翌日、アリアンはソファの上で目を覚ましました。
いえ、闇の国に朝日は昇らないし、ここは結界の中なのすから、本当に翌日になったのかどうかはわかりません。
けれども、しっかり食べてぐっすり眠ったアリアンは、以前とは比べものにならないほど元気になっていました。
それだけに、自分をかばって敵に捕まったグーリーのことが、どうしようもなく心配になります。
「鏡を見つけなくちゃ」
と自分に言うと、また屋敷の中を探し始めました。
前日に一階はすべて見て回ったので、次は二階を探す番でしたが、階段を上ろうとすると途中で進めなくなりました。見えない壁が立ち塞がっていたのです。キースはそこを上っていったのですから、他人に立ち入らせないための障壁に違いありませんでした。
アリアンの魔力で越えることはできないし、プライベートな場所に立ち入るのもためらわれたので、彼女はしかたなくまた一階に降りました。まだ探していない場所はなかっただろうか、と考えて周囲を見回し、急に屋敷の外の庭園を思い出しました。庭に鏡があるとは考えにくいのですが、花が咲いていたので、池や水盤があるかもしれない、と思ったのです。外にある水ならば、水鏡をのぞけるかもしれません。
ところが、屋敷の入り口の扉はぴったり閉じられていて、アリアンがいくら押しても引いても、まったく動きませんでした。魔法で閉じられていたのです。追っ手が侵入しないためなのかもしれませんが、彼女は困惑しました。これでは庭に出ることができません──。
「あ!」
アリアンが急に思い出したのは、昨日風の音を聞いた扉でした。おそらく外につながる裏口です。入り口の扉は大きくて手に負えませんが、裏口ならなんとか開けられるかもしれない、と考えて、急いで屋敷の奥へ向かいます。
その途中で、またいろいろな部屋を抜けました。美しい部屋、居心地の良さそうな部屋、本が並ぶ部屋、食事を並べるテーブルがある部屋、ひとりでに音楽を奏でる部屋……。どの部屋も立派ですが、やはり人の姿はありませんでした。空っぽな魔法仕掛けの部屋が、主人の訪れを待ち続けています。
「寂しいところ」
とアリアンは思わずつぶやきました。あの人はこんなところで本当にずっとひとりで暮らしているのかしら? 寂しくはないのかしら? 闇の王子ならば、孤独も平気で、むしろそのほうが居心地が良いのかしら……?
「ここは誰であっても立ち入り禁止だぞ! 死にたくなければ出ていけ!」
昨日キースにどなられたことを思い出して、そうかもしれない、とアリアンは考えました。他人が嫌いな孤独の王子です。ただ、それにも関わらずアリアンを親衛隊から助けてくれたことが不思議でした。アリアンが人間を助けたと知って、かばう気になったようでしたが、いくら考えても理由がわかりません……。
そうするうちに、アリアンは一番奥の部屋にたどり着いていました。魔法仕掛けのチェス盤が、一勝負いかがですか? と話しかけてきます。
アリアンはそれを無視して奥の扉へ行きました。取っ手を握って思い切り引きます。
が、やはり扉は開きませんでした。今度は押してみましたが、やっぱり開きません。扉の向こうからは今日も風の音が聞こえます。アリアンは力任せに扉を押したり引いたりしましたが、それでもびくともしないので、ついに声に出して言いました。
「お願い、開けて! 開けて通してください! グーリーを助けたいの! お願い、開けてください──!」
すると、突然扉がこちら側に開きました。急に鍵が外れたように、いきなり開いたのです。
とたんに、どっと風が吹き出してきて、アリアンの髪と服をあおりました。扉の向こうはもうひとつ部屋があって、開け放たれた奥の扉から強い風が吹き込んでいたのです。出口の向こうに広がっているのは、庭園ではなく、雲が渦巻き林が波打つ灰色の荒野でした。部屋いっぱいに子どもの泣き声が響いています。誰かを引き止めて泣いているようでしたが、部屋に子どもの姿はありません――。
すると、アリアンの背後からいきなり手が伸びて、扉を音高く閉めました。風がやみ、子どもの泣き声も聞こえなくなります。
アリアンが驚いて振り向くと、そこにキースが立っていました。赤い目をつり上げ、憎悪の顔でにらみつけています。アリアンはすくみ上がり、すみません、と謝りました。相手が見られたくないと思っている場所を見てしまったのだと気づいたのです。
キースは片手で扉を押さえたまま、まったく、と苦々しく言いました。
「自由に歩いていい、とは言ったけれど、まさかこんなところまでのぞきに来るとは思わなかったぞ……。おまえは何者だ? どうしてこの扉を開けられた? 何を探してここまで来たんだ」
アリアンはすぐには答えられませんでした。青年が非常に厳しい声をしていたので、体中が震えてしまって、声が出なかったのです。やっとのことで、鏡を探していました、と答えます。
「鏡を? どうしてだ」
と青年がまた厳しく尋ねてきます。
「友だちの様子を……見ようと思いました。なんとかして助けたくて……」
答えるアリアンの瞳から涙がこぼれました。しずくになって落ちると、そのまま床に吸い込まれてしまいます。馬車の中にいたときのように、涙の水鏡も作ってはくれません――。
ふぅ、と青年が溜息をつきました。腕組みしてアリアンをつくづくと眺めます。
「本当におかしな奴だな、おまえは……。闇の民のくせに友だちがいるのか? しかも、それを助けようとするだなんて。とても信じられないぞ」
「グーリーは私が生まれたときから一緒にいた、大事な友だちなんです。私を逃がすために、自分から親衛隊に捕まってしまいました。だから……」
「誰なんだ、そのグーリーってのは。闇の民なのか?」
「闇のグリフィンです……。私と弟を助けてくれていました。弟がいなくなってからは、私をずっと守ってくれて……」
「いなくなった?」
とまた青年が尋ねてきます。その声が厳しさをなくしてきていることに、アリアンは気がつきませんでした。聞かれるまま、泣きながら答えます。
「死んで……人間に生まれ変わりました……。今は人間として幸せに暮らしています……」
キースはすぐには何も言いませんでした。腕組みしたまま上を向き、しばらく考え込んでから、つぶやくように言います。
「やたら似ている話だよなぁ――偶然の一致にしては」
アリアンは顔をおおってむせび泣いていました。キースはそれを眺めて、また考え込み、やがて組んだ腕をほどきました。ためらってから、こう話し出します。
「ぼくは以前、それとよく似た話を聞いたことがあるんだ。人間を友だちにした闇の民と闇のグリフィンがいて、一人は人間に生まれ変わってしまった、ってね。それを話してくれたのは人間で、ぼくにも一緒に来いと言ってきた……。君は、フルートって名前を知っているんじゃないのか?」
アリアンはびっくりして泣き顔を上げました。驚きすぎて声が出ませんでしたが、その反応が何よりの答えでした。キースは、やっぱり、と苦笑しました。ちょっと困ったように、人差し指の先で自分の頬をかきます。
「さてと、何から話したらいいだろうな。こんなところで、彼らを知っている人と出会えるとは思わなかったよ」
「あの……フルートって……」
アリアンがいっそうとまどうと、キースは肩をすくめました。
「そう、君が知っているフルートさ。それから、ゼンとメールとポポロ、それにポチとルルの二匹の犬たち。金の石の勇者の一行のことだよ。ぼくは彼らと神の都のミコンで出会って、友だちになったんだ」
アリアンが短い悲鳴を上げました。信じられなくてキースを見つめます。
そんな彼女へ、キースは笑いかけました。端正ですが、愛嬌のある暖かい笑顔が広がります。ようやく本来の表情を見せた青年に、アリアンは思わず頬を染めました――。