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第16巻「賢者たちの戦い」

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103.壁画

 黒光りする扉をくぐった奥には、先の洞窟と同じような空間がありました。壁も天井も水が削った滑らかな岩でできていますが、床だけは不自然なほど平らな黒大理石でした。どこから差すのかわからない光が、岩屋全体に充ちています。

 ガウス侯は周囲を見回し、岩壁の一箇所へ目を止めました。そこに壁画があったのです。滑らかな岩の上に刻み込まれた線が、長い蛇のような絵を形作っています。ただ、その蛇には短い四本の脚がありました。首から先の部分は、岩ごとそっくりはがれ落ちて失われています。あの石板に刻まれていた竜の絵の本体です。

 ガウス侯は岩壁の前に立つと、壁画へ呼びかけました。

「力が欲しければまたここへやってこい、と天幕でおまえは言ったな。言われたとおり、私はやってきた。おまえの力を使う石板をもう一度私へ渡せ。今度こそ、私は都を落としてアキリーを殺し、テトの王となるのだ!」

 まるで生きているものへ話しかけるような口調です。

 

 すると、それに答えて、壁画がぼうっと光り出しました。失われた頭部に、赤く光る二つの目が現れ、ぎょろりとガウス侯を見下ろします。

「オマエニハモウ、シハラウベキモノハ、ナニモノコッテイナイ」

 と、どこからか声が聞こえてきました。人のものではない、不気味な響きの声です。

「オマエガノゾムタビニ、ワレハオマエニ、サマザマナチカラヲアタエタ。カイブツヲアヤツルチカラ、テンコウヤ、ダイチヲカエルチカラ。ソシテ、ケイヤクドオリ、オマエノシロノニンゲンヲウケトッタ。ワレノチカラハ、ヒトノタマシイトシカ、ヒキカエラレナイカラダ。……オマエノシロニ、モウニンゲンハノコッテイナイ。リョウチノニンゲンモ、ツギツギニ、ニゲダシテイル。チカラヲエルタメニ、オマエガシハラエルモノハ、モウナニモナイノダ」

 ガウス侯は歯ぎしりをしました。壁画に向かってどなります。

「私の妻子には手を出すなと言ったはずだぞ! テトから世界へ攻めて出るためには、妻の実家の財力が必要だったのだ! 約束が違うではないか!」

「ゲンカイイジョウノチカラヲノゾンダノハ、オマエノホウダ。カワギシヲクダキ、ごーれむヲヨビダシ、オマエハ、オマエノモツモノスベテヲ、ツカイハタシテシマッタノダカラ」

 と壁画の竜は答えました。何の感情も感じさせない声です。

 ガウス侯はまたどなりました。

「おまえには、私がこれから征服する場所の住人を与えてやる! 手始めはマヴィカレの都だ! 私が都を落としたら、アキリーと一万の人間の魂をおまえにやろう! それでどうだ!?」

 と壁画の竜を相手に交渉を始めます。

 赤く光る二つの目が、冷ややかに笑いました。

「ソレハウケトレヌ。ミヤコハマダ、オマエノモノデハナイ。イマ、モッテイルモノシカ、オマエハサシダスコトガデキナイノダ」

 ガウス侯はまた歯ぎしりしました。力を得るために自分に出せるものはないかと考えを巡らし続けます。

 そんな候へ、壁画は言い続けました。

「オマエニノコサレテイルモノハ、モウ、ヒトツシカナイ。ワレノチカラヲモトメルナラ、ソレヲサシダセ」

 たちまちガウス侯は表情を変えました。じろりと壁画をにらみ返し、口元を歪めて冷笑します。

「それだけはやらん、と何度言わせる、竜の秘宝よ。それは破滅の契約だ」

「イイヤ、オウニナルタメノケイヤクダ。ダガ、ソレヲキョヒスルナラバ、ハナシハオワリダ。ココカラタチサレ、ニンゲン。ココハ、オウトナルベキモノガ、チカラヲエルバショナノダ」

 赤い目が岩壁に消え始めたので、待て! とガウス侯がまたどなります――。

 

 その時、半ば開いた扉の向こうで、チチチ、と鋭い声がしました。続けて、ゴウッと音がして、熱い風が扉を押し開けます。風と共に飛び込んできたのは、黒いコウモリでした。全身炎に包まれ、たちまち燃え尽きていきます。

「誰だ!?」

 とガウス侯はどなり、すぐに、これとそっくりな状況が以前にもあったことを思い出しました。すさまじい顔で入口をにらみつけます。

「やはりこの場所に気づいたか、アキリー――!」

 入口から金の鎧兜の少年が飛び込んできました。続いて入ってきた女性をかばうように、盾と剣を構えます。その足元に白い小犬が駆けてきて、ウゥゥーッとうなり声を上げます。

 女性がガウス侯へ言いました。

「あなたはもう負けたのじゃ、グルール! あなたの夢はとうに破れている! 闇の力から離れて投降するのじゃ!」

 

 ガウス侯はアキリー女王をねめつけました。フルートから剣を突きつけられ、ポチにうなられても、動じる様子もなく言い返します。

「投降? 誰に向かってそんなことを言っている、アキリー。私はこの国の王となるべく生まれてきた男なのだぞ」

 女王は頭を振りました。ベールが揺れて波打ちます。

「それは違う。そなたは王の器ではない、グルール!」

 たちまちガウス侯の顔つきが変わりました。女王をまたにらみつけて言います。

「何を根拠にそんなことを言う!? 知恵、勇気、力、威厳――私は王の条件をすべて持ち合わせているのだぞ! 女のおまえより、はるかに王らしい王なのだ!」

 ガウス侯の声には、相手に有無を言わせない圧力がありました。理屈を越えて相手を服従させてしまう、王者の声です。ポチが思わずうなるのをやめてしまいます。

 けれども、女王は負けずに言い続けました。

「あなたは自分の民を守らぬ! 領主としてまず第一にするべきことをせずに、どうして民を司る王になれるのじゃ!? 」

 ふん、とガウス侯は冷笑しました。相変わらず侮蔑する目で女王を見て言います。

「この私に帝王学を語るか、アキリー。先王から顧みられることもなかったおまえが? 女なら女らしく、男に服従して子をなしていれば良かったのだ。テトの将来も考えられぬ愚か者のくせに」

「テトの将来を考えられぬのは、あなたじゃ、グルール!」

 と女王は反論を続けます。

「あなたは自分の野望をかなえるために、自分の城の家来と家族すべてを犠牲にした! そんな人間が王となって、どうして国を守れるのじゃ!?

 誤解するな! 民は国そのものじゃ! 王の野望を実現するために存在する道具ではない!」

「王の進む道に犠牲はつきものだ」

 とガウス侯が悪びれる様子もなく答えます。女王のことばを受け入れる様子など、これっぽっちも見られません。

 

 すると、フルートが剣と盾を構えたまま口を開きました。

「国民は王を選ぶことはできないけれど、王を慕うことはできる。ぼくがテトの民だったら、絶対にアクのほうを慕う。そして、アクのために喜んで共に戦う。オファのマーオ人や、フェリボや都の兵士たちのように――。そんなふうに自然に人の心を動かすのが王なんだ。あなたは絶対にそんなふうにはなれない!」

 とガウス侯へ言い放ちます。

 候はフルートも見下す目で眺めました。勇者の少年は、女性のアキリー女王よりさらに背が低くて小柄です。

「小僧が偉そうに何を言う。自然に人の心を動かすのが王だと? そんなことは当然だろう。私にも、たやすくできることだ。――来い、アキリー! そんな小僧の後ろに隠れていないで、私の元へやってこい!」

 突然ガウス侯から呼びつけられて、女王は飛び上がりました。青ざめてガウス侯を見つめます。

 フルートとポチは呆気にとられ、すぐにあわててしまいました。女王がフルートの後ろから進み出て、本当にガウス侯のほうへ歩き出したからです。

「アク!」

「ワン、だめですよ――!」

 急いで引き止めようとすると、ガウス侯がどなりました。

「邪魔をするな!!」

 その迫力に、フルートもポチも思わず立ち止まってしまいます。

 

 女王が目の前までやってくると、ガウス侯は満足そうに笑いました。女王のこわばった体をぐいと抱き寄せて言います。

「何故そんな顔をしている。私にこうされることを、おまえはずっと夢見ていたのだろう? いつも憧れと賞賛の目で私の後を追いかけていた、小さなアク。私はおまえが本当にかわいかったのだ。だから、王の血を引いていても、おまえだけは手にかけなかった。そんなおまえが私に歯向かい、先王が没した後の会議で、城の重臣たちを残らず味方につけて女王になったと聞いたとき、私は自分の耳を疑ったのだ。彼らはおまえを説得して、王位を私に譲らせるはずだったのだからな。何故そんな真似をした、アク。私は怒り、おまえに失望したのだぞ――」

 女王は唇を震わせました。いつもあれほど毅然としている彼女が、ガウス侯の前では、少女のようにおどおどしています。

「それが……正しいと思ったからじゃ……。テトのためには、わらわが王にならねばならぬと……」

「私のほうが、もっと良い王になれる」

 とガウス侯は言い切りました。女王のベールを払いのけると、頬に触れ、急に打ち解けた口調になって耳元でささやきます。

「君がぼくにしたことを許してあげよう、アク。ぼくの敵になるのはやめるんだ。そうすれば、ぼくは君を愛そう。そして、昔以上の関係になっていこう。従兄弟同志であっても、愛し合うことはできるんだからね」

 候の声は甘く優しく響きました。青年が恋人へ愛をささやいているようです。女王は身じろぎひとつしませんでした。候の指先が顎から首筋へと滑っていくと、あふれてくるものをこらえるように目を閉じます。

 候は、勝ち誇った笑顔になりました。されるままでいる女王の唇に唇を重ねて、深く口づけをします。

 

 その時、竜の壁画の、失われた頭のあたりに、また赤い二つの目が現れました。ガウス侯の肩越しに、アキリー女王を見下ろします。

 ガウス侯は唇を離し、女王を強く抱きしめました。甘い声で、また耳元にささやきます。

「ぼくのものになれ、アク。そして、王位も君も、すべてぼくによこすんだ……!」

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