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第15巻「闇の国の戦い」

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第7章 闇の王子

21.屋敷

 アリアンは闇王の第十九王子のキースに連れられて屋敷へ来ました。手入れの行き届いた庭園の中で、二階建ての大きな建物が白く輝いています。その上に広がっているのは、綿雲を浮かべた青空です。本当に、ここが闇の国の中だということを忘れてしまいそうな光景でした。

 キースが屋敷に入っていったので、アリアンもそれに続きました。庭園をずいぶん歩いてきたのに、途中、人には誰も出会いませんでした。広い屋敷の中にも人の気配はありません。アリアンが思わず首をかしげると、キースが言いました。

「何か疑問か?」

 口調はそっけないのですが、答えを待っているので、アリアンは思い切って尋ねました。

「ここには一人でお住まいなんですか……? 王子様だけで?」

「そうだ。ぼくは城が嫌いだからな。それと、ぼくを王子と呼ぶな。その呼び名も嫌いなんだ。キースでいい」

 アリアンはとてもとまどってしまいました。第十九王子は変わり者で、城に住まずに荒野で暮らしている、という話は有名でした。アリアンが聞こうとしたのは、そのことではなかったのです。

「あの……一人でお暮らしなんですか? ご家来とか奥様は……」

 とたんに、キースは、はっ! と鋭く笑いました。ひどく皮肉な声で言います。

「闇の民の家来や妻か? 冗談じゃない! そんなものはいないさ。気楽な一人暮らしだ」

 けれども、アリアンは庭園で人を見かけていました。茶色の巻き毛の人間の女性です。あれはどなたですか、と聞きたい気がしましたが、聞けば相手をますます怒らせそうな気がして、うつむいてしまいました。

 そんなアリアンへ、キースは言い続けました。

「本当はおまえのことだって助ける気はなかったんだ。ただ、おまえは人間を助けたという話だったからな。それに免じて、近くに追っ手がいなくなるまでかくまってやる。屋敷の中を歩いて暇つぶしでもしているんだな」

 言うだけ言って、キースは一人で階段を上がっていってしまいました。やがて、二階からドアの閉まる音が聞こえてきます。

 

 一人残されたアリアンは困惑しました。自分がどうしたらいいのか、とっさには思いつきません。本当は今すぐグーリーを救いに戻りたいのですが、それにはどうすれば良いのかもわかりません。しばらく途方に暮れて、やがて、ようやく考えつきました。

「鏡よ……鏡を探しましょう」

 ことばに出すことで、それが小さな希望に変わりました。鏡で透視すれば、グーリーの居場所や様子はわかります。グーリーを助け出す方法も見つかるかもしれません。

 アリアンは周囲を見回し、入口の広間に鏡がなかったので、屋敷の奥に向かって歩き出しました。キースは屋敷の中を歩いて良いと言いました。鏡を探し回っても叱られることはないはずです……。

 

 ホールの正面の扉を開けると、四角い部屋があって、そこにも扉がありました。その扉を開けるとまた部屋に出て、また扉があります。さらにそこを開けると、また次の部屋になります。

 屋敷には廊下はなく、部屋が部屋に続く造りになっていました。ひとつずつが雰囲気の違う、趣向を凝らした部屋です。美しい家具を置いた部屋、珍しい宝石や彫刻で飾った部屋、手織りのタペストリーが壁に下がった部屋、暖炉のある居心地の良さそうな部屋、庭園に向かって大きく窓を開け放った部屋……。さまざまな部屋が現れますが、どこにも鏡は見つかりません。

 白い布をかけた丸テーブルのある部屋は、食べ物の良い匂いでいっぱいでした。テーブルの上にたくさんの料理や飲み物が並び、食事の準備がすっかり整えられていたのです。キース王子のお食事かしら、とアリアンが考えていると、ふいに声がしました。

「お夕食はいかがでございますか、ご主人様」

 人の姿はありません。話しているのは、食事が並んだテーブルでした。どうぞお座りください、と言うように、アリアンのすぐ近くの椅子がひとりでに動きます。魔法の食卓だったのです。

 アリアンは驚き、思わず返事をしました。

「いいえ、あの……私はけっこうです」

 とたんにテーブルの上から料理や食器が煙のように消えました。椅子もまた元の位置に戻ってしまいます。

 次の部屋にはクラブサンとハープがありました。やはり人は誰もいないのですが、楽器はひとりでに音楽を奏でていました。哀愁を帯びた音色が、誰もいない部屋に響きます。

 さらに次の部屋にはテーブルと椅子があって、チェス盤が置かれていました。水晶でできた駒が盤の上をひとりでに動きながら、アリアンに呼びかけてきます。

「ご主人様、一勝負いかがですか?」

 アリアンは茫然と立ちつくしました。この屋敷には本当にキース以外の人はいないのだとわかってしまったからです。彼は、結界に切り取られた世界の中で、魔法で提供される料理を食べ、楽器が奏でる音楽を聴き、チェス盤を相手に遊んで過ごしているのです。一人きりで。美しい庭園に囲まれて。

 じゃ、あの女の人は? とアリアンは考えました。庭園で出会った人間の女性は、気がついたときにはもう姿が見えなくなっていました。もし、この屋敷に一緒に住んでいるなら、女性向きの家具や道具などがあっても良さそうなのに、それも見当たらないのです。だいたい、女性がいるなら必ずありそうな鏡が見つかりません。

 なんとなく落ち着かない気持ちになりながら次の部屋に進もうとすると、扉が開きませんでした。鍵がかかっていたのです。

 アリアンは首をかしげ、少しためらってから、扉をたたいてみました。あの女性の部屋ではないかと考えたのです。

 けれども、いくら待っても中から返事はありませんでした。もちろん扉も開きません。思い切って扉に耳を押し当てると、ごうごうと風の吹くような音が聞こえてきました。外に出る裏口かもしれません。屋敷の一階はここで終わりでした。

 

 アリアンは困惑して振り向きました。屋敷には二階もありましたが、キースがいるはずなので、上って鏡を探すのはためらわれます。何か鏡の代わりになるものはないかしら、と考え、急にあるものを思いつきました。あわてて今来た道を引き返し、いくつもの部屋を通り抜けて、食卓があった部屋まで戻っていきます。

 彼女が部屋に入ると、白い布を書けた丸テーブルにはまた美味しそうな料理が並んで、湯気といい匂いをたてていました。

「お夕食はいかがでございますか、ご主人様」

 と魔法の食卓が尋ねてきます。

「ええ、いただくわ」

 とアリアンは答えて急いでテーブルに近寄りました。椅子がひとりでに動いて彼女を座らせ、テーブルの前へ連れて行きます。

 アリアンの目的は食事をすることではありませんでした。テーブルに並んだ料理を見渡し、カップを見つけて引き寄せます。カップに水が入っていれば、水面は鏡のように景色を映します。それを鏡の代わりにしようと思ったのです。

 ところが、カップの中は空っぽでした。くすんだ金色のカップは何も映しません。アリアンはがっかりして思わず言いました。

「何もないの……?」

 とたんに今度は手の中のカップが口をききました。

「お飲み物は何がよろしいでしょうか、ご主人様」

 アリアンは驚き、あわてて言いました。

「み、水を。水をください」

 たちまちカップの中に透明な液体が溜まって、なみなみになります──。

 けれども、カップの中をのぞき込んだアリアンは、また驚きがっかりしてしまいました。水の上に何も見えなかったからです。水面が揺れているからではありません。水面は透明な丸い板のように、さざ波ひとつ立てていないのに、表面に何も映していませんでした。のぞき込むアリアンの顔も、もちろん、アリアンが見たいと思うグーリーの様子も……。

 アリアンは立ち上がり、食卓の上にある様々なものを確かめてみました。深皿に入ったスープ、銀色に光るナイフやフォークやスプーン、金色の平たい皿、つやつやと輝くようなリンゴの表面までのぞき込みますが、やはり何も映っていませんでした。

 ついに、彼女はカップの中身を床にこぼして、水たまりを作ろうとしました。囚われた馬車の中では涙の水鏡で透視をしたのです。ところが、水はたちまち床に吸い込まれてしまいました。やっぱり鏡は生まれません。

「どうしてなの……?」

 尋ねても答えてくれる人はいませんでした。キースが階下へ降りてくる様子もありません。二階は静まりかえっています。

 

 とうとうアリアンは涙をこぼしました。一粒こぼれると、後はもう止めようもなくあふれてきます。

 すると、記憶の底からひとつの声がよみがえってきました。

「闇の民だって、しっかり食べなくちゃね。食べないと元気になれないんだから」

 フルートの声でした。北の大地で魔王から彼女を助けてくれたときに、そう言ってくれたのです。彼女は角を生やし血の色の瞳をした闇の民なのに、フルートたちはそんなことなど少しも気にしませんでした。そして、当然のことのように、食事を勧めてくれたのです──。

 ええ、そうね、とアリアンは心で答えると、涙を拭いて立ち上がりました。たちまちまた椅子が動いてきて、彼女を座らせます。

「お夕食をどうぞ、ご主人様」

 と食卓がまた言いました。どんなに時間が過ぎても、料理はできたてのように湯気と匂いを立ち上らせています。

 アリアンはスプーンを取り上げてスープを飲みました。あまり空腹は感じていませんでしたが、パンを食べ、魚料理にも手をつけます。すると、少しずつ気持ちが前向きになってきました。フルートが言っていたとおり、闇の民だって食べるものを食べないと元気になれなかったのです。これを食べ終えたら、もう一度鏡を探してみよう、と考えます。

 けれども、彼女は鏡探しを続けることができませんでした。食べるうちに強烈な睡魔に襲われて、食卓に突っ伏して眠り込んでしまったからです。

 すると、テーブルから料理が消えました。代わりに隣の部屋からソファが滑るようにやって来ます。

 アリアンの前からテーブルが動き、代わりにやって来たソファが倒れ込んだ彼女を受け止めました。それでも彼女は目を覚ましません。闇王の親衛隊に囚われ、馬車から逃げ出して必死に荒野を走って、くたくたになっていたのです。

 ぐっすり眠り込んでしまった彼女の上に、毛布がひとりでに飛んできて、羽根のようにふわりと降りていきました──。

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