その日の夕方、荷物の点検をすませたポポロは、エルフの家の外に出て、丘の上から花野を眺めていました。夕闇の陰りが漂い始めた空で、雲が赤く染まり始めると、ポポロの着る黒衣が、次第に星のきらめきを強めていきます。
すると、地下へ続く階段を昇ってエルフが出てきました。ポポロの隣に立って、麓(ふもと)を指さします。
「三年半前におまえがここに現れたのは、あのあたりだった。泣きながら、花野の中を丘に向かって歩いていたのだ」
ポポロはうなずきました。
「その時のことを思い出してました……。学校の授業で大失敗してしまって、先生に叱られて、みんなからは笑われて、あたしは家出したんです。どこにも行くあてなんかなかったけれど、自分はここにいちゃいけないんだ、って気持ちでいっぱいで、とにかく遠くへ行こうと思って歩いていたら、いつの間にかこの花野にたどり着いてました……。おじさんがあたしを見つけてくれなかったら、あたしは地上で死んでいたかもしれないですね」
すると、エルフは穏やかに言いました。
「それは違う、ポポロ。おまえもまた、定めによってここに呼ばれたものだったのだ。確かに、おまえの魔力は強力すぎて、あの頃のおまえには制御が非常に難しかった。だが、その力を必要とするものがいたから、おまえはここにやってきて、求める者たちと出会ったのだ」
ポポロはにっこりしました。
「求める者たちって、フルートとゼンとポチのことですね……。ええ、みんながあたしを必要としてくれたから、あたしはやっと自分の力と向き合えるようになったんです。みんなを助けるためには、魔法をコントロールできるようにならなくちゃいけなかったから。家にいた頃には、そんなこと、やれるなんて全然思えなかったのに、フルートたちといると勇気が湧いてきて、がんばろうって気持ちになるんです」
西の空で雲がオレンジ色に輝きだしていました。ひときわ輝く雲の陰から、夕日が赤い光を空と地上に投げています。一面茜色(あかねいろ)になった花野を眺めながら、エルフは話し続けました。
「おまえは本当は力のある強い子だ、ポポロ。だが、自分を信じられなくて、自信というものを持てずにいた。それが魔法の制御を妨げていたのだ」
とたんにポポロは目を伏せました。今度はちょっと悲しげな微笑を浮かべます。
「お父さんにもよくそう言って叱られました……。力はあるんだから、自分を信じなくてはだめだ、って。でも、いくらそう言われても、魔法は全然あたしの思い通りにならないから、言われるたびに、ますますつらくなってしまったんです。自分がどうしようもない出来損ないのように思えてしまって……」
悲しみの記憶は、いつも、つい昨日のことのように思い出されてしまいます。泣き虫のポポロは、もう大きな目を涙でいっぱいにしていました。
そうだな、とエルフが静かに言いました。
「自信というのは、他人から認められて初めて生まれてくる。厳しい見方をするならば、おまえの父は育て方を誤っていたのだ。おまえを何とかしようとするあまり、厳しくしすぎて、逆におまえの心から自信を奪ってしまったのだからな。だが、だからこそ、おまえはここにやってきて、フルートたちと出会ったのだ」
ポポロは思わず顔を上げました。なんだか思いがけないことを言われたような気がして、エルフを見つめてしまいます。
そんな彼女へ、エルフは穏やかに話し続けました。
「もしも、おまえの父がもっと優しく育ててくれていたら、どうなっていただろうな? おまえが失敗しても叱らず、成功すれば誉め、自信を失ったときには、おまえの母親のように慰め励ましてくれていたら。おそらく、おまえは家を出ようなどとは考えなかっただろう。そうなれば、おまえはこの花野にもやってこなかったし、フルートたちとも出会わなかった。過ぎてきた日々は、確かにつらいものだったが、それでも今に至るためには必要だったのだ」
ポポロは驚き、両手で口を押さえました。声を震わせながら、エルフに向かって尋ねます。
「あたしには、ああいう経験が必要だった、ってことですか……? 自分の魔力に振り回されて、たくさんの人や生き物を怪我させたり、建物を壊したり、火事にしたり……。みんなから馬鹿にされたり、怖がられたりするたびに、消えてしまいたいくらい悲しくて、泣いてばかりいたけれど……それも、一人前になるための修業……だったんですか?」
その瞬間、ポポロの瞳から涙がこぼれ落ちました。修業だったと考えたくても、その記憶はあまりにもつらく悲しくて、心が拒否してしまったのです。
エルフは優しい目になりました。自分よりずっと小さな少女に向かって、静かに言います。
「そうではない、ポポロ。そういう意味ではない。あの悲しい日々も、今に至るための大切な通り道だった、と言っているのだ。悲しい経験をしてきたからこそ、おまえはフルートたちに出会えた。それは事実だ。つらかった過去を消してしまう必要はない。それは、今のおまえに続く、ほんの少し前の自分自身なのだから」
ポポロはまばたきをしました。涙を払って一生懸命考え続け、エルフを見上げてまた尋ねます。
「だめだった頃の思い出も大事にしなさい、っていう意味ですか、おじさん……? あたしは本当にめちゃくちゃな失敗ばかりしていたから、もしできるなら、そのところだけすっかり記憶を消してしまいたいくらいなのに……」
「その日々がなかったら、おまえは勇者の一員にはなっていなかっただろう。天空の国の両親の元で、闇の竜のことも知らずに、毎日平和に暮らしていたはずだ。それはそれで、幸せなことではあるがな」
エルフの声は、相変わらず穏やかです。
ポポロはまた、じっと考え込みました。今度はかなり長い間考えて、やがて、つぶやくように口を開きます。
「それは嫌……」
エルフは黙っています。
ポポロは言い続けました。
「そんなのは嫌です、おじさん。あたしだけが何も知らずに平和に生きるなんて――! あたしは金の石の勇者の仲間です。あたしはみんなと一緒に旅をしたいし、みんなと一緒に戦いたい。そして――フルートを守りたいんです!」
強いポポロのことばに、エルフはうなずきました。
「それは、おまえがこの丘でフルートたちと出会ったからこそ、できるようになったことだ。そして、そのきっかけを作ったのは、昔の小さかったおまえ自身だ。わかるな、ポポロ? 過ぎてきた人生の中に、無駄な時間などというものは少しもない。そして、今のこの瞬間もまた、未来の自分へとつながっていく大切な時間なのだ」
おじさん……! とポポロはエルフにしがみつきました。長身のエルフに比べて、ポポロはとても小柄です。エルフがしめる帯のあたりに顔を埋めて、何度も何度もうなずきます。
「わかりました。もしまた、あの頃のことを思い出して悲しくなったら、でも、そのおかげでフルートたちに逢えたんだ、と考えます。これから、とてもつらいことが起きたら、将来それが何かにつながるかもしれないから、と考えてみます。……うまくやれるかどうかわからないけれど、でも、がんばってみます。そして……そして、おじさん」
ポポロはエルフの服をつかんだまま、顔を上げて相手を見ました。森を思わせる深い緑の瞳を見つめて言います。
「あたしは……おじさんと出会えたことも、幸せだったと思います。おじさんは、定めに従ってあたしを保護してくれただけなのかもしれないけれど、でも、あたしはとっても嬉しかったんです。だって、フルートたちと出会うより先に、あたしに自分のままでいていいんだよ、って言ってくれたのは、おじさんだったから……」
エルフは、目を細めて笑いました。夕日にいっそう赤く輝くポポロの髪をなでながら、静かに話し出します。
「私は、この丘に移り住む前には、海辺の里で仲間たちと共に暮らしていた。もう百二十年も前のことだ。そこには私の家族がいたし、友人もいた。だが、私は彼らに別れを告げて、賢者となる道を選んだ――。すべての賢者がそうするわけではない。だが、この世のすべての知恵と真理を知ろうとするならば、その者は世界との関わりを断たなくてはならないのだ。その時から、私はずっとこの丘で一人で暮らしてきた。闇の神殿でメデューサが闇の卵を作っていく様子も間近で見ていたが、その危険を人々に知らせることは、私には許されていなかった。私はただ見守り、闇を倒す勇者を待ち続けた。そうして、ついにやってきたのがフルートとゼンとポチ、次にやってきたのがおまえだった、ポポロ。――おまえは、私がここに住み始めてから、初めて一緒に暮らした相手だ。この丘を訪ねてくる者は、私を白い石の丘のエルフ、あるいは物見(ものみ)の丘の賢者と呼ぶが、おまえだけは私を、おじさんと家族のように呼ぶ。共に暮らしたのは、フルートたちがやってくるまでの、わずか四カ月間だったが、その時間は、今でも私の中でとても楽しい記憶になっているのだ」
ポポロは驚きました。迷子になって花野に現れたポポロを、もう一人の父のように庇護(ひご)してくれたエルフです。その優しさに感謝しながらも、迷惑をかけてしまって申し訳ない、とポポロはずっと考えていました。自分がエルフにとって喜びになっていたとは、思ってもいなかったのです。
少女のお下げ髪をなでながら、エルフは尋ねました。
「幸せか、ポポロ? フルートたちと共にいて」
ポポロは思わず胸が詰まって、声が出なくなりました。世界の真理を知る賢者に、答えがわからないはずはありません。それをあえて聞いてくるエルフは、とても優しい声をしていました。
ポポロはまたエルフの帯に顔を埋めると、何度も何度もうなずきました。涙がこみ上げてきて止まりませんでした。
それを腕の中に抱きしめて、エルフは一言、静かに言いました。
「それならば良かった」
背の高い銀の髪のエルフと、とても小柄な赤い髪の少女。
二つの姿を夕日はまばゆく染め上げて、ゆっくりと夜の色の中へ消えていきました――。