夜の中、ガウス山を登っていく二人の男がいました。一人は黒い口ひげのガウス侯、もう一人は側近のイタートです。
ガウス侯は馬にまたがり、イタートはその足元をランプで照らしながら徒歩で進んでいました。空では満月が輝いていますが、木々が影を落とすので、山道にはいたるところに暗闇が淀んでいます。闇はうずくまった怪物のようです。
すると、上空で突然ひょぉぉぉ、と音がしました。飛び上がった側近に、ガウス侯が言います。
「恐れるな、イタート。ただの風だ」
木々の梢が風にいっせいにざわめき、また静かになっていきます。
イタートは気を取り直したようにまた歩き出し、やがて候に尋ねました。
「本当にこのような場所に神がおいでなのですか、殿……? この先は山が深くなるだけで、町も寺院もございませんが」
ガウス山は鉄が採れるので、山中にも町がいくつもあります。町へ続く山道は太くて立派なのですが、こちらの道は木々に埋もれていて、今にも行き止まりになりそうに感じられます。
そうだ、とガウス侯は答えました。
「寺院に行っても、そこ飾ってあるのはグル神の像だけだ。所詮、人が木を刻み色を塗って作ったものに過ぎない。我々がこれから行こうとしているのは、神に直接出会える場所だ」
「神に出会える場所……。で、ですが、私などがそこに同行してよろしいのでございましょうか? 殿はこの国の王となる方ですが、私はただの家来です」
不安と期待が入り混じった表情をする側近へ、ガウス侯は鷹揚に笑って見せました。
「無論だ。私はすべてを失ったが、それでもおまえはこうして私に従っている。私と共に神に会う権利が、おまえにはあるのだ。それに、私も決してこのままではいない。再び神から力をいただき、必ず世界に君臨してみせるのだ」
敗軍の将とは思えない、堂々とした態度とことばです。
イタートはランプを掲げたまま、候へ深く頭を下げました。
「グル神は偉大なるかな……! 神は殿を見捨ててはいらっしゃいません。マヴィカレの戦場から殿や私たちを救い出し、こうして故郷へ送り届けてくださったのですから。もちろん、神は殿にまた力をお与えくださるでしょう。殿は世界の王となるべきお方なのですから」
側近の賞賛に、ガウス侯は何も答えませんでした。それが当然という表情で馬を進めています――。
やがて、小さな峠を越えると、森が切れて視界が開けました。峠の左脇は急な斜面になっていて、はるか下のほうから川の音が聞こえてきます。前方は低い木におおわれた下り坂で、突き当たりに切り立った岩壁がそびえています。その絶壁の上から下の川に向かって、水が勢いよく流れ落ちていました。月の光の中、筋を描いて流れる滝は、空へ昇っていく白い竜のようにも見えます。
「着いたぞ」
とガウス侯が言ったので、イタートは驚きました。
「殿はエジュデルハの滝を目ざしておいでだったのですか――。気のせいでしょうか、滝が以前よりも細くなっているように感じられますが。雨が少なかったわけでもないのに、どうしたことでしょう?」
「もっと上流で山崩れが起きて、川の流れが細くなったからだ。そのおかげで、私は竜の秘宝を見つけることができたのだ」
とガウス侯が答えたので、側近は不思議そうに候を見上げました。意味がわからなかったのです。候はまた笑いました。
「おまえにはすべて教えてやろう。ついてこい、イタート」
と先に立って前方の森へ降りていきます。イタートはその後についていき、彼らの行く手で木々がひとりでに道を開いていくのを見て、目を丸くしました。道は滝の流れ下る絶壁へと彼らを導きます。
歩きながら、ガウス侯はまた話し出しました。
「今から三ヶ月ほど前のことだ。シャラパで老朽化した寺院を取り壊したところ、祭壇の裏側から古い書きつけが発見された。ガウス川の秘宝を歌うおなじみの詩だが、文言(もんごん)が少し違っていた。そこで、工事現場の頭領は歴史的に貴重なものかもしれないと考え、私へ祭壇を献上してきた――。今では、ガウス川の白い竜は大いなる宝を前足に握っている、と歌われ、白い竜はガウス川の象徴、宝とはガウス山の鉄のことだと解釈されている。ところが、見つかった書きつけには、白い竜はその身の陰に宝を隠す、とあった。川の陰に宝を隠すことはできない。私は、白い竜とはガウス川ではなく、このエジュデルハの滝のことではないかと考えて、小姓だけを連れて、ここまで確かめにやってきたのだ――」
話すうちに、彼らはもう坂を下りきって岩壁までやってきていました。坂の左側は崖になっていて、絶壁ははるか下のほうまで続いています。そこを滝の水が流れているので、近くへ行くと、岩に当たって飛び散るしぶきが、雨のように降りかかってきました。滝の音が大きすぎて、話はなにも聞こえなくなってしまいます。
ガウス侯は馬から下りると、身振りでイタートからランプを受けとりました。灯りを掲げ、絶壁の上を無造作に歩き出します。絶壁には道のように張り出した岩棚があったのです。滝まで進んでいって、激流の中へ姿を消していきます。
イタートは仰天して岩棚の道へ飛び出しました。滝へ駆けつけて候を呼びますが、水音がうるさすぎて、声はやはり打ち消されてしまいます。
すると、激流のカーテンの陰からガウス侯が顔を出しました。轟音(ごうおん)の中、イタートに向かって手招きをします。滝と岸壁の間に隙間があって、岩棚の道はそこへ続いていたのです。
滝の裏側をさらに行くと、そこには大きな空洞がありました。滝の水が岩壁を削って作った洞窟です。滑らかな岩に囲まれた空間は、高さが十メートルあまり、奥行きも同じくらいの距離があります。
洞窟の中へ入っていくと、滝の音が遠ざかり、また会話が聞こえるようになりました。
「ここは……」
と周囲を見回すイタートへ、ガウス侯が言いました。
「ここが神のいる場所だ――。これまでは滝の水量が多かったので、ここへいたる道は誰にも気づかれなかった。だが、隠されていた書きつけが発見され、滝は細くなった。これこそ神が私を招いた証(あかし)と確信して、私は道を進み、この場所を発見したのだ。見ろ、イタート。あれが神の間へ続く入口だ」
ガウス侯が示した洞窟の奥に、ひとつの扉がありました。黒光りする金属でできていて、金の取っ手がついています。錠前や鍵穴は見当たりません。
ごくり、と咽を鳴らした側近に、ガウス侯は言い続けました。
「あの奥に我々の神はいる。私は再び神に会って、また王となるための力を得るのだ」
けれども、候はランプを掲げたまま動きませんでした。王の扉を開けるのは家来の役目なのです。イタートは一礼すると、おそるおそる扉へ近づきました。金の取っ手に手をかけ、そっと押してみます。
ところが、扉はびくともしませんでした。力を込めて押しますが、やはり扉は開きません。いくら押しても引いても扉が動かないので、イタートは困惑してガウス侯を振り向きました。いかがいたしましょう、と尋ねようとします。
とたんに彼はすさまじい声を上げました。
「手! 手が――!」
イタートの手が、貼り付けられたように、金の取っ手から離れなくなっていました。あわてて引きはがそうとすると、扉を押した左手までが扉の表面から離れなくなってしまいます。
「と、殿――!?」
助けを求めたイタートの声が、また悲鳴に変わりました。取っ手を握り、扉を押した両方の手が、溶けるように扉へ消え始めたからです。みるみる吸い込まれていって、手から手首、肘までが見えなくなってしまいます。
「殿! これはなんでございましょう!? 私の手が扉に吸い込まれてしまいます――!!」
叫び続ける側近へ、ガウス侯は冷静に言いました。
「それは人の体と魂を得て開く扉だ。祭壇から見つかった詩にもそう書かれていた。先にここにきたとき、その扉を開けたのは小姓だった。今度はおまえが私のために扉を開けているのだ。栄誉と思え、イタート」
扉は側近の体を呑み込み続けました。腕から体と脚を、そして頭を。口が扉の中へ消えると、悲鳴が突然やんで、洞窟は静かになりました。入口から滝の音が響いてくるだけです。涙を流す両目が、主君を見つめながら扉へ消えていきます……。
扉は側近をすっかり呑み尽くすと、音もなく開きました。その奥に薄明るい空間が現れます。
ガウス侯はランプをその場に残すと、扉をくぐって奥へと進んでいきました――。