ガウス侯は崖から落ちるふりをして、アキリー女王の手をつかみました。自分は崖の途中の岩に足をかけたまま、力一杯女王を引っぱります。女王は大きく体勢を崩しました。数十メートルもの高さがある崖から、真っ逆さまに転落しそうになります――。
そこへ、女王の背後から手が伸びてきました。女王の腕をつかんで、がっちりと引き止めます。それは少年の手でした。フルートがとっさに女王の腕を捕まえたのです。
ガウス侯は信じられない顔をしました。
「貴様……私を助けに来たのか? そんなまさか……!」
候は女王の手をつかむと、すぐに崖下へ引っぱりました。フルートがそれを見て駆けつけても、絶対に間に合うはずがないタイミングです。なのに、フルートはここにいて、女王の腕をつかんで支えています。それは女王と同時にフルートも飛び出していた、という証拠でした。フルートは、ガウス侯を助けようとしたのです。
すると、フルートたちの背後から、へっ、と笑う声がしました。
「驚いたか、ガウス侯。金の石の勇者ってのはな、馬鹿がつくくらいとことんお人好しなんだよ。たとえどんな悪党だって、目の前で崖から落ちそうになったら、やっぱり助けようとしちまうんだ。てめえみたいなヤツには想像もつかねえだろう!」
「そうそう。おかげであんたの悪知恵も役に立たなかったよね。ホント、卑怯な手ばかり使ってさ!」
ルルに乗ってきたゼンとメールでした。フルートや女王の後ろに立って、腰に両手を当てながら、崖の途中のガウス侯を見下ろします。
さらにその後ろで、風の犬のポチとルルが牙をむきます。
「ワン、上がってこい、ガウス侯!」
「そうよ、観念しなさい! もう絶対に逃げられないわよ!」
フルートは何も言いませんでした。ただ崖の途中のガウス侯を、アキリー女王の腕ごと引きあげていきます――。
すると、ガウス侯はいきなり女王の手を放しました。フルートと女王が勢いあまってひっくり返ると、その隙に崖の岩場から下へ降り始めます。
「逃げるよ!」
「ポチ、ルル、追いかけて捕まえろ!」
メールとゼンが口々に言い、風の犬たちが飛びたとうとします。
ところがそこへ管狐が駆けてきました。背中からユギルが叫びます。
「追ってはなりません、皆様方! 大至急ここからお離れください!」
フルートは、はっとしました。地面から跳ね起きて尋ねます。
「何か起きるんですか!?」
「グルール――!」
と女王がまた崖際に駆け寄ろうとします。
とたんに山鳴りが聞こえてきました。ガウス山の上の方から響いてきて、足元の地面が揺れ出します。地震とは異なる震動に、一同は立ちすくみました。ユギルがまた声を上げます。
「ポチ殿、ルル様! 皆様を空へ!」
「管狐、逃げろ!」
とセシルも叫び、大狐はまた駆け出しました。セシルやオリバン、ユギルを乗せたまま、谷川の岸辺から離れていきます。
犬たちも大急ぎで仲間たちを背中に乗せました。ポチはフルートとポポロと女王を、ルルはゼンとメールを。
そのとたん、山鳴りがいっそう大きくなり、どーんと激しい音が響きました。彼らが後にしてきたエジュデルハの滝が、突然破裂したのです。真っ赤な水が滝の上から大量に噴き出し、水煙をまき散らしながら落ちていきます。
驚く一同に、ポポロが言いました。
「滝の上流で川が決壊したのよ! ものすごい水と土砂が流れ落ちてくるわ!」
「土石流(どせきりゅう)じゃ!」
と女王も叫びました。真っ青になって言い続けます。
「グルールは鉄を作るためにガウス山の木を切り過ぎた! そのために土砂崩れが何度も起きて、ガウス川をあちこちでせき止めたのじゃ! 特にエジュデルハの滝の上流の土砂崩れは大きくて、川が湖のようになっておった! それが崩れて一気に流れ出したのじゃ!」
フルートも青ざめて、真っ赤な水を吐き出している滝を眺めました。
「さっき、ガウス侯が魔王になって降らせた大雨のせいだ……。山に木がとても少なくなっていたから、雨水を止めておけなくて、一気に川が増水したんだ」
地響きはいっそうひどくなっていました。足元の崖にひびが走り、ばらばらと崩れ始めます。風の犬たちが焦って言いました。
「ワン、このままじゃ川に転落する!」
「飛び上がるわよ!」
仲間たちを背中に乗せたまま空に舞い上がります。
山に刻まれた渓谷が、上流からみるみる赤く変わっていました。
滝からほとばしり、数百メートルを落下していった水が、滝壺に落ちて、また流れていくのです。赤い泥を大量に含んだ流れは谷の壁に激突し、曲がりくねりながら、さらに川下へと突進していきました。その勢いに川岸の崖が崩れ、河原が一瞬で埋まってしまいます。
すると、ポポロが自分たちのいた崖を指さしました。
「あそこ――!」
崖の中ほどにガウス侯がいたのです。地震のように揺れる崖を、登ることも降りることもできなくなって、岩にしがみついています。そこへ赤い土石流が押し寄せてきました。ガウス侯のいる場所に迫ります。
フルートは叫びました。
「あそこに行け、ポチ!」
えっ、でも――と言いかけて、ポチはあわてて口をつぐみました。こんな状況でも、フルートの感情の匂いははっきりと伝わってきます。土石流に呑まれそうになっているガウス侯を助ける! フルートは、本当に、そのことだけしか考えていないのです。
ポチは崖に向かって急降下しました。必死で岩にしがみつくガウス侯が、たちまち大きくなってきます。そのすぐ近くまで土石流が迫っていました。震動で崖が崩れ始めます。
すると、フルートより先にアキリー女王が身を乗り出しました。
「グルール――つかまるのじゃ――!」
今にも転がり落ちそうな候へ、懸命に手を伸ばします。
とたんにガウス侯が振り向きました。自分に差し伸べられた女王の手を見つめ、一瞬大きく顔を歪めると、いきなりその手を払いのけます。
驚く女王へ、ガウス侯はどなりました。
「おまえの助けは借りん! おまえにだけは――死んでも絶対に――!」
女王は何も言えなくなりました。手を伸ばしたまま、ガウス侯を見つめてしまいます。そこへ赤い泥の津波が押し寄せてきました。あっという間に渓谷を充たし、川も崖も呑み込んでいきます。その中に、ガウス侯も巻き込まれました。激流に押し流されていきます。
「ワン、このままじゃぼくらも巻き込まれる! 上がりますよ――!」
とポチが急上昇を始めます。
女王は思わず目を閉じました。その脳裏に浮かんできたのは、もう四十年近くも昔の、遠い日の出来事でした。
宮殿の中庭の東屋(あずまや)で、彼女はベンチに一人で座っていました。泣くまいと思うのに、涙は次々にこみ上げてきて、ふくらんだズボンの膝を濡らします。彼女に声をかける者はありません。王の子と言っても、彼女は末っ子で、上には大勢の兄たちがいます。王位や権力からほど遠い場所にいる彼女には、取り巻きも気を遣ってくれる相手もいなかったのです。
すると、そこへ少年がやってきました。宮殿に遊びに来ていた、従兄弟のグルール・ガウスです。泣いている彼女を見つけると、ひょろりとした体をかがめてのぞき込んできました。
「どうしたの、アク? 何をそんなに泣いているのさ?」
彼女は首を振りました。ことばにすれば声を上げて泣き出しそうで、話をすることができません。
すると、グルールが言いました。
「陛下が君の兄上たちを連れて芝居見物に出かけたからだね? 自分だって王の子どもなのに、いつものけ者にされるから、それがつらくて泣いているんだろう?」
優しいけれど、確信のこもった口調です。彼女が思わず顔を上げると、グルールは微笑しました。
「わかるさ、それくらい。このぼくだって、いつもそういう悔しさを味わっているからね。ぼくの母上は陛下の姉だ。ぼくにも皇太子や王子たちとまったく同じ王家の血が流れているのに、ぼくには生まれながらに王の家臣になることが運命づけられているんだ。おかしいよね。ぼくも君も、皇太子なんかよりずっと賢いって言うのにさ――」
その笑顔が何か熱いものに彩られた気がして、彼女は不安になりました。泣くのを忘れて、つい言ってしまいます。
「グルール、それを口に出して言ってはいけないわ。誰かに聞きつけられたら、反逆者として処刑されてしまうから」
「言うもんか」
とグルールはいっそう笑いました。
「これはぼくと君の二人だけの秘密さ、アク。ぼくたちは同じものなんだ。天から知恵も力も授かってきたのに、それを発揮できない場所に生まれてしまった賢者なのさ。でも、見ていろ、アク。ぼくはいつかきっと、ぼくのこの力でこの場所から這い上がってみせる。そして、テトの王になって、この国をいっそう豊かにしていくんだ。ぼくにはそれだけの力があるんだからね」
彼女は首をかしげました。従兄弟のことばは危険なものをはらんでいましたが、彼女にはそれがたまらなく魅力的に聞こえました。尊敬の目で見上げてしまいます。
「あなたって本当に強いわね、グルール。あなたがその夢をかなえたら、その時には私は……」
私はあなたの奥さんになりたいわ、と言いかけて、彼女は口ごもりました。幼い頃から冗談のように何度も、将来はグルールのお嫁さんになる、と言っていたのに、急に恥ずかしくなってしまったのです。顔を赤らめてうつむきます。
そんな彼女へ、グルールは優しく話し続けました。
「もちろん、君はいつまでもぼくの大切な存在さ、アク。ぼくは君で、君はぼくなんだからな。だから、泣くんじゃない。国民にも世界にも顔を上げて、堂々と生きていくんだ」
グルールの声はまっすぐでした。その声につられて、彼女もまっすぐ前を向きます。花と緑にあふれた中庭が、二人の周りに広がっていました――。
アキリー女王は再び目を開けました。眼下を赤い土石流が走り続けています。渓谷はずっと下流のほうまで土砂に埋まっていました。流されていったグルール・ガウスの姿は、もうどこにも見当たりません。
「アク、ごめん……ガウス侯を助けられなくて」
とフルートが言いました。どこかが痛んでいるような、ひどくつらそうな声でした。ポポロのほうは何も言わずに涙を浮かべています。
女王は頭を振りました。
「いいや、フルート、ポポロ。そなたたちがすまなく思うことではない。これはグルールが自ら招いた結末なのだから……。これでよい。これでよいのじゃ」
自分に言い聞かせるように繰り返した女王の目から、二粒の涙がこぼれ落ちていきました。涙は頬を濡らします。
夜が明け始めた空から、ルルに乗ったゼンとメールが、おおい、と呼び、山の中腹の岩場では、セシルとオリバンとユギルを乗せた管狐が大きく飛び跳ねていました――。