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第16巻「賢者たちの戦い」

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109.黒髪の男

 気がつくと、フルートは誰もいない場所に一人で立っていました。

 周囲には月の光のような冷たい明かりが充ちていますが、その外側は真っ暗で、いくら目を凝らしても見通すことができません。光に照らされている場所にも、これといったものはありません。エジュデルハの滝の裏にあった洞窟のように、磨き上げられた黒大理石の床が広がっているだけです。

 ここは? とフルートは考え、いきなり痛みに襲われて前屈みになりました。フルートの腹にはガウス侯に刺された傷が残っていて、まだ血を流していたのです。紅く染まった服の上から傷を押さえて、うめきます。

 すると、誰かが話しかけてきました。

「ヨウコソ、ふるーと。コウシテマタ一対一デ話スコトガデキテ、嬉シク思ウゾ」

 妙に貫禄のある言い方ですが、フルートはその声をよく知っていました。

「デビルドラゴン!」

 と叫んで振り向き、そのまま目を見張ってしまいます。

 そこにいたのは四枚翼の影の竜ではありませんでした。以前、闇の声の戦いで出会ったような、実体化した姿でもありません。立っていたのは、長い黒髪の背の高い男性でした。血のように赤い瞳で、じっとフルートを見ています――。

 

 とたんに、フルートは大きく飛びのきました。男の正体に気づいたのです。総毛立つような恐怖に襲われながら、また言います。

「おまえ、デビルドラゴンだな――!?」

「イカニモ」

 と男は答えました。地の底から這い上がってくるような、あの声ですが、姿はどう見ても人間の男性です。ポポロのような黒い長衣を着ていますが、その中に星のきらめきはありません。闇そのものの黒さをまとっています。

 フルートは背中から炎の剣を引き抜きました。男に向かって構えながら尋ねます。

「その姿はなんだ!? どうして人間の恰好なんかをしている!?」

 人間のデビルドラゴンは非常に整った顔立ちをしていました。ただ立っているだけなのですが、その姿にもなんとも言えない気品と風格があります。闇の竜の化身だと知らなければ、どこかの国の王と勘違いしそうなほどです。

 デビルドラゴンは落ち着き払って答えました。

「ぐるーる・がうすガ我ニ多クノ生贄(いけにえ)ヲ捧ゲタカラダ。何千トイウ肉体ト魂ガ、我ニ実体ヲ与エタ。実体サエアレバ、モウ器(うつわ)ハ必要ナイ。我ハ我自身デ世界ニ現レ、コノ世界ニ君臨スルコトガデキルノダ」

 フルートは顔を歪めて剣を握りしめました。恐怖のあまりデビルドラゴンにひれ伏したくなる自分と必死に戦いながら、言い返します。

「実体になった――!? そんなはずはない! それならば、どうして現実の世界に現れない! ここは現実の世界じゃない! おまえが作った結界の中だ!」

「相変ワラズ察シガ良イナ、ふるーと。正確ニハ、我ノ世界ト現実トノ狭間(はざま)ニ当タル場所ダ。オマエノ言ウ通リ、我ハマダコチラ側ノ世界カラ完全ニ解キ放タレテハイナイ」

 答えるデビルドラゴンの右足首には、足かせがはめられていました。鈍く光る鎖が長く延びて、闇の中に見えなくなっています。

 その先を見ながら、フルートは言いました。

「この向こうに世界の果てがあるんだな。おまえはそこに幽閉されているんだ。二千年もの間、ずっと。――無駄だ、デビルドラゴン! おまえはやっぱりそこから出てくることができない! ガウス侯は敗れた。おまえはもうそれ以上、生贄を手に入れることができないんだ!」

「ドウカナ?」

 とデビルドラゴンは答えました。優美にさえ見える表情で笑って見せます。

「ぐるーる・がうすノ怒リト憎シミハ、我ニ大キナチカラヲ与エタ。我ハ間モナク、ココヲ飛ビタツノダ」

 とたんに、フルートの目の前にデビルドラゴンが現れました。一瞬で何メートルもの距離を飛び越えてきたのです。フルートの頭を殴り、前のめりになったフルートの腹に膝蹴りを食らわせます。フルートは悲鳴を上げて地面に倒れました。先に傷を負った腹をまともに蹴られたのです――。

 

 地面を転げ回って苦しむフルートに、黒髪のデビルドラゴンは言い続けました。

「今マデノヨウニ、我ガコトバダケデ誘ッテクルト思ッテイタノダロウ。我ハスデニ肉体ヲ手ニ入レタ。人間ヲ器ニスルタメニ、心ヲ奪ウ必要ハ、モウナイノダ。我ガ欲スルノハ、我ノ鎖ヲ断チ切ル最後ノ一太刀。ソレヲオマエカライタダク」

 人の姿の竜が手を伸ばしてきました。その指先には長く鋭い爪があります。捕まったら死ぬ、とフルートは直感しました。痛みに気絶しそうになりながら床を転がり、デビルドラゴンから遠ざかります。

「無駄ナアガキダ」

 と男は冷笑しました。ゆっくりとまた歩み寄りながら、話し続けます。

「オマエタチガえじゅでるはノ滝ニヤッテキタトキ、我ハスデニ肉体ノ大部分ヲ得テイタ。必要ダッタノハ、アト百人足ラズノ魂、アルイハ、ソレニ匹敵スル大イナル魂ノ持チ主。金ノ石ノ勇者ハ輝カシイ魂ヲ持ッテイル。オマエ一人ヲ食ラエバ、我ハコノ世ニ復活スルコトガデキルノダ――」

 再びデビルドラゴンが手を伸ばしてきました。腹を押さえてうずくまるフルートを捕まえようとします。

 すると、フルートが体を反転させました。握っていた剣で鋭く切りつけます。

 デビルドラゴンはとっさに飛びのきました。後になびいた黒髪が一房切り落とされて、炎に変わります。

 

 フルートは必死で立ち上がりました。片手に剣を構え、もう一方の手で腹を押さえながら叫びます。

「おまえは実体になった! ということは、炎の剣もおまえに効果があるってことだ! 近寄るな! ぼくは絶対におまえに食われたりはしないぞ!」

 それを聞いて、デビルドラゴンがまた笑いました。

「ドウスルツモリダ。オマエヲ助ケル仲間ハ、誰モイナイノダゾ。ココハ我ニ属スル闇ノ領域。金ノ石ヲ持タナイオマエガ、ドウヤッテ我ニ抵抗スルトイウノダ」

 すると、フルートが剣を大きく振りました。ごうっと音を立てて炎の弾が飛び出し、黒髪の男の足元で破裂します。

「もちろん、こうやってだ! 絶対に、おまえの復活の手助けなんかするもんか――」

 そこまで言いかけて、フルートは息を飲みました。デビルドラゴンがまた目の前に現れて、フルートの腹を蹴ったのです。激痛に声が出なくなり、その場に膝を突いてしまいます。

 デビルドラゴンが勝ち誇った顔でつかみかかってきました。

「モラッタゾ、ふるーと! 吸収サレテ我ノチカラトナリ、我ト共ニ世界ヲ滅亡サセルノダ!」

 ところが、フルートが膝を突いたままの恰好でまた剣をふるいました。デビルドラゴンが飛びのくと、剣を構え、あえぎながら言います。

「嫌だ、と言ってる! 絶対に、おまえに世界は渡さない――! おまえは、さっきからほとんど魔法を使っていない……。魔法を使うと、力を使うことになって、せっかく手に入れた肉体を失うからだ……。それなら、ぼくと五分と五分。ぼくは、絶対に負けない……!」

 ホウ、とデビルドラゴンが言いました。

「マッタク、嫌ニナルホド察シノ良イ勇者ダ。ヨカロウ。デハ、我ノ代ワリニ、コイツラニオマエノ相手ヲサセヨウ」

 デビルドラゴンが招くように手を振ると、周囲を取り囲む闇の中からうなり声が聞こえ始めました。たくさんの生き物がうごめく気配がします。

 フルートはよろめきながら立ち上がり、剣を構えて周囲を見回しました。闇の中の生き物がこちらへ迫ってきます――。

 

 それは何十という怪物の群れでした。獣や鳥、虫や人に似た醜悪な生き物が姿を現し、黒髪の男へうやうやしく頭を下げます。

「やってまいりまシタ、我ラが王。お呼びでごザイますか」

 奇妙に響く声は、闇の怪物の特徴です。

 デビルドラゴンが言いました。

「ソコニイルノハ、金ノ石ノ勇者ダ。我ノタメニ捕ラエヨ」

 金ノ石の勇者!! と怪物たちはざわめきました。たちまち大騒ぎが始まります。

「き、金ノ石ノ勇者は、願イ石を持っていマス!」

「我ラが王、我々が勇者を食らってモ良いですか!?」

「ナラヌ。金ノ石ノ勇者ハ、肉体モ魂モ我ノモノダ。オマエタチハ、勇者ヲ捕ラエルノダ」

 とデビルドラゴンは答えましたが、怪物たちはそれに従う様子をしていませんでした。フルートを捕まえたら即刻自分が食らって、願い石を自分のものにしようと考えているのです。虎視眈々(こしたんたん)とフルートを狙う怪物たちに、デビルドラゴンが密かに冷笑します。

 真っ先に動いたのは両手が翼になった人型の怪物でした。ハーピィです。

「いただいタ! 金の石ノ勇者は、私のモノだ!」

 と怪物の群れの中から飛び出してフルートに襲いかかっていきます。

 フルートは剣を振って炎の弾を撃ち出しました。ハーピーが炎に包まれて、燃えながら落ちていきます。とたんにフルートは大きく顔を歪めました。ハーピーが人のような悲鳴を上げながら燃えていったからです。自分も一緒に焼かれているような苦痛の表情を浮かべます。

 闇の怪物たちのほうは仲間が殺されても平気でした。炎を飛び越えて我先にフルートへ殺到します。フルートはなぎ払うようにまた剣を振りました。炎の弾が前列の怪物をまとめて火だるまにします。

 とたんにフルートの膝が崩れました。傷の痛みと苦しさに立っていられなくなったのです。そこへまた怪物が飛びかかってきました。フルートが剣を振ると、何匹もがまた火に包まれます。

 

 デビルドラゴンが言いました。

「イツマデ戦イ続ケラレルカナ。オマエノ体力ハ限界ニ近ヅイテイル。体力ガ失ワレレバ、炎ハ撃チ出セナクナルノダ」

 そのことばの通り、炎の弾は威力は失いつつありました。フルートが剣を振っても、小さな炎しか出てこなくなります。

 それを避けて怪物が飛びかかってきました。鞭(むち)のような触手を何本も伸ばして、フルートの体を絡め取ります。フルートが剣で触手を断ち切ると、怪物はたちまち炎に包まれましたが、同じ炎にフルートも火傷を負ってしまいます――。

 すると、フルートの両腕が背後からいきなり押さえ込まれました。大きな人のような怪物が、フルートの腕をつかんだのです。いくらもがいても、怪物を振り払うことができません。

「いただくゾ、金の石ノ勇者! 願イ石はオレのものダ!」

 怪物が歓声を上げて食いついてきます――。

 

 すると、怪物がいきなり音を立てて破裂しました。緑の血しぶきと体の破片が、ばらばらとフルートに降りかかってきます。

 怪物へ手を向けていたのはデビルドラゴンでした。冷ややかなまなざしと声で言います。

「ふるーとハ我ノモノダト言ッタハズダ。オマエタチノ役目ハ、ふるーとノ体力ヲ削ルコトダケダ。ソレモモウ終ワッタ。消エロ」

 とたんに、周囲に押し寄せていた怪物たちも破裂しました。絶叫を上げながら粉々になって、消えていきます。フルートも見えない力に吹き飛ばされて倒れました。そのまま動けなくなってしまいます。

 また一人きりになったデビルドラゴンは、フルートのすぐ前までやってきました。血の瞳を細めて笑います。

「モウ抵抗スルコトハデキマイ。絶望シナガラ我ノ一部トナリ、我ニチカラヲ与エルガイイ」

 フルートは仰向けに倒れたまま、本当に動くことができませんでした。体がしびれてしまって、立ち上がることも、手元に落ちている剣を握ることもできなくなっていたのです。デビルドラゴンが背後から黒い触手を伸ばすのを、目を見張って見つめます。恐怖が全身全霊を捕らえていきます。

 すると、触手がフルートの右肩に突き刺さりました。激痛にフルートが悲鳴を上げると、別の触手が左肩にも突き刺さってきます。

 ずずっと水が引いていくような音と共に、フルートの全身から力が抜け始めました――。

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