ジャングルの中の高い木の下に、ポポロは一人で立っていました。両手を祈るように握り合わせ、遠いまなざしをしています。彼女が透視しているのは、水牛の怪物と戦う仲間たちの様子でした。魔法の肩掛けで姿を隠したフルートが、駆け抜けざまに怪物の脚に切りつけています――。
ゼンたちに助けられて一度は怪物の前から逃げたフルートたちでしたが、ポポロはその後も仲間たちの様子を見守っていました。彼らが怪物に手こずり、追い詰められていく様子も、ずっと見ていたのです。
どうしていいのかわからなくなって、ポポロが馬の上で泣き出すと、フルートが馬を停めました。
「彼らはどうなってる?」
と尋ねてきます。真剣な声でした。
ポポロが自分が見ている光景を伝えると、フルートは難しい顔つきになり、ちょっとの間考え込んでから言いました。
「君はそんなふうに遠くを見通すことができるんだな? それじゃ、このあたりに高い崖か谷を探してくれ。ここは山岳地帯のジャングルだから、きっとあるはずだ」
ポポロは目をしばたたかせ、急いで周囲を透視しました。すぐに一キロほど離れた場所に深い谷を見つけて教えます。
すると、フルートは言いました。
「ぼくはあそこに戻る。君はここで待っているんだ。そして、透視しながら、ぼくに谷の場所を教えてくれ。ここは木がとても密だから、ぼくには方角がわからないんだ」
ポポロはいっそう目をぱちくりさせました。戻るって……と繰り返してしまいます。
そんな彼女を馬の上から半分強制的に下ろして、フルートは言い続けました。
「彼らを助けてくる。だから、道案内を頼む。君は遠くからでも魔法で声を伝えられるからな」
ポポロは息を呑みました。フルートは彼女の魔法使いの声のことを言っていました。先ほど、フルートの後を追いながら呼び続けたポポロの声が、ちゃんとフルートには聞こえていたのです。思わずまた涙があふれてきてしまいます。
すると、フルートがどなりました。
「泣くな! ――ちゃんと彼らを助けてくるから」
ぶっきらぼうに言い足したフルートに、あっ、とポポロは思いました。たちまち涙が止まってしまいます。何故フルートがすぐに、泣くな、と怒るのか、わかったような気がしたからです。フルートは困惑した顔をしていました。まだテトの国にいた頃に、フルートが泣いているポポロを見て言ったことばが浮かんできます。
「だって、君はそうやって毎日泣いてる。君には泣いてほしくないのに、ぼくにはどうしたらいいのかわからないんだ」
だからだったのかもしれません。記憶をなくしてしまっても、やっぱりポポロに――いえ、誰かに泣かれるのはフルートにはつらいことなので、どうしていいのかわからなくて、「泣くな!」と乱暴にどなっていたのかもしれないのです……。
フルートはゼンたちのいるほうへ駆け戻ろうとしていました。ポポロはあわててそれを引き止めると、肩からかけていた鞄の中から薄絹を取り出しました。
「フルート、これを――!」
フルートは驚いた顔をしました。ポポロが差し出したのは姿隠しの薄絹でした。フルートが怪物と戦ったときに、風に飛ばされたはずのものだったのです。
「これは魔法の薄絹だから、あたしのところに戻ってくるのよ……。これをつけていって、フルート」
と笑ってみせたポポロを、フルートは見つめ返し、すぐに薄絹を受けとりました。
「わかった。ありがとう」
と言い残して駆け出します。じきにその姿が馬の上から消えました。魔法の薄絹をはおったのです。
駆けていく馬をポポロはずっと見つめ続けました。ジャングルの木立に視界をさえぎられると、魔法使いの目に切り替えて見守り続けます。フルートが言い残した、ありがとう、の声。それは記憶をなくす前の彼と少しも変わりありませんでした。ポポロの頬を涙がまた伝います――。
フルートは怪物の脚に切りつけると、馬を停めて姿隠しの薄絹を外しました。こっちだ、悔しかったら追いついてみろ! と怪物を挑発しています。
ポポロはいっそう強く両手を握り合わせ、フルートのいる場所から谷のある場所へと魔法使いの目を進ませて言いました。
「谷はあなたの左後ろの方向よ、フルート。そこから低い丘を上って下った先……!」
よし、とフルートが答えました。怪物やゼンたちには、フルートがひとりごとを言ったように見えたはずです。
フルートは馬の腹を蹴って駆け出しました。一度水牛の怪物へ向かうとみせて、すぐに向きを変えると、谷の方角へと駆け出します。
案の定、怪物はその誘いに乗りました。傷が治った脚で地面をかくと、フルートの馬の後を追って突進を始めます。ゼンやメールや犬たちのことはもう忘れています。
フルートは上り斜面を駆け続けました。行く手をさえぎる木立を避けながら上へ上へと向かいます。すると、木を避けるうちに、微妙に進路がずれ始めました。ポポロが急いで呼びかけます。
「フルート、左に行きすぎたわ! もうちょっと右へ……!」
「わかった!」
とフルートは答えて進路を右寄りに変えました。木を避けるたびにまた進路がずれるので、その都度ポポロが正しい方向を知らせます。
やがて足元は下り坂になりました。斜面を駆け下る馬の後ろから、水牛も地響きを立ててやってきます。木々をなぎ倒しながら、猛烈な勢いで迫ってきます。
「まだか、ポポロ!?」
とフルートが叫んだので、ポポロはすぐに答えました。
「あともう少しよ! 大きな岩があるから気をつけて!」
谷のすぐ手前に大きな岩が転がっているのが見えたのです。木立に隠れているので、気がつかずにそこへ進んだら、行き止まりに追い込まれてしまいます。
フルートは行く手に目を凝らして、岩を見つけました。うまく避けて谷の手前にたどり着き、馬の上から見下ろします。同じ谷をポポロも魔法使いの目で眺めました。高さ数百メートルもある絶壁が、谷底の川まで続いています。
そこへ、めきめきっと木をへし折って、水牛が現れました。馬に乗ったままたたずんでいるフルートを見つけると、ブォォ! とほえて突進してきます。下りの斜面になっているので、駆けるほどに勢いは増していきます。
すると、怪物の目の前で、馬がいきなり飛びのきました。左の方向へ大きくジャンプして、優雅に着地します。怪物は急停止しようとしました。向きを変え、左へ突進しようとします――。
とたんに、怪物の右前脚の蹄の下から地面が消えました。巨体が、がくんと傾きます。木立の陰になっていた崖を踏み外してしまったのです。
必死にこらえ、残る三本脚で這い上がろうとした怪物へ、フルートは突進していきました。馬の上から左の前脚にも切りつけます。怪物は悲鳴を上げました。踏みとどまれなくなって、頭から谷へ転落していきます――。
ところが、その拍子に崖の縁が大きく崩れました。フルートの馬がいる場所にもひびが走り、地面が崩れ落ちます。
フルートは、あっと叫びました。馬の後脚が崩落に巻き込まれて崖の下に落ちてしまったのです。体と前脚は崖の上にありますが、這い上がることができません。馬の背中が斜めになったので、フルートは鞍から転がり落ちそうになって、馬の首にしがみつきました。がんばれ、コリン! こらえろ! と声をかけますが、馬はどうしても上がることができません。崖を蹴る後脚の下でまた岩が崩れ、馬とフルートはいっそう落ち込みます――。
すると、ひゅぅぅと音を立てて、風の犬のルルが飛んできました。彼らの上で輪を描いて呼びかけます。
「待ってなさい、今押してあげるから! コリン、がんばるのよ!」
ヒヒン、と馬が鳴いて、また後脚を動かしました。蹄がかろうじて崖の途中に引っかかります。その下へルルは飛んでいきました。つむじを巻きながら、風の力で馬を押し上げていきます。馬はまた崖を蹴りました。前脚も必死で動かし、風に押されながら、じりじりと崖の上へ戻っていきます。そこへ風の犬のポチもやってきました。背中からゼンとメールが飛び下りて馬に駆け寄り、くつわをつかんで一緒に引きあげていきます――。
やっと馬と一緒に崖の上に戻ったフルートは、汗びっしょりで大きな溜息をつきました。馬の首の上に頭を伏せると、低い声でゼンたちに言います。
「またぼくを助けに来たのか……」
「ポポロに教えられたからな。おまえが崖から落ちかけているって――。ったく、記憶をなくしていても、相変わらず危なっかしいヤツだぜ」
とゼンは答えました。何故だか少し嬉しそうな声です。
ふん、とフルートは言いました。顔は馬の上に伏せたままです。
そんな彼を、ゼンとメールと二匹の犬たちは見つめていました。どの目にも優しい微笑があります。フルートは彼らを助けに来てくれたのです。記憶をなくしていたのに、それでも昔のように――。なんだか本当に、言いようもなく嬉しい気持ちになります。
すると、離れた場所から、ポポロが魔法使いの声で呼びかけてきました。
「みんな、早くそこを離れたほうがいいわ。あれは闇の怪物だから、谷底に落ちても死んでいないの。じきにそこを這い上がってくるわよ……」
ゼンは舌打ちしました。
「本当にしつこい怪物だな。当分動けねえように、重しをしといてやる」
と言うと、崖の手前にあった大岩を力任せに押します。岩はすぐに動き出すと、崖から転がり落ちていきました。怪物が落ちた谷底へ消えていって、やがて地響きが伝わってきます。
「どうだ!?」
とゼンが空へ尋ねると、少し間があってから、ポポロの返事がありました。
「今の岩は怪物に命中したわよ……。それでも死んではいないけど、これで当分動けないわ。今のうちに逃げましょう」
やった! と彼らは歓声を上げました。ゼンが風の犬のポチに飛び乗ってフルートの背中をたたきます。
「さあ、戻るぞ! もう俺たちから離れたりするなよ!」
そう言われて、フルートはようやく馬から顔を上げました。横目でゼンを見ると、口をへの字にしてから答えます。
「君たちがこれまでのことを話してくれるならね――」
ふてくされてた言い方ですが、なんだか照れ隠しをしているようにも聞こえます。
ゼンはにやりとしました。
「おう。それならたっぷりと聞かせてやるから覚悟しとけ!」
ゼンに思いきりまた背中をたたかれて、フルートは咳き込んでしまいました――。
フルートやゼンたちが守りの木へ引きあげていって間もなく、幽霊のランジュールが谷の上へやってきました。へし折れた木々や崩れた崖を見下ろして首をかしげます。
「モーモーちゃんが暴れてるようだから様子を見に来たんだけど、なんだろうねぇ、この有り様。モーモーちゃんったら、ずいぶん暴れ回ったようじゃないかぁ。いったいどうしちゃったんだろ? だいたい、モーモーちゃんはどこ? さっきから呼んでるのに、返事がないんだよねぇ」
すると、その後ろに蛇のフノラスドが頭を出しました。シャァ、と鳴いて崖の下を示してみせます。えぇ!? とランジュールは驚きました。
「モーモーちゃんが崖の下に落ちてるってぇ? なんでそんなことになったのさぁ!?」
蛇と一緒に崖の下へ降りたランジュールは、ジャングルの木々に埋もれた下に水牛の怪物を見つけました。牛は谷川の岸辺で大きな岩の下敷きになっていました。頭がすっかり潰れてしまっています。
あーらららぁ、とランジュールは言いました。
「これじゃあ、さすがのモーモーちゃんも復活には時間がかかりそうだねぇ。この岩、崖の上から落ちてきたのかぁ。モーモーちゃんが暴れ回ってるうちに、岩にぶつかって一緒に落ちたのかな。どうしてそんなに暴れたんだろうねぇ――」
幽霊の青年は透き通った腕を組んで、んー、と考え込みました。
「一番考えられるのは、モーモーちゃんが勇者くんたちと戦った、ってことなんだけどぉ……モーモーちゃんは闇の怪物なのに、消滅してないんだよねぇ。勇者くんなら、絶対に金の石で倒してるはずなのにさ。ってことは、モーモーちゃんを怒らせたのは、勇者くんたちじゃなかったってことだよねぇ。誰と喧嘩して腹を立てたんだろ? モーモーちゃんに聞きたくても、頭がこんなじゃ聞けないなぁ」
シャァ、とフノラスドがまた鳴きました。自分をアピールするように、頭を突き出してきます。ランジュールは肩をすくめてうなずきました。
「そうだねぇ。モーモーちゃんはもう役に立たないから、そんなのをいつまでも気にしているのは時間の無駄ってヤツかな。うんうん、フーちゃんのことは本当にあてにしてるからねぇ。勇者くんたちを見つけ出して、しっかり食い殺すんだよぉ。うふふふ……」
もう気持ちを切り替えて、ランジュールはいつものように笑いました。陽気で残酷な笑い声です。
ランジュールがフノラスドと一緒に姿を消していくと、ジャングルは静寂に包まれました。谷川を流れる水の音だけが低く響きます。
すると、岩につぶされた水牛がわずかに前脚を動かして地面をかきました。助けを求めるようにも見える動きでしたが、幽霊の魔獣使いは二度と戻ってきませんでした――。