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第16巻「賢者たちの戦い」

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第15章 荒れ川

49.決断

 麦畑に建つ小屋の中で、フルートはポポロを抱いて困惑していました。

 外では強い雨が降っています。ただでさえ移動するには大変な天候だというのに、ポポロが疲労から動けなくなってしまったのです。しかも、ガウス侯が王都に向かって進軍を始めていました。このままでは、都も城もガウス侯に乗っ取られてしまいます――。

 すると、ポチが言いました。

「ワン、ポポロをここに残してください。フルートはアクと一緒に一刻も早く王都へ。大丈夫、雨さえ上がったら、ぼくがポポロを乗せて運びますから」

 フルートは腕の中のポポロを見つめ、小屋の外をまた眺めました。強くて冷たい雨です。弱っている彼女をこの中に連れ出せば、命に関わるかもしれません。ここにポチの言うとおりにするべきでした。

 フルートは女王に尋ねました。

「アクは馬を走らせることはできますか?」

「無論じゃ。わらわは馬も象も一人で操れる」

「じゃ、ポポロの馬に乗ってください。ぼくと一緒に王都に行きましょう。ポポロは雨が上がるまでここにいて、ポチと――」

 ところが、ポポロが急に身を起こしました。フルートの鎧の胸当てをつかもうとしますが、手が滑ったので、腕を伸ばしてフルートの首にしがみつきます。

「だめ……絶対だめよ、フルート……あたしは残らない……」

 土気色の顔の中、フルートを見上げる緑の瞳だけは強く輝いています。フルートはいっそう困惑しました。

「無理だよ、ポポロ。君が倒れてしまう。大丈夫、ほんの少しの間さ。雨が上がったら、風の犬になったポチとすぐに追いかけてくればいいんだから」

 けれども、彼女は頑として聞き入れませんでした。

「いや……! あたしも一緒に行くわ。絶対に残らない……!」

 いっそう強くフルートにしがみついたので、二人の顔と顔がくっつきそうなほど接近します。

 フルートが、どぎまぎして真っ赤になっていると、女王が言いました。

「よい、そなたたちはここに残れ。ここまで送ってくれたのだから、もう充分じゃ。馬を貸せ。この先は、わらわ一人で都へ戻る」

 女王が本当に外へ出て行こうとしたので、フルートは止めました。

「だめだ、アク! 途中でガウス侯の追っ手に出会ったらどうする!? 闇の怪物だって探しているんだぞ!」

「あたし……大丈夫よ、フルート……。一緒に行けるわ……」

 とポポロがまた言いました。声は弱々しくても、フルートにしがみつく腕には驚くほど力があります。

 フルートは絶句しました。けれども、今はもう、迷っている時間さえありません。こうしている間にも、ガウス侯の軍勢は王都を目ざして進軍しているのです。

 フルートはついに決心しました。

「アクはポポロの馬に……。ぼくはポポロを抱いて行きます」

 ワン、そんな無茶な! とポチは言いかけて声を呑みました。フルートからは、強い焦りの感情が匂いになって伝わってきます。ポポロを置いていくことは不可能だと考えて、無茶を承知で決断しているのです。

 フルートは自分のマントでポポロをくるむと、腕に抱き上げて言いました。

「できるだけぼくに寄り添っているんだよ……少しでも雨に濡れないように。馬を走らせるから、覚悟してね」

 うん、とポポロはうなずきました。フルートの首に回した腕は少しも緩めません。

「よし――行くぞ!」

 とフルートは言って、小屋から雨の降る中へ出て行きました。

 

 雨の中を馬で駆けるのは、なかなか大変なことでした。雨が前からたたきつけてきて、行く手がよく見えません。その状況で、フルートは片腕にポポロを抱き、片方の手だけで手綱を握っていました。当然、あまり速度は出せません。テトの女王のほうも全身ずぶ濡れになっていました。衣類が雨を吸って重くなり、手足も冷えてきて、手綱がうまく操れなくなります。

 ポチは籠から伸び上がり、心配しながらフルートたちを見ていました。こんなふうじゃ長くは走れない、と考えますが、だからといって、どうしたらいいのかもわかりません。雨は暗い雲から降り続いていて、まだやむ気配はありませんでした。街道の横を流れるテト川は増水していて、下っていく船は一隻も見当たりません。

 フルートの腕の中でポポロが震え出していました。雨に体温を奪われているのです。フルートにぴったりと体を寄せますが、間に鎧があるので、フルートの体温は彼女には伝わりません。王都マヴィカレまではとても持たない、とフルートも考えます――。

 その時、川岸の船がフルートの目に入りました。雨に備えて持ち主が岸に引き上げておいたのですが、水かさが増したので、船は水の上に浮いていました。杭につないだもやい綱をぴんと伸ばし、岸に船体をこすりながら、流れに合わせて揺れています。

「あれだ!」

 とフルートは叫んで馬を停めました。驚いて停まった女王へ、船を指さして見せます。

「あれに乗って川を下ろう! そうすれば、馬で行くよりずっと早く着ける!」

「船で行くじゃと!? この川を!? 自殺行為じゃ!」

 と女王が叫び返しました。降る雨を集めた川は、昨日よりずっと早く、激しく流れていました。波を立て、白く泡立ちながら流れていく様子は、彼女が落ちた渓谷の急流を思わせます。

 けれども、フルートは言い張りました。

「他に方法がない! ぼくたちは一刻も早く王都に着かなくちゃいけないんだ! 今のままじゃ間に合わない!」

 女王は真っ青になりました。濡れた髪が貼り付く頭を振って言います。

「わらわも相当無茶をするほうじゃが、そなたは上を行く。この荒れ川を無事に下ることができると思っておるのか?」

「下って見せる。絶対に」

 とフルートは強く言いました。あの揺るがない声です。

「川岸に近いところには波が立っているけれど、中心の流れはあまり荒れていない。あそこに乗れば、一気に下っていけるんだ」

「ワン、でも、どうやって王都に到着するつもりです? 船を岸に寄せなくちゃいけないんですよ」

 とポチも心配しました。フルートは船の操り方など知らないのです。

 

 すると、フルートの腕の中でポポロが言いました。

「大丈夫よ……あたしが……魔法を使うわ……。必ず、船をマヴィカレへ……」

 ポポロの唇は紫色でした。寒さに歯の根が合わなくて、それ以上はことばにできません。ただ強いまなざしで、ひしとフルートを見つめ続けます。

 それを見て、女王もついに決心しました。

「わかった――。わらわのこの命をそなたたちに預けよう。船でマヴィカレへ行く」

 フルートはうなずき、草の生えた斜面を一気に駆け下って、川岸へ行きました。尻込みしそうになる馬を励まして川へ踏み込み、揺れる船に飛び下ります。屋根のない船には、中に雨水が溜まって、ひしゃくが浮きながら揺れていました。同じように船に飛び込んできた女王が、すぐにひしゃくを取り上げて、船から水をかい出します。

 馬の籠から飛び下りてきたポチが、フルートに尋ねました。

「ワン、馬たちはどうしますか?」

 その船は、彼らがオリバンたちと乗ってきたものよりずっと小さくて、馬を入れる囲いがなかったのです。

「この川に沿って、陸を駆けてくるように言ってくれ。自分たちで王都まで来るように、って」

 とフルートは答えて、船のベンチにポポロを下ろしました。力なく横になってしまった彼女へマントを掛け直します。

 その間にポチは馬たちにワンワンと、フルートが言ったことを伝えました。二頭の馬たちは首をかしげて、じっとそれを聞き、やがて頭を上げて、いななきました。しぶきを立てながら川岸へ戻っていきます。

 

 フルートは船首に立つと、背中から銀のロングソードを引き抜きました。岸の杭に結びつけられたもやい綱へ、鋭く振り下ろします。ぶつりと音を立てて綱が切れると、船は大きく向きを変え、流れに乗って川下へ動き出しました。岸が離れていきます。

 川岸に立ってこちらを見ている馬たちへ、フルートは叫びました。

「マヴィカレに来い、コリン、クレラ! そこでまた会うぞ!」

 イヒヒン!!

 二頭の馬は、フルートのことばがわかったように、またいななきました。船の後を追いかけて岸辺を駆け出します。

 けれども、川の流れは速く、馬たちはたちまち引き離されていきました。川が曲がり、馬たちの姿が岸辺の木陰に見えなくなります――。

 

 降りしきる雨。激しい音を立てて流れる川。

 その中を、船は木の葉のように揺れながら下っていきます。

 船にしがみつきながら、フルートたちは行く手の見つめました。その船べりに波が打ちつけ、しぶきが船に入ってきます。

 あまりにも危険な川下りの始まりでした――。

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