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第16巻「賢者たちの戦い」

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71.後退

 まだ夜があたりを包む、未明のフェリボ軍の野営地――。

 日中ずっとガウス軍の後を追い、夜になったので天幕の中で仮眠を取っていたフェリボ候の元へ、急な知らせが飛び込んできました。

「殿、一大事です! 北から敵が接近中! 大軍がこちらに向かって進んできております!」

 フェリボ候は鎧を着たまま簡易寝台に横になっていましたが、たちまち飛び起きて言いました。

「ガウス軍だ! ミラシュを起こせ! 全軍ただちに後退する!」

「了解!」

 伝令が天幕を飛び出していきます。

 フェリボ候も外に飛び出して、北の方角を眺めました。夜明けまでまだ間があるので、あたりはまだ真っ暗でしたが、その闇の中に細かく揺れ動く無数の光が見えていました。松明(たいまつ)を掲げた軍勢がこちらへ進軍してくるのです。ただ、敵とこちらの間には、まだかなりの距離があるようでした。

 フェリボ候が状況を確かめている間に、候の天幕はたたまれ、軍馬が準備されました。野営地全体でも、仮眠していた兵たちが飛び起き、あわてて出発の準備を整えます。そこへ候の息子のミラシュが駆けつけてきました。

「やはりガウス軍は引き返して来ましたね! 父上のおっしゃるとおりでした」

「ガウス侯は頭のいい男だ。都の軍勢と我々に挟み撃ちにされるのを恐れて、必ずこちらをたたきにくるだろうと思っていた。打ち合わせの通り、交戦せずに退却するぞ。ガウス軍を都から引き離すのだ」

 とフェリボ候は言いました。揺れる光の群れは、まっすぐこちらへ向かってきます。

 そこへ、伝令がまたやってきました。

「殿、若、全軍出発の準備完了です!」

 フェリボ軍の陣営でもたくさんの松明が掲げられ、隊列を組んだ兵士たちを照らし出していました。ブルルル、と馬たちが興奮して鼻を鳴らしています。

 フェリボ候は老いた姿とは裏腹な、力強い声で命じました。

「全軍後退! 敵をこちらへ惹きつけるぞ!」

 暗がりの中、出発の銅鑼は鳴らされませんでした。ただ粛々(しゅくしゅく)と、来た道を引き返し始めます――。

 

 けれども、罠は彼らの後方にありました。

 フェリボ軍が後戻りを始めて間もなく、隊列の中ほどで急に轟音と悲鳴が上がり、大勢の兵が姿を消したのです。彼らの足元で地面が崩れ、その上を通りかかっていた兵や馬を呑み込んでいきます。

「地割れだ!!」

「崩れるぞ! 下がれ!」

 フェリボ軍は大混乱に陥ります。

「地割れだと!? そんな馬鹿な――!」

 フェリボ候とミラシュは仰天しました。そんなものが起きるような場所ではないし、地震も起きてはいません。目の前で右往左往する味方の松明を、茫然と眺めます。

 フェリボ軍は地割れに分断されてしまいました。暗闇の中、裂け目はどんどん広がり、軍勢をさらに引き離します。

 すると、突然フェリボ候たちの背後からも声が上がりました。戦いの雄叫び(おたけび)です。今まではるか遠くに見えていた敵の灯りが、すぐ近くまで迫っていました。たちまち突撃してくる騎兵の集団に変わります。

 敵がはるかな距離を越えていきなり間近に現れたので、フェリボ軍はさらに混乱しました。陣形を整えて敵を迎え撃つ余裕もありません。飛び込んできた騎兵隊に追われて、散りぢりになっていきます。

 突撃してきたガウス軍の騎兵は、鞍からランプをぶら下げていました。ランプには黒い布のおおいがついていて、どれもランプの傘の上に引き上げられています。騎馬隊のはるか後方には、初めに見えていた松明の灯りの群れが今も見えていました。敵の騎馬隊は、フェリボ軍が遠い灯りに気を取られている隙に、闇に紛れて忍び寄り、突然ランプのおおいを外して襲いかかってきたのです。

「なんということだ――!」

 とフェリボ候はどなりました。周囲で自分の兵がばたばたと倒れていきます。

「この場は逃げてください、父上! 地割れの向こうには無傷の部隊がいます! そちらへ早く――!」

 とミラシュはフェリボ候を馬へ押しやりました。

 そこへガウス軍の騎兵が突進してきました。父をかばったミラシュの背中へ刀を振り下ろします。

「ミラシュ!!」

 フェリボ候が叫びます――。

 

 

 夜明けが迫って薄明るくなってきた街道で、黒い口ひげのガウス侯は馬にまたがり、戦闘の様子を眺めていました。騎馬隊は鞍のランプを揺らし、蹄の音をとどろかせながら、フェリボ軍の兵を追い散らしていきます。刀で切られ、蹄に踏みつぶされる兵の悲鳴が、ひっきりなしに響いています。

 そこへ、ガウス侯の側近のイタートが馬で駆けつけてきました。

「殿のおっしゃる通りになりましたね。敵は混乱して反撃できません」

「敵の大将はあのフェリボ候だ。こちらが引き返せば、戦わずに後戻りをして時間稼ぎをするのに決まっていた。行動を読むのはたやすいことだ」

 とガウス侯が答えたので、イタートは深く一礼しました。

「殿にはグル神がついておいでです。神の怒りが大地を引き裂き、敵を呑み込みました。誰も殿の行く道を邪魔することはできません」

「無論だ」

 とガウス侯がまた答えます。得意がる様子も、うぬぼれの響きもない、淡々とした声です。

 イタートは口調を改めて言いました。

「殿、歩兵部隊から、夜が明けるので進軍を再開して良いか、と問い合わせが来ております。いかがいたしましょう」

「良い。これでもう後ろから襲撃される危険も、挟み撃ちにされる心配もなくなった。この後は一気に都へ突進する」

「承知いたしました」

 イタートがガウス侯の指示を伝えるために離れていきます。

 一人になったガウス侯は、目の前で続く戦闘をまた眺めました。大きな地割れに引き裂かれた街道で、激しい戦いが続いています。ガウス軍の騎兵部隊が縦横無尽に駆け回り、フェリボ軍や女王軍の兵士を切り捨て、地割れへ追い詰めて突き落としていきます。地割れの向こう岸でフェリボ軍や女王軍の残兵が叫んでいますが、裂け目を越えて助けに駆けつけることができません。戦いに決着がつくのは時間の問題でした。

 ガウス侯はまたつぶやきました。

「今回の地割れにはかなりの代価を支払ったが、それだけの価値はあったな。フェリボでは思いがけず私の兵を減らされたが、女王の手勢もこれでわずかになった。女王はもう都を守ることができない」

 ずっと淡々としていたガウス侯の顔が、急に表情を浮かべました。

「これは私が受け継ぐはずだったものだ。すべて返してもらうぞ、アキリー。この国と世界は私のものだ」

 冷ややかに笑って、ガウス侯はそうつぶやきます。

 ひらめく刀、飛び散る血しぶき、怒声と雄叫び、悲鳴と絶叫。阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄図の上へ、朝の太陽が昇ってきました――。

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