中央に大きな穴が空いた丸い部屋。穴の底に潜むのは、生贄をむさぼっては眠る怪物のフノラスドです。肉が腐るすさまじい悪臭が、穴から漂っています。
その中へグリフィンのグーリーを落とすか、グーリーと共に生贄になるかを選択しろ、とキースは迫られていました。グーリーを突き落とせば、キースの命は助かります。
グェン……
グーリーが低く鳴いて、不安そうにキースを見ました。キースは青ざめたまま闇王を見つめています。闇王は金の冠をかぶり、黒テンのマントをまとって立っていました。口元にはしわが刻まれ、短い黒髪に白いものが混じっていますが、顔立ちも体つきもキースに酷似しています。
すると、キースが口元を歪めて笑いました。
「フノラスドは母さんを殺した怪物だ。そいつが腐って死んでいくというなら、これほど嬉しいことはないな。グーリーを新しいフノラスドにする手助けなんて、それこそ、死んだってごめんだ」
「おまえがやらなければ、私がやるだけのことだ」
と闇王が答えました。キースが何を言っても、顔色ひとつ変えません。
「私はただ、息子のおまえにチャンスを与えている。ウルグのおまえは王位を簒奪(さんだつ)する危険がない。私に忠誠を誓えば、私の三人目の将軍に取りたててやろう」
「断る!」
とキースは牙をむきました。
「ぼくはおまえを父親だと思ったことなどない! おまえを自分の王だと思ったことも一度もない! おまえの命令を聞くくらいなら、百回フノラスドの生贄にされるほうが、まだましだ!」
息子から拒絶され、皮肉を言われても、闇王はやはり表情を変えませんでした。ただ冷ややかに命じます。
「では、おまえたちをフノラスドに与える。――やれ」
とたんに警備兵のドルガたちが動き出しました。キースとグーリーを穴へ突き落とそうと、四本腕から魔法を繰り出します。
キースは魔法でそれを防ぎました。ルー将軍の魔力にはかないませんでしたが、ドルガ程度の魔法なら充分対抗できます。魔法攻撃が黒いかけらになって散っていきます。
すると、闇王が手を伸ばしました。たちまちキースとグーリーはその場から跳ね飛ばされ、穴へ続く斜面に転がり落ちました。
「うわっ!」
ギェェン!
キースとグーリーは翼を羽ばたかせましたが、斜面から飛びたつことができませんでした。どんなに翼を動かしても体が浮き上がらないのです。ガラスのように磨き上げられた斜面を、青年とグリフィンの体が滑り落ちていきます。
と、グーリーがワシの前脚を伸ばしました。片脚の爪が、かろうじて斜面の縁の石畳にかかって、体が斜面の途中で停まります。キースもその脇腹にしがみつきます。
斜面に宙ぶらりんになったキースに向かって、闇王がまた言いました。
「もう一度命じる。私に忠誠を誓え。グリフィンをフノラスドに与えるのだ」
「嫌だ!!」
この状況でもキースは拒絶します。
すると、王が親衛隊員へ合図を送りました。ドルガたちは心得て動き出し、斜面の縁にかかったグーリーの前脚へ駆け寄ると、剣を振り上げました。
「よせ! やめろ――!!」
キースの声を無視して、グーリーの足に切りつけます。
ギェェェン!!
グーリーがまた悲鳴を上げました。幸い爪は石畳から離れませんでしたが、ワシの指がみるみる血に染まっていきます。
キースはグーリーから片手を離して魔法を撃ち出しました。一人のドルガがもんどり打って斜面に落ち、叫びながら中央の穴に呑み込まれていきます。
すると、穴の中から低い振動が湧き起こって、太い声になりました。
「ナナジュウサン――」
他のドルガたちは真っ青になって立ちすくみました。キースとグーリーも、ぎょっとして穴を振り返ります。それはフノラスドの声でした。食った生贄の人数を数え上げているのです。言いしれない恐怖が、ぞぉっとキースたちの背筋を這い上っていきます。
「恐ろしいであろう」
と闇王がまたキースへ言いました。
「フノラスドは恐怖の怪物だ。誰もが奴に恐怖を感じずにはいられないのだ。――上がってこい、ウルグの息子よ。おまえは闇の民だ。己の真の姿に目覚めるときが来ている。そのグリフィンを穴に蹴り込んで、自分自身を救え」
キースは全身を震わせて牙を鳴らしました。顔を歪めて鬼のような表情になります。
と、キースは長い毛を引いてグーリーの背中に飛び乗りました。巨大な体を蹴りながら、駆け上っていきます。
ギェェェ、とグーリーがまた鳴きました。悲鳴のような声です。
冷徹な闇王が初めて顔に表情を浮かべました。グリフィンを踏み台に上がってくる息子を眺めて、満足そうに笑います。
黒ずくめの闇の青年が斜面の上に飛び出してきます――。
ところが、キースはすぐに体を反転させました。剣を持つドルガたちに飛びかかると、殴り倒し、斜面に蹴り落としてしまいます。
ドルガたちは悲鳴を上げながら斜面を滑り落ちていきました。どんなにもがいても停まることができません。強烈な腐臭を放つ穴に呑み込まれていきます。
「ナナジュウシ、ナナジュウゴ――」
地響きのような声がまた言います。
そこへキースめがけて魔法が飛んできました。ドルガの攻撃です。キースは自分の前で手を振りました。とたんに白いマントが現れて、魔法の弾を跳ね返してしまいます。
舞い下りてきたマントを身に絡めて、キースは叫びました。
「ぼくは闇の民じゃない! ぼくはウルグでもない! ぼくは――キースだ! おまえの命令になど、絶対に従うものか!」
また白いマントがひるがえり、その陰から剣が現れました。キースが魔法で取り出したのです。襲いかかってきたドルガたちを次々に刺して、また斜面へと蹴り落とします。
「ナナジュウロク、ナナジュウシチ、ナナジュウハチ――」
フノラスドの声が、部屋を地下から揺すぶります。
ついにドルガがいなくなると、キースはグリフィンを振り向いて言いました。
「上がってこい! 早く!」
グーリーは二本の前脚で石畳をつかんで、斜面の上に這い上がってきました。キースの後ろに立って、ギェェェン、と声を上げます。
「ウルグの息子は、あくまでも私には従わないか」
と闇王が言いました。親衛隊員が一人残らず死んでも、あわてる様子はありません。キースとグーリーを眺め、おもむろにまた話しかけてきます。
「それでは、おまえのほうにチャンスを与えるとしよう、闇のグリフィン。ウルグの王子をフノラスドの穴へ突き落とせ。そうすれば、おまえの命は助けてやる」
キースとグーリーは仰天しました。闇王は、今度はグーリーのほうへ命令しているのです。
「この……!」
とキースは闇王に切りかかりましたが、たどり着く前に魔法で跳ね飛ばされました。守る者がいなくなったグリフィンに、王がまた言います。
「何故迷う、闇のグリフィン。そこにいるのは、もはや私の息子ではない。ただの裏切り者だ。そいつを落とせば、おまえの罪はすべて許して自由の身にしてやろう。あそこから出ていくがいい」
ばん、と音をたてて部屋の出口が開きました。長い通路がその向こうに続いています。キースは床に倒れたまま、思わずグーリーを見上げました。黒いグリフィンの姿が、そびえるように大きく見えます。
ギェェェ! とグーリーは鋭く鳴きました。翼を広げ、くちばしをかっと開いて宙に飛びます。襲いかかった相手は、キースではなく闇王でした。次の瞬間、グーリーも闇王の魔法に吹き飛ばされて、キースの隣に倒れます――。
「キースもグリフィンも、揃いも揃って私の誘いには乗らぬか」
と闇王は言いました。何故だか、怒っている声ではありませんでした。倒れているキースたちを、珍しいものを見るように眺めると、魔法で椅子を出し、おもむろに座って肘置きに頬杖をつきます。
「おまえたちは何故、そうも闇を拒むのだ。闇の国に生まれ、闇から作られたものであるというのに……。しばらく話をするとしよう、キース。私はおまえたちの答えが聞きたいのだ」
そう言って、闇王は身を乗り出してきました――。