ミコン山脈の最後の峠を越えた翌日、フルートたちの一行はついに麓の森を抜けて、広い草地に出ました。山が終わっても斜面はまだ続いていて、はるか下の方に川の流れが見えます。
「あれがテト川だぜ」
とゼンが得意そうに言いました。白い石の丘を出発してからここまで、とうとう一度も迷うことなく仲間たちを案内してきたのです。
「このあたりは牧草地みたいだね。人が近くに住んでいるんだ」
とフルートは草地を見渡しながら言いました。人家を探したのですが、斜面の陰になっているのか、そこから建物を見つけることはできませんでした。家畜の姿も見当たりません。
すると、ルルがくん、とあたりの匂いを嗅いで顔をしかめました。
「なんだか嫌な雰囲気がする国ね……。かすかだけれど、闇の匂いが漂っているわよ」
「闇の怪物が近くにいるのか?」
とオリバンやセシルは緊張しましたが、フルートはペンダントを引き出して首を振りました。
「金の石は反応していない。そばに怪物がいるわけじゃないみたいだ」
すると、ポポロが不安そうに言いました。
「薄い闇があたりをおおっているのよ……。今は昼間だけど、あたしの目には夕方が近づいているみたいに薄暗く見えるわ」
「ガウス侯のしわざのようでございますね。闇の力が増大しているのでしょう。急いだほうがよろしいようです」
とユギルが言ったので、全員はすぐに馬を走らせ始めました。今まで険しい山の斜面ばかり進んできた馬たちは、なだらかな草地を喜んで駆け、じきにテト川の岸辺につきました。低い岩場を流れる川を見下ろしながら、今度は川下へと向かいます。
やがて、牧草地が広いブドウ畑に変わり、斜面が少し緩やかになった頃、テト川は別の川と合流して幅が広がり、川沿いに町が見えてきました。川岸には大小いくつもの船がつながれています。
「船着き場だよ!」
とメールが歓声を上げました。ようやく船に乗れる場所にたどり着いたのです。
時刻はもう夕方でした。町へ入り、夕焼けに茜色に染まった川のほとりで船を探すと、明朝出発する便があることがわかりました。馬も乗せることができる大きな船です。そこに乗船の予約を入れると、一行は宿を見つけて泊まりました。屋根の下で夜を過ごすのは、実に半月ぶりのことでした。
貸し切りにした部屋に入ると、ゼンはさっそくベッドに寝転がって大きな伸びをしました。
「ああ、久しぶりだ! 気持ちいいぜ!」
他の少年少女たちも、同じようにベッドに転がり、はしゃいだ声を上げました。
「あたいは野宿も嫌いじゃないけどさ、ベッドはやっぱり寝心地いいよね!」
「寒くないのがいいわ……」
「雨の心配もないよ。安心して休めるのが嬉しいな」
オリバンたちも、しばらくぶりで椅子に座り、宿の女中が運んできた香りの強い茶を飲んで、ほっと一息つきました。
「厳しい山越えだったが、ここまで無事にたどり着けて本当によかった。アキリー女王も、さぞ大変だっただろう」
とオリバンがねぎらうと、テトの女王はちょっと笑いました。
「行きは自分の足で歩いてミコンを越えたのじゃ。道はこちらのほうが険しかったが、馬に運んでもらえたのだから、さほどのことはない。セシル姫にも世話になった」
「いや、私は特に何もしていない。それこそ、女王を運んで山を越えたのは、馬なのだから」
とセシルも笑いました。女王ともすっかり打ち解けて、なごやかな雰囲気が漂います。
すると、メールがベッドから顔を上げて言いました。
「ねぇさぁ、その呼び方なんだけどさ、女王とか姫とか人前で呼んでたら、まずいんじゃないの?」
「そうね。女王様はお忍びで城までもどらなくちゃいけないんだもの。そんな言い方してると、正体がばれるわ」
とルルも言います。
「私のことは、ただセシルでいい。皆がそう呼んでいる」
と男装の王女が言うと、女王はちょっと考え込んでから答えました。
「では、わらわのことはアクと呼ぶがよい。わらわの幼少の頃の愛称じゃ。今は亡き父君や母君、兄君たちがそう呼んでおった」
アク、と一同は何度か口に出して、響きを確かめました。
「んで――船に乗って王都に着いたら、その後はどうするつもりなんだ、アク?」
とさっそくゼンが女王に言います。愛称で呼ぶと、なんとなく、今までより親近感が湧く気がしました。
「城に戻ったら、すぐ軍に命じてグルールの来襲に備える」
と女王は答えました。笑顔があっという間に厳しい表情に変わっていました。
「ロムド城を出発したわらわの替え玉は、今どのあたりにいるのであろうな? いずれ、その正体がばれれば、グルールは必ず王都を襲撃してくる。それまでに軍備を整えて、可能であれば、先手を打ってこちらからグルールを討ちに出るつもりじゃ」
「ガウス侯の軍勢のいる場所を把握しなくてはならないな。後でユギルに占ってもらおう」
とオリバンが言ったところに、宿の夕飯が運ばれてきました。部屋の中央のテーブルに、料理が大皿がところ狭しと並びます。
フルートたちは歓声を上げてベッドから跳ね起きました。考えなくてはならないことは山ほどありましたが、それはひとまず横へ置くことにして、さっそく食卓に着きます。
「うんめぇ! テトの料理って、めちゃくちゃうめえぞ!」
「これ、なんの煮こみ? すごくおいしいけどさ」
「ワン、羊の肉ですね。ぼくたち犬の口にも合いますよ」
「そうね。ちょっと香料は効きすぎてるけど、我慢できないほどじゃないわ」
「テトのパンも袋パンなのね。サータマンと同じだわ……」
「隣同士の国だから、食べる物も似てるんだろうな。どの料理を中に入れてもおいしいよ」
少年少女たちが食べながらしゃべるので、部屋の中はたちまち賑やかになります。
オリバンやセシルにとっても、テトの料理は物珍しいものでした。ひと皿ずつ、女王に説明を聞いていきます。
「この皿に絞り出されているものはなんだろう? クリームのようにも見えるが、味が違う」
と不思議がるセシルに、女王が答えます。
「豆を茹でて潰したものに酪(らく)を混ぜたものじゃ。その薄切りのパンに載せて、油をつけて食するとよい」
「これは? いったい何なのか見当がつかん」
と皿を見て腕組みしているオリバンには、笑って話します。
「肉や野菜を混ぜて炊きあげた米を、塩漬けのブドウの葉に包んだものじゃ。それにも酪をかけて食する」
「ねえさぁ、酪ってなんなの?」
とメールが話に乱入してきました。
「ワン、牛や羊の乳を発酵させたものですよ。ミコン山脈の南側の国々でよく食べられている食品です」
とポチが博学ぶりを披露して、食卓はますます賑やかになります。
そんな中で、ユギルだけは静かに食事をしていました。これだけの料理を宿に注文したのは彼です。すると、隣に座っていたフルートが、そっと話しかけてきました。
「ユギルさん、こんなご馳走が食べられて、みんな大喜びだけど、支払いのほうは大丈夫なんですか? ぼくたち、テトのお金は持っていないんですが」
ユギルは微笑しました。
「勇者がお金の心配ですか? ご安心を。テトは交易の国なので、大陸各国の貨幣が使えます。あのミコン山脈を無事に越えることができたのです。今宵は存分においしいものを召し上がって、明日からの活力を養ってください」
「おい、フルート! その焼き肉、食わねえんなら、俺が食ってやるぞ!」
とゼンが話しかけてきて、フルートはまた食事に引き戻されました。
「食べるったら! ゼンはそうやって、すぐに人の料理を狙うんだからな!」
「狙ってなんかねえ! ただ、冷めて料理がまずくなるのを心配してるだけだ!」
「嘘つけ! 顔に書いてあるぞ!」
賑やかを通り越して、次第に騒がしくなってきます。
そんな様子を、ユギルは穏やかに笑いながら眺めていました。
彼の予感は、これからいよいよ危険が迫ってくると知らせていました。テトには闇の気配が漂っています。ロムドから戻ってくる女王が偽物だと知ったガウス侯が、本物の女王へ攻撃の矛先を向けてくるのは、もう時間の問題です。
それでも一行はテトの夕食を楽しんでいました。食べられるときにしっかりと食べ、休めるときに充分休む。敵と戦うためにはそれが何より大事なのだ、と彼らは身に染みて知っているのです。
「存分にお召し上がりください。明日のために――」
とユギルはそっとつぶやきました。