見えたのは、殿下が陛下へお送りになった書状でございました。文面を書き替えられた可能性がございます」
「書き替えられた!? どんなふうに!?」
「それはここではわかりかねます……。大砂漠は大きな魔法の中にあるために、外の出来事を知ることができません。一刻も早く砂漠を抜ける必要がございます。そこで占盤を使い、何が起きているかを読み取ります」
一刻も早く……と一同は言って、行く手へ目を向けました。雨が降ったので周囲は緑におおわれていますが、その先にはまた灼熱の砂漠が待ちかまえています。事実、太陽が高くなるにつれて、気温はぐんぐん上がり始め、草原になった地面からは、かげろうが立ち上っていました。この暑さの中を急ぐというのは、非常に難しいことです。
けれども、ユギルは言い続けました。
「砂漠を渡る最短ルートをたどってまいります――。途中、水のない場所もまた通ることになります。雨を捕まえ、人知れぬ水場を訪ねながら、可能な限りの速さで砂漠を抜けるのです」
「雨を捕まえ、人知れぬオアシスを訪ねながら、か」
とダラハーンが繰り返して、苦笑しました。
「どうやらあんたたちは、アジの女神の気まぐれを待つんじゃなく、自分から女神のほほえみを捕まえるつもりでいるようだな。ひょっとしたら、俺たちは誰も通ったことのない、新しい砂漠の道を通ることになるのかもしれん。よし、案内しろ、占い師。俺たちはあんたの後についていこう。――出発だ!」
おうさ! とキャラバンの男たちがいっせいに答えました。それぞれ自分のラクダを捕まえに走っていきます。ラクダは雨上がりの花畑を渡り歩いて、たらふく草を食べていたのです。
再び隊列を組んだ一行は、また旅を始めました。灰色の長衣の占い師が彼らを先導します。
先へ、早く。一日も早く。
彼らは心の中でそうつぶやきながら、強い日差しの下を歩き続けました――。