崩れ落ち、わずかに岩壁と床だけが残った丸い部屋に、二頭の怪物がいました。壁に絡みついたヤマタノオロチと、豚の怪物の体から抜け出したフノラスドです。フノラスドは、四枚翼の影の竜の姿をしていました。デビルドラゴンにそっくりですが、短い翼を頼りなく羽ばたかせて飛ぶ様子は、巣立ったばかりのひな鳥のようです。
そのフノラスドへ、闇王が言いました。
「行け、フノラスド! それが、おまえの新しい器となる怪物だ!」
闇王が指さしていたのは、ヤマタノオロチでした。闇王のことばを理解したのか、八つの頭をいっせいに持ち上げて、威嚇音をたてます。
幽霊のランジュールが、あわてふためいて言いました。
「ボクのかわいいはっちゃんを、フノラスドの体にするってぇ!? そんな、冗談じゃない――!」
けれども、その目の前で、フノラスドの体が溶け始めました。影がほどけるように形を失い、竜からただの黒い霧の塊になり、もやもやと渦を巻きます。
フルートたちは、風の犬やグリフィンに乗って、その光景を見守っていました。フルートの後ろで、ポポロが緊張して言います。
「フノラスドは、闇の力だけでできた、肉体を持たない怪物よ。だから、器になる怪物が必要なんだわ」
「だから怪物にとっ憑くわけか。見ろ、また形が変わるぞ」
ゼンの言うとおり、闇色の霧が形を変えていました。渦が八本の腕を伸ばし始めます。
それを見て、ランジュールがまた言いました。
「黒イチ、黒ニィ、黒サンちゃん、迎撃ぃ! フノラスドは闇の怪物だからね! 食い殺すんだよぉ!」
ヤマタノオロチの黒い頭たちが牙をむきました。体は壁にしがみついたまま、首を伸ばして霧の怪物へかみつこうとします。
すると、霧のほうでも動き出しました。八本の腕を伸ばし、蛇の牙をかわして、鋭い先端をヤマタノオロチの頭に突き刺します。黒い頭の蛇だけではありません。白い頭の蛇にも、青や金の頭の蛇にも同じように突き刺さり、そのまま八つに分裂すると、蛇の体の中へ入り込んでいきます。まるで黒い長虫が、蛇の体を食いながら潜り込んでいくようです。
シャァァァァァ、とヤマタノオロチは頭を振って暴れましたが、フノラスドを振り払うことはできませんでした。震動で壁にひびが入り、岩の塊と共にヤマタノオロチが落ちていきます。床下に広がっているのは、フノラスドが飼われていた地下室です。真っ暗な奈落へ見えなくなっていきます。「はっちゃん!」
ランジュールが後を追って奈落へ飛び込みます――。
その時、アリアンが声を上げました。
「上! 親衛隊が来るわ――!」
鏡に上空の様子が映ったのです。翼のあるトアや四本腕のドルガたちが、真っ黒な集団になって、城に迫っていました。その先頭に立つのは六本腕の将軍でした。先刻フノラスドに食われたルー将軍より、ずっと小柄な男で、頭には三本の角があります。
「グランダー将軍だ。城の騒ぎに気づいて、王都の外から引き返してきたな」
とキースが歯ぎしりしました。彼らが到着する前にここを抜け出して出口へ向かうつもりだったのに、フノラスドの正体に気を取られて、逃げ損ねてしまったのです。
フルートたちがどうすることもできずにいる間に、頭上からたくさんの羽音が響き、大勢の親衛隊員が舞い下りてきました。三本角に六本の腕のグランダー将軍が大声を上げます。
「王よ、ご無事ですか!?」
「無論だ」
と闇王が空中から答えました。フルートたちを指さして、落ち着いた声で言います。
「それが金の石の勇者の一行だ。捕まえよ」
親衛隊員たちは驚きました。彼らは王都の外へ金の石の勇者たちを捕らえに行って、見失ってしまったのです。まさかこんな子どもたちが……と誰もが考えます。
フルートは唇をかんで顔を歪めました。親衛隊員の数は、ざっと二百。これだけの敵を抜けていくには、激しい戦いになります。傷つけ、傷つけられることでしょう。もしかすると、今度こそ本当に誰かの命を奪うことになるかもしれません。ですが――
フルートは仲間たちを振り向きました。敵の大軍に茫然とする一同に言います。
「行くぞ、みんな! 強行突破だ! 闇の国から脱出するぞ!!」
仲間たちは我に返りました。翼を打ち合わせ、風のうなりをあげて、いっせいに上空へ飛び始めます。親衛隊員の黒い集団がたちまち目の前に迫ってきます。
フルートはポチの背中で剣を抜きました。切りかかってきたドルガの剣を跳ね返すと、ギィン、と耳障りな音が響きます――。
すると、部屋の地下の暗がりから、地響きのような音が湧き起こりました。
ジャァァァァァ……
フルートたちも親衛隊員も闇王も、音のしたほうを思わず振り向きました。総毛立つような恐怖に心をわしづかみにされます。
全員が見守る中、地下の奈落から蛇が這い上がってきました。ヤマタノオロチです。けれども、その体は先ほどより二回りも大きくなっていました。八つの頭は、どれも黒一色になっています。
ジャァァァ、とまた蛇が鳴くと、開いた口の外で景色が揺れます。高温の息を吐き出しているのです。
闇王がにんまりと笑いました。
「新しい器を得たな、フノラスド。その体ならば、もはや無敵だろう。生贄を自分で捕らえて食うがいい」
王は、ひょっとするとフルートたちだけのことを言っていたのかもしれません。ですが、ヤマタノオロチになったフノラスドには、生贄の見分けなどつきませんでした。さらに這い上がり、いきなり空中にいたドルガやトアへ食いつきました。八つの口が八人の生贄を捕らえます。
親衛隊員はパニックに陥りました。フノラスドが目覚めて生贄を求めているのだと気づいたのです。フルートたちなど放って、我先に逃げ出します。蛇の口がドルガやトアを呑み込んでいきます。強い魔力を持つドルガでも、フノラスドにはまったくかないません。
「キュウジュウサン」
とヤマタノオロチが声を上げました。内側に棲むフノラスドが、また生贄を数え出したのです。九十四、九十五、九十六……と、生贄を呑み込むたびに蛇の頭が言いますが、最後のひとつだけは、くわえていたトアを吐き出しました。蛇の牙がトアの体を貫いたので、すでに絶命していたのです。生贄は九十九人まできていました。残る一人を求めて、蛇たちがまた頭を動かします。
その時にはもう、部屋に親衛隊員は残っていませんでした。恐怖に駆られて、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのです。ただ、グランダー将軍だけはさすがに踏み留まって、闇王を守っていました。フルートたちもまだ部屋にいます。
フルートを指さして闇王が言いました。
「最後の生贄はあそこだ、フノラスド! 金の石の勇者を食らって、再び眠りにつけ――」
それを打ち消すようにキースが叫びました。
「させるか! おまえこそが生贄になれ、闇王!」
剣を構え、翼を打ち合わせて突撃していきます。
すると、その前にグランダー将軍が飛び出してきました。六本の腕に大剣と槍を握り、空いている二本の手でキースへ魔法を撃ち出します。
ところが、それはキースに届かずに砕け散りました。青い胸当ての少年が、キースの前で両腕を広げています。
「あっぶねえな、ったく! 無鉄砲に突っ込むんじゃねえ、キース!」
ルルに乗ったゼンがキースの前に飛び込んで、体で魔法攻撃を打ち消したのです。
「邪魔をするな!」
とグランダー将軍がゼンに襲いかかってきました。剣と槍を同時にゼンへ繰り出します。
すると、剣は剣に、槍は手に受け止められました。将軍の剣が弾き返され、槍はびくともしなくなります。
将軍の剣を返したのは、駆けつけてきたフルートでした。槍をつかんだのはゼンです。ぐい、と柄を引くと、槍があっけなくゼンの手に移っていきます。
「それをあたいにおくれよ!」
とゼンの後ろからメールが言いました。渦王の鬼姫と呼ばれる彼女は、槍の名手です。ゼンから槍を受けとると、ひゅんひゅん振り回し、びしりとグランダー将軍へ突きつけます。槍には闇のものを即死させる魔力がありました。将軍が空中で身動きとれなくなります。
その間にキースはまた前へ飛び出しました。一人きりになった闇王へ切りかかっていきます。けれども、闇王は一瞬で姿を消しました。次の瞬間にはキースのすぐ後ろに現れて、手を突きつけます。
「フノラスドの生贄となれ、ウルグの息子」
強力な闇魔法をキースへ送り込もうとします。キースはかわせません。
そこへグーリーが襲いかかりました。ワシの爪とくちばしで闇王を攻撃して、キースから追い払います。
「キース、来て――!」
とグーリーの背中からアリアンが呼びました。
「闇王を殺してもしかたがないのよ! 逃げましょう! 早く!」
キースは迷いました。羽ばたきながら、母の仇である憎い父親と、グリフィンの上から手を差し伸べる少女を見比べます。
そんな青年へ、闇の少女は泣き出しそうな顔で笑って見せました。
「あなたのお母様は言ったのでしょう? いつでもあなたの幸せを祈っている、って――。闇王を殺したって、あなたは幸せにはならないわ。お母様は、あなたに生きてほしかったのよ。来て、キース。地上に逃げて――幸せになりましょう――」
一筋の涙がこぼれます。少女の瞳は血の色ですが、流れる涙は清らかです。
キースは剣を握った手を震わせました。一度大きく呼吸をすると、闇王へ背を向けて羽ばたき、グーリーに並んで大声で言います。
「よし、脱出するぞ! フルート、ゼン、外へ逃げろ!」
おう、と少年たちが返事をしました。フルートがまたグランダー将軍へ切りつけ、将軍が後ずさった隙に上へ飛び始めます。
キースはグーリーの背中に舞い下りました。腕を伸ばしてアリアンを抱きしめ、頬を寄せてささやきます。
「ありがとう――」
アリアンは真っ赤になりました。ギェン、とグーリーが鳴き、ゾとヨも歓声を上げます。
「逃がすものか! グランダー将軍、連中を停めろ!」
と闇王が言っていました。将軍がフルートたちの後を追いかけてきたので、メールが槍で追い払います。
頭上に空が広がっていました。灰色の雲が渦巻く、闇の国の空です。行く手をさえぎる敵の姿は、どこにも見当たりません――。
けれども、闇王が彼らに向かって呪文を唱えていました。王の呪いの稲妻を、空飛ぶ者たちに下そうとしています。渦巻く雲間に紫の光がひらめき始めます。
「避けろ!」
とフルートが言いました。
「頂上の城の中に逃げ込むんだ!」
とキースも叫びます。
闇王が魔法を空へ解き放とうとします。
その時、地響きのような声が言いました。
「生贄ノ数ハ、キュウジュウク。約束ノ百ニ充タナカッタ」
闇王は、ぎくりと振り向きました。フノラスドが、黒い八つの鎌首を高く持ち上げ、シュウシュウと熱い息を吐きながら、闇王を見ていたのです。
「百人目はあそこだ!」
と闇王は空のフルートたちを指さし、魔法を繰り出そうとしましたが、それより早く声がまた響きました。
「生贄ハ数ニ充タナイ。オマエハ約束ヲ守ラナカッタ。契約ダ。我ハ闇王ヲ食ウ――」
そう言って、フノラスドは闇王へ蛇の鎌首を伸ばしました。