それは早朝の屋敷の中に突然響き渡りました。ぴぃん、と張り詰めた弦を弾いたような鋭い音です。屋敷中の全員が目を覚まして跳ね起きます。
「なんだ、今の音は!?」
「外から聞こえたぞ――!?」
フルートとゼンが枕元の武器を手に部屋を飛び出すと、同じように部屋から飛び出してきた少女たちと鉢合わせしました。
「フルート、ゼン! あんたたちも聞いたかい!?」
「今の、警報よ……!」
「ワン、警報?」
フルートたちの後から出てきたポチが聞き返すと、アリアンが言いました。
「今のはこの屋敷の結界に外から人が近づいた音よ。誰かが来たんだわ」
アリアンは青ざめていました。この状況の来訪者が、ただ者であるはずはありません。
すると、屋敷の外から、ばさばさと羽音が聞こえてました。たちまち上の方へ遠ざかっていきます。それを遠いまなざしで追って、ポポロが言いました。
「キースが行ったわ……。途中で姿が見えなくなったから、結界の外に出たのね」
「やだ、大丈夫なの?」
とルルが心配します。
アリアンは部屋を振り向きました。
「鏡――鏡を使えば、外の様子を見られるわ――!」
部屋に駆け戻っていくアリアンに、フルートたちが続きました。二匹のゴブリンのゾとヨも後ろをついていきます。
丸い銀の鏡が壁の上にありました。キースがアリアンに渡してくれた鏡です。手に取れば小さくなりますが、壁に置くと元の大きさに戻ります。アリアンはその前に立ち、じっと目を注ぎました。呪文も特別な動作も必要はありません。ただ心の目を凝らして鏡を見つめれば、その銀の表に景色が映り出します――。
鈍色の雲におおわれた空の下に、荒野が広がっていました。数人の男たちが風に吹かれて立っています。黒い翼を持ち、黒い胸当てをつけたトアたちに混じって、全身を黒い鎧で包んだ四本腕のドルガが二人もいるのを見て、フルートたちは顔色を変えました。ドルガを殺した犯人を捜してやってきたのに違いありません。
彼らの頭上にキースが姿を現しました。トアやドルガたちがものものしい恰好をしているのに、キースは黒い布の服に細身の剣を下げただけの軽装です。親衛隊の前に舞い下りると、臆する様子もなく尋ねます。
「ぼくの屋敷になんの用だ。ここに近づくことは誰にも許していない。さっさと立ち去れ」
「そうは参りません、王子。王のご命令を伝えに参りました」
とドルガの一人が答えました。口では一応敬っていますが、四本の腕を胸の前で組んで、キースを見下ろすように立っています。
キースはいぶかしい顔になりました。
「王の? どんな命令だ」
「ただちに城へ参上なさるようにと」
キースはたちまち眉をつり上げました。
「なんのために!? ぼくが絶対城へ行かないことは知っているはずだぞ!」
「王のご命令です。ただちに城へ参上して――フノラスドの生贄になるのです、ウルグの王子」
ドルガは、ウルグという部分を強調していました。半分人間の闇の民、という意味です……。
鏡を見つめていたフルートたちは、いっせいに驚きの声を上げました。ポポロが真っ青になって言います。
「フノラスドって、キースのお母様が生贄にされた怪物のことよ!」
アリアンは声が出せなくなっていました。フノラスドの生贄から逃げ出したのは、彼女自身です。キースがその身代わりにされるのだろうかと考えます。
鏡の中のキースも青ざめていましたが、すぐに言い返しました。
「いくらぼくがウルグでも、王はぼくを生贄にすることはできない。ぼくの半分は闇の民なんだからな。さてはフノラスドの生贄が集まらなくて、手当たり次第に狩り集め始めたな。見え透いているぞ」
「いいえ、王子。これは本当に闇王の勅令です。なにしろ、あなたは罪人だ。ヤシャの街で我々の同僚を刺し殺しましたからな」
キースは一瞬沈黙しました。心の中では、はっとしたのでしょうが、すぐに落ち着き払って答えます。
「なんの話だ。意味がわからないぞ」
「いいや、あなたにはおわかりのはずだ。あなたはこの国に侵入した人間たちを助けて、ドルガを殺した。しかも、その人間たちは金の石の勇者と呼ばれる一行だ。その様子を家の中から見ていた者がいたのです。あなたは重大な罪を犯した。王はあなたに有罪の判決を下して、フノラスドの生贄の刑を決定したのです」
キースは何も言いませんでした。その顔はなんの表情も浮かべていませんが、透き通るほどに青白くなっていました。闇王はキースの父親です。父が息子に死刑を言い渡したのです。
次の瞬間、キースは大きく飛びのきました。黒い翼を広げて、その場から逃げようとします。
すると、ドルガが腕を伸ばしました。とたんに黒い光が走り、キースの体に絡みつきます。キースは地面に落ちました。その体の上で、光が黒光りのする金属の輪に変わります。
「放せ! ぼくは関係ない!」
叫び続けるキースへ、ドルガが言いました。
「あきらめなさい、ウルグの王子。――それに、騒ぐほどのことでもないだろう。あなたは十七年前にフノラスドの生贄になるはずだった。それがここまで延びたというだけのことだ」
キースはすさまじい目でドルガをにらみつけると、跳ね起きて逃げ出そうとしました。翼は使えないので、走って屋敷の結界に飛び込もうとします。とたんに戒めの輪から黒い光がほとばしり、キースはその場に崩れるように倒れました。そのまま地面で動かなくなります。
「無駄だ。王の戒めから逃れられるわけがない」
とドルガは言い、他の親衛隊員と共に笑い出しました。あざけりの笑い声です。
もう一人のドルガが二本の右腕にキースを抱えて空へ飛びたちました。その後を追って他の者たちも舞い上がり、黒い翼の集団となって遠ざかっていきます――。
いやぁぁ! とアリアンは悲鳴を上げました。両手で顔をおおうと、声を上げて泣き出してしまいます。とたんに鏡の中の景色が揺れ、荒野や空が消えていきました。銀の鏡面が部屋と、その中で立ちすくむ者たちを映し出します。
次の瞬間、少年少女たちはいっせいに部屋から飛び出しました。屋敷の出口へ向かって走り、外へ飛び出します。
そこは美しい庭園でした。降りそそぐ朝の光に緑の葉が輝き、花が風に吹かれるように揺れています。空は青く晴れ渡っているのですが、キースの姿も、彼を連れ去る闇の親衛隊も、ここからでは見ることができません。
「追いかけるぞ! キースを助けるんだ!」
とフルートが言い、全員が駆け出そうとすると、ポチが言いました。
「ワン、だめです! ここは結界の中だから、外には出られないんですよ!」
ポチは前日、庭園を歩けるところまで歩いていました。広い広い庭を一時間も歩き続けて、ポチがようやくたどり着いたのは、自分が出発した屋敷の裏手でした。閉じられた空間の中をぐるりと一回りして、また元の場所へ戻ってしまったのです。
一行は立ちつくし、周囲を見回して懸命に結界の出口を探しました。ポポロも魔法使いの目で庭園の中や空を見ますが、出口はどうしても見つかりません。
すると、フルートがまた言いました。
「アリアンだ! 彼女の力でなら、きっと出口が見つかる!」
そこで一行はまた屋敷に駆け戻り、鏡の前でまだ泣いていたアリアンに言いました。
「泣かないで、アリアン! 結界の出口を探すんだ!」
「どこかに必ず出口があるはずなのよ……! あたしの目では見つけられないの。お願い、アリアン」
「ワン、急いで、アリアン!」
少女は泣くのをやめました。懸命に涙をぬぐって鏡に向かいます。銀の鏡はそんな彼女を映します。黒いドレスを流れる長い黒髪。泣きはらしていても、なお美しく見えるアリアンです。
すると、彼女がのぞく鏡に人影が映りました。アリアンは目を見張ると、あわてて後ろを見ました。つられてフルートたちも振り向きます。
部屋の中に、本当にその人物がいました。薄緑色のドレスを着た、茶色の巻き毛の女性です。鮮やかな青い瞳で、じっと部屋の中の一行を見つめます。
「キースの――奥様――!」
とアリアンは細い声で叫びました。