白い石の通路を、一匹の獣が歩いていました。茶色の長い毛並みの中に銀毛を光らせた美しい雌犬――ルルです。ときどき立ち止まっては、くんくんと匂いをかぎ、また歩いていって、通路に向かって口を開けた穴のひとつへ入っていきます。
そこは部屋の入口でした。扉代わりに下がった青い布をくぐり抜けると、本がずらりと並んだ棚が目に飛び込んできます。ルルは足を止めて、部屋を見回しました。周囲の壁全部が本でぎっしりと埋め尽くされています。天井まで届く高い書棚なので、その部屋の中にどれほどの数の本があるのか、ちょっと見当がつきません。
書庫の真ん中には大きなテーブルがあって、何冊もの本が広げられていました。中には羊皮紙の切れ端のような書きつけや、ユラサイ国の巻物も混じっています。書物に囲まれてテーブルの上にいたのは、白い小犬でした。書物から書物へ次々目を移していましたが、雌犬が入ってきたことに気がつくと、すぐに振り向きました。その顔には、何故だか、人間がかけるような眼鏡が載っています。
「ルル!」
と小犬が歓声を上げました。テーブルから飛び下りてきて、ぺろぺろと雌犬の顔や体をなめます。
「ワン、良かった。治療が終わったんですね。気分はどうですか?」
「とてもいいわ。もうすっかり元気よ。でも、ポチ、あなたここで何をしていたの? その恰好は何?」
ルルはポチが眼鏡をかけていることに面食らって、真っ先にそれを尋ねました。
ワン、とポチは犬の顔で笑うと、尻尾を振りました。
「エルフに貸してもらった、魔法の眼鏡ですよ。これをかけると、世界中のどの国の文字で書かれた書物でも読めるんです。――この書庫には、エルフが集めた世界中の本があるんですよ。ぼく、ルルが治療を受けている間ずっと、ここで本を読み続けていたんです。ユラサイ国に残されていたような手がかりが、もっとないかと思って」
ルルはますます目を丸くしました。
「こんなにたくさんの本を……? それで、何かわかったの?」
すると、ポチは今度は苦笑しました。
「もちろん、全部なんか読めませんよ。それにはきっと何百年もかかっちゃう。ここは魔法の書庫だから、今並んでいる本の奥にも、もっとたくさんの書物があるんですよ。この一ヵ月半の間に読んだ本からわかったのは、デビルドラゴンが、ものすごく周到に世界から光と闇の戦いの記録を消したんだ、ってことです。奴が世界の果てに幽閉された二千年前の光と闇の戦いのことはもちろん、三千年前にあったっていう最初の光と闇の戦いの記録も、どこにも全然残ってないんです。ユラサイ国に伝わっていたおとぎ話みたいに、口伝えの伝承になっていることはあるんだけど、それもどうも、書物に書き記すと変化させられちゃうみたいです。これはきっとそうだったんだろうな、と思う文面はいくつか見つけたんだけど、もう意味のない文章になっていました」
ふぅん、とルルは言いました。ポチは、体こそ小さいのですが、非常に賢い犬です。何も手がかりをつかめなかったようなことを言っていても、実際には、かなりいろいろなことを書物から学んだのに違いありません。ルルの胸の中を、ちりっと焦がすような痛みが走りました。それは小さな嫉妬でした。怒りと淋しさが同時にこみ上げてきて、急に何も言えなくなってしまいます。
すると、ポチがまたぺろりとルルの顔をなめました。優しい声で言います。
「ワン、違いますよ。ルルを忘れて本に夢中になってたわけじゃありません。何もしないでいると、ルルのことが気になってしょうがないから、本を読んでいたんです」
ルルは思わず短くうなりました。
「また私の心を読んだのね!? やめてって言ってるじゃないの!」
「だって、ルルがそんな顔をするんだもの」
とポチは苦笑しながら答えました。天空の国のもの言う犬と普通の犬の両方の血を引いているおかげか、ポチは人の感情を匂いのようにかぎわけることができるのです。
「ワン、一ヵ月半は本当に長かったよね。ずうっと心配してましたよ。エルフは、大丈夫だ、ただ時間がかかるだけだ、って言っていたけど、それでもやっぱり心配で、本でも読んで気を紛らわせていないと、どうにかなっちゃいそうだった――。ルルが元気になって、本当によかった」
ポチ……とルルは言いました。彼女より四つも年下で体も小さいポチですが、中に宿る魂はもっとずっと大人です。そして、今では彼女の大切な恋人なのでした。
照れ隠しに、つん、と顔をそむけようとして、ルルはそれをやめました。ちょっとためらってから、ありがとう、と素直に言います。
ポチは嬉しそうに尻尾を振りました。書物が広げられたままのテーブルに向かって、大きな声で呼びかけます。
「ワン、もういいよ! 調べ物は終わりだから、元の場所に戻って!」
すると、テーブルの上の本や巻物がふわりと浮き上がり、宙を飛んで書棚に戻っていきました。本と本の間の隙間に自分から飛び込んで、何事もなかったように背表紙を並べます。巻物も、他の巻物がある場所にきちんと収まります。
「天空の国を思い出すわね」
とルルは笑いました。世界の空を飛び回る天空の国は、魔法使いたちが住んでいる国です。物が魔法仕掛けで動く様子は、ルルには見慣れた光景でした。
ポチは一度テーブルに飛び乗ると、頭を下げて魔法の眼鏡を外しました。眼鏡をテーブルに残して、また飛び下りてきます。
とたんに、ルルは、あらっという顔をしました。ポチをまじまじと見て言います。
「あなた、また大きくなったのね、ポチ。私をなめたときにも感じたんだけど……。なんだか大人っぽくなってきたわ」
ポチは目を丸くすると、首をねじって自分の体を見回しました。
「そういえばそうかな? 前より少し体重が増えたような気はしていたんだけど。でも、やっぱりまだ小さいですよ」
けれども、ルルの言うとおり、この一ヵ月半の間にポチは成長していました。ルルより二回りも小さかった体が、今では一回り半程度まで大きくなっていたし、短かった鼻面も少しずつ伸び始めていました。見た目はまだ小犬ですが、角度によっては、大人になったときの顔つきが想像できる瞬間があります。
そんなポチの顔を、ルルはじっと見ていました。少しの間黙り込み、やがて確かめるようにこう言います。
「ねえ、ポチ。やっぱりあなたじゃないの? 私が闇の国でデビルドラゴンに魔王にされそうになったときに、助けに駆けつけてくれたのは……?」
ポチは、小さくぴくりと耳を動かしました。ルルはポチを穴が開くほど見つめています。ポチの大人びてきた横顔の中に、自分を助けてくれた大きな白い犬の面影を探しているのです。
ポチはすぐに、くるりと背中を向けてしまいました。わざと短い尻尾を振りながら言います。
「ワン、違いますよ。それはぼくじゃない、って何度言えばわかるんですか? ぼくが闇の中でルルを見つけたとき、ルルは一人きりだったんですよ。白い犬もいなかったし、デビルドラゴンももういなかった。ルルは自分の力で闇の竜を振り切ったんですよ。昔、ザカラス城で自分を助けてくれた白い犬を呼び出してね」
「でも、あの犬はあなたに似ているわよ」
とルルは言い張りました。今まで何度も疑い、その都度ポチに否定されてきたのですが、とうとう動かぬ証拠を見つけたような気がしていました。ザカラス城でも闇の国でもポチが助けに来てくれた、と考えれば、一番納得がいきます。風の首輪をつけた大きな白いもの言う犬は、ルルが天空の国でどれほど探し回っても、ついに見つけることができなかったのですから――。
ポチは耳を何度も大きく振りました。相変わらずルルに背中を向けたままで言います。
「違いますってば。白い犬だから似て見えるんでしょう。そうでなければ、種類が同じ犬なのかもしれない。ルルはその白い犬を見つけて、どうしたいんですか?」
逆にポチに聞き返されて、えっ、とルルはとまどいました。あの白い犬を見つけて正体を確かめたい、と思っていただけで、それからどうしたいのかなど考えていませんでした。うろたえ、思わずうつむいてしまいます。
そんなルルを、ポチは笑いを含んだ目で振り向きました。わざと冗談めかして言います。
「ワン、お願いだから浮気はしないでくださいね、ルル。やっとこうして両想いになれたのに、また片想いに戻るのは嫌だもの」
ルルはますますうろたえ、声が出なくなりました。人間ならば、さしずめ顔を真っ赤にしたところです。
ポチは書庫の出口に向かって駆け出しました。
「さあ、行きましょう。フルートたちもずっとルルを心配していたんですよ。元気な顔を見せて、みんなを安心させてあげなくちゃ」
と言って、返事も待たずに部屋を出て行きます。
ルルを何度も助けた白い犬の正体はポチでした。ルルの予想は当たっています。
けれども、ポチはそれを言うつもりはありませんでした。ルルが白い犬の話をすると、それは自分のことのはずなのに、なんだか他の犬の話をされているような気分になるのです。彼女からほのかな憧れの匂いまで漂ってくるので、ますますそんなふうに感じてしまいます。
ポチは通路を走りながら、ふぅ、と溜息をつきました。
「いつかね……。ぼくがもっと大きくなって、本当にあの姿になったら、その時に話すから……」
まだ書庫から出てこないルルに向かって、ポチはそっとつぶやきました。