ミコン越えを始めて五日目、フルートたちはまだミコン山脈の中にいました。
ポポロが毎日出発の際に魔法をかけてくれるので、行く手を森や茂みに邪魔されることはないのですが、秋の山の天気は変わりやすく、しょっちゅう雨や濃霧に見舞われて、足止めをされていたのです。この日も、山頂に近い岩場を歩いていると、頭上に灰色の雲が流れてきて、ぽちりと冷たいものが降ってきました。ゼンが馬を停めて仲間へどなります。
「また雨が来るぞ! 雨宿りできる場所を探せ!」
一行はすぐに岩場へ散って行きました。崩れやすい足元に気をつけながら、雨を避けられそうな場所を探します。彼らは山のだいぶ高いところまで来ていました。気温が下がっているので、斜面を上り下りする馬たちの息が白く見えます。
やがて、フルートとオリバンがゼンのところへやってきました。
「このあたりに適当な岩陰はないみたいだよ」
「雨宿りができるような木立もない。どうする?」
とゼンに話しかけます。岩場には小さな岩や石が転がり、ハイマツが低く群生しているだけで、彼らが下に入れるような場所は見当たらなかったのです。
ゼンは腕組みしました。
「しょうがねえ。みんなで集まって、マントや防水布をかぶって雨をやり過ごすしかねえな……。かなり寒くなってきてるから、あんまりやりたくねえ方法だけどよ」
フルートも気がかりそうに山頂を見ました。雨雲がかかり始めた頂には、あちこちに白い雪が見えています。山の上はもう冬の気温なのです。ここで冷たい雨に濡れたら、具合が悪くなる者が出てくるかもしれません。
すると、ポチとルルの二匹が、斜面の向こうから駆けてきました。集まっているフルートたちに言います。
「ワン、ありましたよ! 崖の下だけど、全員が入れそうな場所があります!」
「もうすぐ降り出しそうだから急いで!」
ポチたちが皆を案内したのは、山の斜面が崩落してできた崖でした。大小の岩がごろごろと転がり重なり合う中に、大岩が岩の上に屋根のようにかぶさった場所があります。
ゼンは難しい顔をしました。
「マジで崖下かよ……落石が起きたら危ねえよな」
「だが、もう雨が降り出しているぞ。急がんと」
とオリバンが言いました。いっそう暗くなった空から、雨粒が次々落ちてきます。
フルートはユギルを振り向きました。
「どうですか、ユギルさん? ここは危険ですか?」
ユギルは色違いの瞳を崖の上へ向けました。
「左様ですね……占盤が使えないので、確実なことは申し上げられませんが、この雨で上から崩れてくるようなことはないだろうと存じます」
「よし、じゃあ入るぞ!」
とゼンが言ったので、全員は馬から下りて岩の下へ駆け込みました。とたんに、雨が本降りになりました。ざぁぁ……と大きな音を立てて降り出します。
「やれやれ、間に合った」
とセシルはマントのしずくを払って座り込みました。岩の下は低くて、かがむか座るかしなければ、いることができなかったのです。
「これはしばらくやみそうにないな」
とオリバンも石の上に座って雨を眺めます。降ってきた雨は岩を伝い、小さな流れになって斜面を下っていきます。
すると、テトの女王が悔しそうに言いました。
「わらわたちがロムドを出発して一週間以上が過ぎた。ここはミコン山脈のどのあたりじゃ? あとどのくらいでテトに着く? わらわたちが遅れればグルールが動き出す。せっかくテトに着いても、手遅れになってしまうのじゃ」
女王は上着の裾を握りしめていました。豪華な刺繍のある上着も、山越えの間に、泥と埃ですっかり汚れてしまっています。
「でも、この雨では無理には動けませんよ。ずぶ濡れになっても、周りに木がないから、焚き火で体を乾かすこともできないんです」
とフルートが言うと、女王は、かっと顔を赤くしました。
「そんなことは、子どものおまえに言われずともわかっておる! ただ、気が急くのじゃ! わらわは昨夜も夢を見た。意味もわからぬ渾沌(こんとん)とした夢だったが、その中で、誰かが急げと言うておった。精いっぱい急がねば、グルールに後れをとるぞ、とな。わらわが不在の間にグルールが城へ攻め込めば、城はたちまち落ちる。わらわたちは、なんとしても急がねばならんのじゃ」
「無論それはよくわかっている、アキリー女王。だからこそ、危険は回避しなくてはならんのだ。何事かあれば、それだけ旅路は遅れる」
とオリバンが諭しました。こちらもまだ二十歳という若さの皇太子ですが、貫禄があって、もっとずっと年上に見えるので、女王も無礼だとは怒りませんでした。代わりに大きな溜息をついて、避難所の外に降る雨を眺めます。
雨はその後三時間あまりも降り続き、ようやくやんだと思うと、今度は霧が出てきました。まだ雨水が流れ下る斜面を煙のように這い上がってきて、あっという間にあたりを真っ白にしてしまいます。
ゼンは舌打ちしました。
「まいったな。これじゃ身動きとれねえぞ」
「馬たちがどこにいるのかわからないね」
とメールも言いました。どんなに目を凝らしても、ほんの数メートル先にいる馬が見えません。テトの女王が、また大きな溜息を吐いて、かたわらの石をぴしゃりとたたきました。焦りと怒りのやり場がない、という様子です。
フルートは女王に話しかけようとして、やめました。フルートが何を言っても、女王は子どもの考えだと言って取り合ってくれないのです。しかたがないので、フルートも外を見つめました。風に乗って流れていく霧の向こうは、何も見通せない白い闇のようです。
すると、同じように外を見ていたポポロが、急にフルートの腕にしがみつきました。緊張した声で言います。
「来るわ……!」
「何が!?」
とフルートは即座に腰を浮かしました。彼女が霧の中を透視していることに気がついたのです。ポポロが遠いまなざしで答えます。
「怪物よ……霧の中をこっちへ飛んでくるわ」
「闇の怪物ですね。このままでは馬たちを見つけられます」
とユギルも言いました。こちらは濃い霧に象徴を映し出して、それを読み取っています。
「ワン、馬を呼んできます」
とポチが言って外へ飛び出していきました。小さな姿がたちまち霧に隠れ、ワンワン、と馬たちに話しかける声が聞こえてきました。怪物に用心して声を抑えていますが、岩陰の一同は緊張しました。怪物が声を聞きつけてやって来るのではないかと考えます。
すると、ポチが六頭の馬を従えて戻ってきました。フルートはすぐ馬たちに話しかけました。
「ここでじっとしてるんだよ。ここにいれば、金の石が闇の目から隠して守ってくれるから」
ワン、とポチが通訳すると、馬たちはその場で動かなくなりました。
「怪物がこっちへ来るわ」
「こちらの気配に気づいたようでございますね」
とポポロとユギルが言ったので、全員は黙り込み、音を立てないようにしました。固唾を呑んで霧の中を見守ります。
すると、遠くから声が聞こえてきました。
「探セ、探セ、見つけロと言われた……。連中はドコだ? ミコン山脈は広いゾ。探スのは大変ダ……だが、今、コッチで音がしたゾ……?」
霧にぼんやりとかすみながら、怪物の姿が見えてきました。丸いものが宙を飛んでいます。オリバンとセシルとユギルの馬がおびえたように後ずさりを始めたので、三人は急いで手綱を取りました。フルートたちの馬と違って、彼らの馬は怪物に免疫がありません。恐怖にいなないたりしないように、馬の口を抑えます。
霧の中から怪物が姿を現しました。それは大きな目玉でした。人の背丈ほどもある眼球が、後ろに蛇のように白い尾を引きながら、ふわりふわりと近づいてきます。一同はいっそう緊張して見守りました。目玉は彼らを捜してあちらこちらを見回しています。
と、目玉が突然こちらを向きました。青い瞳にまともににらまれた気がして、テトの女王は思わず息を呑みました。ひっと鋭い声が洩れてしまいます。
とたんに、怪物はぎょろりと瞳を動かして、岩屋の下を見直しました。
「聞こえたゾ……人間の声ダ! ドコだ、ドコにいる……!?」
怪物が迫ってきたので、一同はあわてました。いくら金の石が彼らを闇から隠していても、そこにいることがばれれば、敵から姿が見えるようになってしまうのです。馬たちが恐怖で逃げ出しそうになったので、オリバンたちは必死で抑え続けました。女王は自分の口を両手でふさぎ、真っ青になって震えていました。怪物は女王のいるほうへまっすぐに向かってきます。
すると、突然女王の前に少年が立ちました。女王をかばうように両手を広げてどなります。
「ぼくはここにいる! 来い、怪物! 倒せるものなら倒してみろ!」
大声でそう言うと、フルートはひとりで岩屋の外へ飛び出していきました――。