アリアンが叫んだことばに、一同は驚きました。
「キースの奥さんだぁ!? キースのヤツ、いつの間に結婚してやがったんだよ!?」
とゼンがわめきます。突然部屋に入ってきた女性は、何も言わずにただ彼らを見つめ続けています。
すると、ポポロがいっそう驚きながら言いました。
「え、でも……この方……」
ルルも、くんと鼻を鳴らして言います。
「魔法の匂いがするわよ?」
それに答えるようにポチが口を開きました。
「ワン、その人はキースの奥さんじゃないですよ。キースのお母さんです。庭園の東屋で、キースがそう呼んでました」
ええっ!? と一同はまたびっくりしました。茶色の巻き毛に薄緑色のドレスの、若々しい女性です。絶対にキースの母親になれるような年齢ではありません。それに、キースのお母さんはもう亡くなっているのです。怪物フノラスドの生贄になって――。
「魔法で作られているのよ……生きたお人形みたいなものなの」
とポポロが言って、そっと目をしばたたかせました。思わず涙ぐみそうになったのです。
そう、それは魔法で作られた人物でした。見た目は本物そっくりで、触れることもできますが、意志を持つ生きた人間ではなかったのです。青い瞳が、ガラス玉のように彼らを見つめています。美しい顔に表情はありません。
フルートが言いました。
「キースは小さい頃からずっと、この結界の中だけで暮らしてきた。魔法で必要なものをすべて揃えて。彼のお母さんもその中の――ひとつだったんだ」
仲間たちは何も言えなくなりました。アリアンが震えながらまた涙をこぼし始めます。
すると、キースの母親がゆっくりと片手を上げました。部屋の出口を指さします。ただそれだけです。ことばは何も発しません。
意味がわからなくてフルートたちがとまどうと、アリアンが急に息を呑みました。涙のたまった目を見張って言います。
「今……話しかけられたような気がしたわ。こっちよ、って」
えっ、とフルートは驚き、キースの母親が指さす方を見ました。次の瞬間、飛び上がって叫びます。
「来い、ゼン! 大急ぎで装備をするんだ! その人、きっと、ぼくらに結界の出口を教えようとしてるんだよ!」
「お――? な、なに――?」
面くらうゼンを引っぱって、ばたばたと自分たちの部屋へ駆け戻っていきます。
残された者たちは顔を見合わせました。フルートが言ったことは本当だろうか、と考え、人形のような女性をまた見つめます。ゴブリンのゾとヨがそっとキースの母親に近づき、ドレスの裾を引っぱって、すぐに飛びのきました。女性はやっぱりなんの表情も浮かべません。
ただ、彼女はおもむろにまた手を動かして、今度は部屋の中を指さしました。その先の壁には鏡があります。それを見なさい、とまた言われたような気がして、アリアンがのぞき込むと、そこに一つの光景が映り始めました。外の景色です。灰色の雲が渦巻く荒野で、林が風に波打っています――。
ここは……とアリアンがつぶやいたので、他の者たちもいっせいに鏡に集まりました。メールが尋ねます。
「どこかわかるのかい、アリアン!?」
アリアンはうなずきました。屋敷中を歩き回ったときに見た部屋の、出口の向こうに広がっていた景色です。その部屋を開けたとき、キースはとても怒りました……。
確認しようとキースの母親を振り向くと、そこにはもう誰もいませんでした。出口で扉がかすかに揺れています。部屋を出て行ったのです。
ポポロが遠いまなざしになって言いました。
「キースのお母さん、部屋を次々に通ってどこかへ向かっているわよ……どこに行くつもりかしら?」
そこへまた足音を立ててフルートとゼンが駆け戻ってきました。フルートは金の鎧兜を身につけ、剣を背負って左腕に盾をつけています。ゼンのほうは青い胸当てをつけて、腰にショートソードと小さな盾を下げ、エルフの弓矢を背負っています。
「キースのお母さんはどこだ!?」
とフルートが大声で尋ねます。
アリアンは壁の鏡に飛びつきました。縮んで手の中に収まるほどの大きさになった鏡を握りしめて言います。
「こっちよ! 一緒に来て――!」
「そら、おまえらの荷物だ!」
とゼンがメールとポポロに鞄を放りました。自分の装備をするついでに、彼女たちの荷物も取ってきたのです。
慌ただしく出発の支度を整えた一行は、アリアンの後について駆け出しました。屋敷の部屋を次々とくぐっていきます。
その部屋の扉を開けたとたん、激しい泣き声が一同の耳を打ちました。小さな子どもの声です。
部屋の真ん中に茶色の巻き毛の女性が立っていました。何故かその姿は透き通っていて、まるで幽霊か幻のようです。服装も薄緑色のドレスから、ブラウスにスカートの地味な恰好に変わっています。
女性のスカートに子どもしがみついていました。黒髪の、四歳くらいの男の子です。やっぱり透き通った姿で叫んでいます。
「お母さん! 待って、お母さん!!」
キースの母親は振り向いて、小さな息子に身をかがめました。
「元気でいるのよ。体に気をつけて……。お母さんはいつだって、あなたの幸せを祈ってますからね」
「お母さん――!!」
子どもは必死で呼び続けますが、母親はそれを振り切って出口へ歩いていきました。出口の外には荒野が広がり、吹きすさぶ風に大きな林がねじれながら揺れています。その景色の中に、幻のような人影が見え隠れしていました。黒い服を着て角を生やした、闇の民の男たちです。母親が後に続いて部屋を出て行きます。
「お母さん! お母さん! お母さぁん……!!」
子どもが泣き出します。黒髪の頭に角はありません。けれども、その瞳は血のように赤く、泣き叫ぶ口からは牙がのぞいていました。背中には小さな二枚の翼もあります。
「キースだ……」
とフルートは言いました。とても小さな姿ですが、紛れもなく、幼い頃のキースだったのです。
すると、目の前から子どもが消えて、また巻き毛の女性が現れました。今度は透き通ってはいません。薄緑色のドレスを着て、人形のような顔でじっと彼らを見つめています。こちらは、魔法で作られたキースの母親です。
アリアンが言いました。
「ついてきなさい、って――そう言っているわ――」
フルートもうなずきました。
「ぼくにもそんなふうに聞こえた……。やっぱり、この人はぼくらを結界の外に案内しようとしているんだ」
幻がそうしていたように、目の前の母親も出口へ歩き出しました。開け放してある扉を、また開けるようなしぐさをします。
とたんに、部屋の中にどっと風が吹き出しました。出口の外から吹き込んでくるのです。冷たく強い風が、ごうごうと部屋の中を吹き抜けていきます。
どこからかまた、幼いキースの泣き声が聞こえてきました。お母さん、行っちゃいやだ! と引き止めています。
けれども、女性は立ち止まりませんでした。巻き毛とドレスを風になびかせながら、外の景色の中へと歩いていきます。
すると、その姿が目の前で輝き、すぐに消えていきました。輝きがおさまった後の出口に、ぽっかりと穴が開きます。灰色の荒野と林の景色がちぎれて、その中に別の荒野の風景が見えているのです。鈍色の雲が渦巻く空の下で、枯れた草が風に揺れています。
ゴブリンのゾとヨがぴょんぴょん飛び跳ねました。
「こっちは本物の荒野だゾ!」
「そうだヨ! 外につながったんだヨ!」
「キースの母ちゃんはどこに行ったんだよ?」
とゼンが尋ねました。うなるような低い声です。薄緑のドレスの女性は、どこにも姿が見当たりません。
ポポロが答えました。
「いなくなったわ……。結界を開けるにはとても力がいるの。あの人、自分の体で、ここの結界を開けたのよ……」
言いながら泣き出してしまいます。
フルートがつぶやくように言いました。
「キースのお母さんは、また自分から生贄になったんだ――キースを助けるために――」
アリアンは黙って涙をこぼしていました。キースの母親が消えていくとき、また彼女から話しかけられた気がしたのです。お願い、キースをよろしくね、と。優しくはかない声でした……。
一同が茫然としていると、ワン、とポチが言いました。
「早く行かないと。せっかく開けてもらった結界が、また閉じるかもしれませんよ」
その声にフルートも我に返りました。結界の外に見えている荒野を眺めて考え始めます。
「ここは呪われた荒野だ。このまま出ていったら、すぐ大地の呪いに捕まってしまう。だけど、空を飛べば、今度は闇王の呪いで撃ち落とされる……」
「ワン、もちろん地中だって無理ですよ。呪いの蛇が棲んでるんだから」
とポチがまた言います。一同は顔を見合わせました。結界の出口が開いても、その先へ出ていくことができないのです。
フルートは少しの間、口を真一文字に結んで考え込み、すぐにまた口を開きました。
「地上でも空でも地中でもない場所を行こう。それなら呪いにも捕まらないはずだ」
どうやって!? と驚く仲間たちを抑えて、さらに続けます。
「アリアン、キースの行く先を追ってくれ。闇王の城のどこに連れていかれるか確かめるんだ。メールはここの庭から花を呼べ。ありったけの花を使って城へ行くぞ」
「ありったけの!?」
とメールは驚き、すぐに、にやっと笑いました。
「ここの庭はとんでもなく広いから、花の数も半端じゃないよ。こんなにたくさんの花を動かすのは、あたいも生まれて初めてだね――やりがいあるじゃないのさ!」
そう言って、花使いの姫は両手をかざしました。屋敷の周囲に広がる庭園の花たちへ、声高く呼びかけます。
「おいで、花たち! どんな花も、一つ残らずここへやっておいで! あんたたちのご主人が闇王に捕まったんだ! みんなで助けに行くよ!!」
開け放された入口の彼方から、花たちがうなるように押し寄せてくる音が聞こえ始めました……。