王都マヴィカレに夕暮れが訪れていました。都を取り囲むテト川が、夕映えに赤く輝いています。
川の南岸にはガウス軍が集結していました。およそ八千の大軍ですが、岸辺から百メートルほどの距離を取った場所に留まっていて、それ以上近づいてくる気配がありません。兵士が夕食の支度をする煙が、駐屯地のあちこちから、のんびりと上がっています。
「連中、今は攻めてくる気がねえようだな」
都の城壁の上から敵の様子を眺めて、ゼンが言いました。青い胸当てを身につけ、大きな弓と矢を背負っています。隣にいたオリバンが答えました。
「ガウス侯は味方の諸侯を取り戻した。そこから援軍が到着するのを待っているのだろう。彼らが一番待ち望んでいるのは、この川を越えるための船なのかもしれんな」
跳ね橋が上がっているので、川向こうから都を攻めるためには船を使うしかなかったのです。
「それが始まったら、この矢をお見舞いしてやるけどよ――正直なとこ、どうなんだ? この都はどのくらい持ちこたえられるんだよ?」
敵に攻められたときに城や街の入口を閉じて戦うことを、籠城と言います。外から食料などが入ってこなくなるので、立てこもる側は消耗戦を強いられるのです。
「通常、籠城戦が決着するにはかなり長い時間がかかる。攻められる側は、敵に包囲されることを想定して、城や街にかなりの食料や物資を蓄えているからな。短くても二、三ヶ月、長いときには数年かかる場合もある」
「数年!? んな長い間いられねえぞ、俺たち! デビルドラゴンを倒さなくちゃならねえんだからな!」
とゼンが声を上げると、一緒にいたユギルが言いました。
「それほど長くはかかりません。間もなく激戦が始まるという兆しが見え続けておりますので……。時間が過ぎれば、都にも国中から援軍が到着してまいります。そうなれば逆にガウス軍のほうが包囲される可能性もあるのです。その状況になる前に、ガウス侯は動き出すことでございましょう」
「二、三日のうちには攻撃を始める、ということだな。フルートが呼びに行った援軍が、ぎりぎり間に合う時間だ」
とオリバンが腕組みをします。
城壁の上には、彼らの他に見張りの兵士たちがいました。弓を持ち、銅鑼(どら)を備えて、敵が動き出したらすぐさま攻撃できるように構えています。けれども、その中に仲間の女性たちの姿が見当たりませんでした。ゼンがまた尋ねます。
「セシルたちは? どこに行ったんだよ?」
「もう夜になるので、女王と共に城へ帰した。メールやルルも一緒だ」
「アキリー女王はこのテトの象徴です。女王を守るために、女性の皆様方に警護に就いていただいたのです」
とオリバンとユギルが答えます。
なんだ、とゼンはがっかりしました。ルルに、オファへ行ったフルートやポポロの様子を確かめてもらおうと考えていたのです。フルートは死の予言を受けている、とゼンはメールから聞かされていました。いつも誰かを守るために無茶ばかりする親友を思い浮かべ、無事でいるんだろうな……? と心の中で案じます。
風が吹き、雲が流れて、夕日がひときわ明るく輝きました。茜色の光に川面が燃えるように耀きます。その中に、影のように黒々とガウス軍は留まっていました。静けさの中に危険と緊張をはらんだまま、太陽は西の丘の陰へ沈んでいきました――。
それと同じ頃、女王はテト城に帰り着いていました。行きは兵士たちを激励するために象に乗っていきましたが、帰りはセシルやメールたちと一緒に馬車に乗っていました。
女王が馬車を下りて宮殿に入ろうとすると、ルルが話しかけました。
「ねえアク、聞きたいことがあるんだけれど、いいかしら?」
女王は雌犬を振り向きました。
「なんじゃ、改まって? そなたたちならば、なんでも聞きたいことを聞いて良いのだぞ」
ガウス侯との会見から戻る船の中では、ひどく疲れて見えた女王ですが、今はもういつも通りの様子に戻っていました。
「少し込み入った話なの……。どこかにおちついて話せる場所はない?」
とルルが言ったので、女王はちょっと驚いた顔をしました。
「では、そなたたちの部屋で夕食をとることにしよう。食べながらならば、邪魔もなく話ができると思うが」
「それでいいわ」
とルルは答え、じっと女王を見つめました――。
「それで? 聞きたいこととはなんじゃ?」
メールやルルの部屋に食事を運ばせ、給仕の召使いを全員下がらせて自分たちだけになると、女王が言いました。同じテーブルを囲んでいるのはセシルとメール、そして、椅子の上に腰を下ろしたルルです。
ルルの前にも料理を取り分けた皿が置かれていましたが、それには口をつけずに、ルルが話し出しました。
「ガウス侯と会談したときの話の内容よ……。ガウス侯もアクも、グル神から賢者の証を受けている、って言っていたでしょう? あれはどういうことなの?」
なんじゃ、と女王は肩の力を抜きました。
「聞きたかったのはそんなことか――。賢者の証というのは、テトの大寺院で行われる試験に合格した者に与えられるのじゃ。ものとしては、手のひらに載るほどの金の板じゃが、それを受けることに意義がある。真の知恵と知識を持つ者は、他者の指導者となれ、というのがグル神の教えであるから、王族であれば国王の候補に数えられるし、貴族であれば城の重要な役目に就く。一般の者が証を受けたときには、寺院の僧侶になれるのじゃ」
ほう、とセシルが感心しました。
「国家試験のようなものだな。メイでも優秀な人材を登用するために行われているが、テトではそれを寺院が行うのか」
「そうじゃ。非常に難しい試験で、一年に一人か二人しか合格しないし、合格者がまったく出ない年もざらにある。だから、わらわたち王の子は、家庭教師の下で必死で勉強して、試験に臨むのじゃ。わらわは十六の年に証を受けた。だが、グルールは十一の年に合格して証を受けている。史上最年少じゃ。誰もがグルールは王の優秀な側近になるだろうと思っていたのだが――」
「側近じゃなく、自分自身が王になろうと考え出したんだね、ガウス侯は。そんなに優秀なら、自分のほうが王様にふさわしい、って思うようになったんだ。罪作りな試験だなぁ」
とメールがあきれます。
女王は小さな溜息をつきました。
「グルールが王になりたがっていたのは、もっと以前からじゃ。わらわは子どもの時分からグルールと幾度となく会っていたし、わらわは幼かったから、グルールのほうでも気を許して、本音を語ることがよくあった。わらわの兄者たちを愚か者だとあざ笑って、自分のほうが優秀な王になれる、と語ったのは、グルールが九つのときじゃ。あの頃からすでに、グルールは王座を狙っていたのだろう」
すると、ルルが首をかしげて女王を見ました。確かめるように言います。
「アク、あなたはどう思っていたの? ガウス侯がそんなに優秀ならば、彼のほうが王様にふさわしいだろう、とか――そんなふうには考えなかったの?」
ルル! とセシルとメールは思わず声を上げました。テトの女王に対して、あまりにも無礼なことばです。女王も驚いた顔をしましたが、すぐに苦笑して言いました。
「正直、そう考えたこともある。わらわは女だが、彼は男であるしな。人は、女より男の言うことに従いやすいものじゃ。だが、彼にテトを任せるわけにはいかなかった……。以前にも話したとおり、グルールは目的のためには手段を選ばぬ。世界を支配するという彼の野心のために、テトの国民は残らず利用され、使い捨てにされるだろう。そんな事態になれば、テトの国境は広がっても、テトという国は滅亡じゃ。ならぬ。そんな事態は、断じて起こすわけにはいかぬのじゃ」
と、きっぱりと言い切ります。自分の国を守る王の表情です。
そんな女王を見つめて、ルルはまた言いました。
「だから、彼を想うことをやめたの、アク?」
部屋の中が沈黙になりました。女王が真っ青になってルルを見つめ返し、ふいにその目をそらします。
セシルやメールは、はっとしました。女王の態度の意味は明らかです。
「アキリー女王、まさか……」
「アク、あんた、ガウス侯のことが好きだったのかい!?」
二人は思わず声を上げました――。