馬は死にものぐるいで逃げていました。
後ろから追いかけてくるのは、象ほどの大きさがある水牛の怪物です。大きな二本角を低く下げ、間にあるものを破壊しながら突き進んできます。へし折られた木から鳥が悲鳴を上げながら飛びたち、倒れてきた木の下からまた猿や鳥が飛び出しました。蹄が蹴散らした蟻塚の中からは、薄黄色の蟻たちが何万匹と出てきて、地面や塚に群がります。
ポポロは魔法使いの目を使って、馬が逃げていく方向を確かめました。やはり次第にこちらに向かってきています。敵から逃げるうちに、いつの間にか自分の主人がいるほうへ近づいているのです。コリンは我慢強くて従順な馬でした。主人のフルートを信じて、いつもずっと一緒に行動してきたのです。
ポポロは必死で馬に呼びかけました。
「コリン、コリン、聞こえる!? こっちよ――!」
今まで、ポポロは離れた場所から馬に呼びかけたことはありませんでした。仲間たちのように自分の声が聞こえるかどうか心配でしたが、コリンは走りながらぴくっと耳を動かし、すぐにポポロがいるほうへ向きを変えました。全速力で駆けてきます。
ポポロはそれを待ちかまえ、馬が姿を見せたとたん言いました。
「あたしを乗せて、コリン! フルートがいるところまで走るわよ!」
馬が急停止しました。後ろからは怪物が迫っていましたが、ポポロが背中に乗るのを待ってから、また駆け出します。
手綱を握りしめ、身を低くかがめて風をよけながら、ポポロは言い続けました。
「そのまままっすぐよ、コリン! フルートが……フルートが待っているわ……!」
そのことばがわかったように、馬はいっそう足を速めました。行く手をさえぎる木をよけながら、フルートがいる場所へまっすぐ向かっていきます。
けれども、その場所が見えてくるより早く、怪物がやってきました。何十メートルもの高さがある木を一撃でへし折って姿を現します。ポポロはとっさに馬の方向を変えました。横へ逃げて怪物をかわそうとします。
ボボボ、シュゥゥ、と怪物は鼻を鳴らし続けていました。鼻の穴が吐き出す煙に、植物の葉が赤く枯れていきます。毒を持った煙なのです。ギャアギャア、キャアキャア、怪物の周囲から逃げる獣と鳥たちの悲鳴で、ジャングルの中はものすごい騒ぎになっています。
「だめだわ……」
疾走する馬の背中で、ポポロは思わずつぶやきました。こんな大騒ぎを起こしていては、きっとランジュールに気づかれてしまいます。早く怪物を振り切らなくてはなりません。
ポポロは危険を承知でまた向きを変えました。シダを飛び越え、蟻塚を避けて、フルートが待つ木の下へと馬を走らせます。
やがて行く手にその木が見えてきました。木の下は無人のようですが、姿隠しの薄絹を身につけたフルートが待っています。背後で次々と木が倒れていく音を聞きながら、ポポロは大声で呼びました。
「フルート! フルート、どこ!?」
けれども、返事はありませんでした。ポポロならば、どんなに小さな声でも聞き逃すはずはないのに、どこからもフルートの返事が聞こえなかったのです。
ポポロはとまどいながら木の下へ行きました。間違いありません。フルートと別れたのはこの場所です。周囲を見回しながら、また呼びかけます。
「フルート! どこにいるの!?」
やはり返事はありません。まるで、どこかに消えてしまったようです。
「フルート……?」
ポポロは馬に乗ったまま立ちつくしました。どうしていいのかわからなくなって、周囲を見回してしまいます。
そこへ水牛が追いついてきました。木をへし折って、またジャングルの中から現れます。馬はいなないて後脚立ちになりました。飛びのいた拍子に、ポポロを背中から振り落としてしまいます。
ポポロは地面に墜落しました。幸い葉を広げたシダの上に落ちたので怪我はしませんでしたが、すぐには立ちあがれなくてもがきます。水牛がそちらへ頭を向けました。ポポロへ狙いを定めて突進してきます。地響きに大地が地震のように揺れて、ポポロはまた転びます――。
すると、突然水牛が頭を振り、ブォォォ、と叫んで向きを変えました。突進していった先は、さっきまでポポロと馬がたたずんでいた木でした。大きな角で激突して、木を根こそぎ倒してしまいます。
間一髪で怪物から逃れたポポロは、目を丸くしました。何故急に怪物が向きを変えたのかわかりません。怪物は狂ったように頭を振り、その場で飛び跳ねていました。まるで何かを振り払おうとしているようです。口から泡を吹きながらまたほえます。
その時、ジャングルの中を強い風が吹き抜けていきました。ざぁぁ……と音を立てて梢が揺れ、木の実や花が頭上から落ちてきます。その風の中に薄絹がひるがえりました。ポポロの肩掛けです。風にあおられて、ジャングルの奥へ吹き飛ばされてしまいます。そのあとに姿を現したのはフルートでした。水牛の上に片膝立ちになり、両手で剣の柄を握りしめて、水牛の背中を突き刺しています――。
「フルート!?」
ポポロはびっくりしました。どうしてそんな場所に、と考えます。水牛の背中は地上から五メートル以上も高い場所にあります。近くの木によじ登って、下を水牛が通過した瞬間に飛び乗ったのに違いありません。そして、剣で思いきり背中を突き刺したのです。襲われているポポロを助けるために――。
すると、フルートが、ちっと舌打ちしました。相手は闇の怪物なので、どんなに深く突き刺しても、傷が治って剣を押し戻してしまうのです。怪物を弱らせることができません。
水牛がまた飛び跳ねました。どうしてもフルートを振り落とせないとわかると、近くに生えている木に自分から突進していきます。寸前で向きを変え、どぉん、と体を幹にぶつけて、フルートを払い落とそうとします。
うわっ、とフルートは声を上げて剣にしがみつきました。水牛がまた別の木に体当たりしたので、剣につかまってこらえます。
「フルート!!」
とポポロは叫びました。早く助けなくちゃ、と思うのに、どうしたらいいのかわかりません。
すると、水牛がまた体当たりしました。今度は正面からまた木に激突しますが、その木は特に堅かったので、へし折ることができませんでした。水牛の動きが停まります。
とたんにフルートが振り向いて叫びました。
「コリン、来い!!」
イヒヒン!
フルートの馬は主人の声にすぐ反応しました。たてがみを揺すって返事をすると、毒の煙を吐く怪物へ恐れることもなく突進していきます。馬が駆け抜けていく瞬間に、フルートはその背中へ飛び移りました。すぐに手綱を握り、向きを変えてポポロのほうへ駆けてきます。
「早く乗れ!」
とフルートはどなりました。ポポロへ手を差し伸べてきます――。
ポポロは夢中でその手をつかみました。フルートに引きあげてもらって、同じ馬の上に乗ります。
フルートは馬の横腹を蹴りました。
「走れ、コリン! あいつを振り切るぞ!」
ヒヒン!
馬がまた返事をして駆け出しました。ポポロが乗っていたときよりずっと素早く、ジャングルの中を走っていきます。
その鞍にしがみつきながら、ポポロは後ろを振り向きました。
「コリンを思い出したの、フルート……?」
いいや、とフルートは答えました。
「君が名前を言っていたから、そう呼んでみただけだ。ちゃんと来たな」
その顔は厳しい表情のままでしたが、ポポロは目が離せませんでした。記憶を失っていても、フルートはポポロを助けてくれたのです。いつものあの捨て身の戦い方で――。
背後からまた地響きが伝わってきました。水牛の怪物が追いかけてきたのです。ボゥ、ボゥ、と毒の煙を吐く音も聞こえてきます。向こうの方が馬より速いので、音はどんどん迫ってきます。
フルートは馬の腹を蹴って言い続けました。
「急げコリン! 逃げ切るんだ! ――頑張れ!」
ポポロはフルートを見つめ続けました。馬に呼びかけるフルートの声は、以前とまったく同じでした。馬もフルートの命令通り、いっそう足を速めます。
けれども、フルートとポポロの二人を乗せた馬は、思うように速くは走れませんでした。口から泡を飛ばしながら必死で駆け続けますが、やっぱり怪物が追いついてきたのです。背後で木が折れ、怪物が姿を現します。
「来たわ!」
とポポロは叫びました。次第に大きくなってくる怪物を、目を見張って眺めます。フルートは手綱を操って怪物をかわしましたが、怪物はすぐに立ち止まると、方向転換して追いかけてきました。これだけ疾走を続けているのに、まったく速度が衰えません。
「どうすればいいんだ……どうすれば……」
フルートがひとりごとのように繰り返す声が、ポポロの耳に聞こえてきました。彼女にもどうしたらいいのかわかりません。ボゥ、ボゥと怪物が追いついてきます。吐き出す毒の煙がフルートたちの周りにも薄く漂い始めます――。
その時、行く手から、ひゃっほう! と声が聞こえてきました。
「いたよ! あそこだ!」
ぴんと張り詰めた弓弦のような少女の声です。
続けて、本当に矢が飛んできました。馬で駆けるフルートとポポロのすぐ横をすれ違って、後ろの怪物の額に突き刺さります。
ブォォォォ!!!
怪物が頭を振って叫びました。疾走が停まります。
行く手から二匹の風の犬が飛んでくるところでした。その背中にはそれぞれゼンとメールが乗っています。
「来い、フルート! こっちだ!」
エルフの弓に次の矢をつがえながら、ゼンがどなりました――。