馬車の中でユギルに話しかけられたとたん、子どもが大人びた口調で話し出したので、ゴーリスは驚きました。茶色い髪に灰色の瞳の小さな子どもです。娘のミーナとそれほど歳も違わないようなのですが……。
「ゴーラントス卿、こちらはロキ殿です。以前、北の大地の戦いの際に勇者殿たちと共に戦ったトジー族の少年で、その後、人間に生まれ変わってこられたのです」
とユギルが説明すると、子どもが肩をすくめました。
「いいんだよ、ユギルさん。本当のことを言ってさ。おいら、トジー族として育ってはきたけど、正体は闇の民だったんだ。フルート兄ちゃんたちと一緒に魔王と戦って、聖なる光で消滅した後、人間の子どもに生まれ変わってきたんだよ」
それを聞いて、ゴーリスもようやく思い出しました。
「ああ、そういえば、殿下がそのような話をされていたな。仮面の盗賊団の事件の後のことだ……。そうか、おまえがロキだったのか」
すると、子どもはまた、にやっと笑いました。
「そういうこと。よろしく、ゴーリス」
いつの間に聞き覚えたのか、自分の親より年上の相手をちゃっかり愛称で呼びます。
ユギルはロキへ話し続けました。
「わたくしは、国王陛下のご命令で勇者殿のご両親に会いに来たことになっておりますが、実際には占盤のお告げを受けてここまで出向いておりました。シルの町でわたくしが必要とされる、と占いに出たので、陛下に願って、ここまで遣わしていただいたのです。それはどうやらロキ殿と再会するためだったようです。勇者殿たちの身の上に何かございましたか、ロキ殿?」
とたんに子どもは顔つきを変えました。口元を歪めて、また泣き出しそうな表情になります。大泣きしていたのは嘘ではなかったのです。
「兄ちゃんたちじゃないよ。おいらの姉ちゃんとグーリーさ――! 闇の民が追いかけてきて、姉ちゃんたちを捕まえちゃったんだよ。ほんの一瞬だったけど、その時の様子がおいらにも見えた。おいら、助けに行きたかったんだけど、こんな小さな子どもの体だろう? 駆けつけることもできないし、話したって誰も信じてくれないし。もしか兄ちゃんたちにおいらの声が通じたら、兄ちゃんたちが助けてくれるかもしれないって思って、それでずっと呼んでたんだ」
話しているうちに、ロキの目にまた涙が浮かんできました。それを小さな拳でぬぐって言い続けます。
「頼む、姉ちゃんたちを助けてよ――! 姉ちゃんは闇の民だし、グーリーだって闇のグリフィンだけど、人間の味方なんだよ! それに――今でもやっぱり、おいらの大事な姉ちゃんと友だちなんだ――」
ロキは泣き出していました。ぬぐってもぬぐっても、涙があふれてこぼれ落ちてきます。
ユギルはうなずきました。
「妙なことだとは思ったのです。勇者殿たちのご様子はいつもずっと占盤で追い続けていて、今は危険も迫ってはいないと見えておりましたので。ロキ殿の姉君のアリアン様たちのことでございましたか……。承知いたしました。連れ去られた先を占ってみることにいたしましょう」
と座席の下から布の包みを取り上げて膝に置き、中から占盤を取り出します。それは黒大理石の円盤でした。鏡のように磨き上げられた表面に、他の者には意味のわからない線や模様がいくつも刻み込まれています。ユギルはここに目には見えない象徴を映し出して占うのです。
「アリアン様たちの象徴は、北の大地の戦いの際にも見たことがございます。アリアン様は美しい鏡、グーリーは大きなワシです。それを探してみます」
と言って、ユギルは占盤へじっと目を注ぎました。象徴を追って、石の表面へ意識を走らせます。やがて、占者はがらりと違う声で話し出しました。若いのにひどく歳をとった人のような、目の前にいるのに遠い場所から聞こえてくるような、深遠な声です――。
「確かにアリアン様とグーリーは闇の者に捕まりました。非常に強い闇の力を持つ集団が追ってきて捕らえたのです。行き先は地の底深い場所にある闇の中……濃い暗がりになっていて、その先を見通すことはかないません。これは闇の国。アリアン様たちは闇の国へ連れ去られました」
ロキは悲鳴を上げました。座席から滑り降りてユギルの膝に飛びつきます。
「闇の国に連れていかれたら、姉ちゃんたちは殺されちゃうよ! ユギルさん、姉ちゃんたちを助けて! お願いだから、助けてよぅ――!!」
ついにロキはまた大泣きを始めました。ユギルの膝にすがりつき、わんわん声を上げて泣く様子は、二歳の子どもそのものです。
ユギルは我に返ったようにそれを見て言いました。
「残念ですが、わたくしたちには闇の国へ行く手段も、闇の手からアリアン様たちを救い出す方法もございません。ですが、ロキ殿のおっしゃっていたとおり、勇者殿たちであればきっとなんとかできましょう。占盤も彼らを呼べと言っております。勇者殿たちに知らせることにいたします」
「どうやって? あいつらと連絡を取る方法はないんだぞ」
とゴーリスが尋ねました。今、フルートたちは東の彼方のユラサイ国にいます。馬で知らせをやっては時間がかかりすぎるし、伝書鳥で知らせを送ることもできません。魔法使いが使う魔法の声も、彼らには通じなかったのです。
ユギルは細い指先を自分の顎に当てると、少し考えてから言いました。
「そうですね……また、あの方にお願いすることにいたしましょう――」
馬車の扉が開いて、中から男の子を抱いたユギルが出てきました。
「もう大丈夫です。ロキ殿は落ち着かれました」
と言って、待っていた母親の腕へ戻します。小さな子どもは泣き疲れたのか、ぐっすりと眠り込んでいました。
「何か起きているのかい?」
とフルートの父親が尋ねました。大丈夫だと言っている割には、ユギルも、続いて馬車を下りてきたゴーリスも、いやに真剣な顔をしていたのです。
ゴーリスが答えました。
「フルートたちに危険が迫っているわけじゃない。だが、あいつらに知らせなくちゃならないことができた。ちょっと出かけてくる」
「出かける? どこへ?」
「魔の森だ。すぐに戻る」
とたんにフルートの両親は口々に言い出しました。
「それは無理だ、ゴーリス。魔の森には行けないよ」
「そうなのよ。今年になって間もなく、急に森が消えてしまったの! 森があった場所は、今はただの荒野よ」
「その報告は俺も聞いていた。だが大丈夫だ。こちらにはロムド城の一番占者がいるからな」
とゴーリスは言うと、馬車から御者を降ろし、代わりに自分が御者席に座りました。ユギルも再び馬車に乗り込みます。ゴーリスが馬に鞭(むち)を入れると、馬車はたちまち走り出しました。あっけにとられた人々が後に残されます。
そんな中、母親の腕に抱かれていたロキが、そっと目を開けました。寝たふりをしていたのです。遠ざかっていく馬車を食い入るような目で見送ります。
「兄ちゃんたち……頼むね……」
その小さな声は、車輪の音にかき消されて、誰の耳にも聞こえませんでした。
「ゴーラントス卿、馬車をお停めください」
馬車の中からユギルに話しかけられて、ゴーリスは手綱を引きました。馬が砂埃を立てながら荒野の真ん中で停まります。ユギルとゴーリスは馬車から飛び降りました。
「魔の森があったのはこの場所でございますね」
とユギルに言われて、ゴーリスは肩をすくめました。
「たぶんな。こう何もなくなっていては、確信は持てんが。ねじ曲がった巨木が、絡み合いながらぎっしりと生えた森だった。招かれざる者が近づけば、ひとりでに恐怖の心が湧いてきて、森へ足が進まなくなる。畏怖の念をこめてつけられた名前が魔の森だ。だが、それもフルートたちが世界へ旅立ったのと同時に消えてしまった。魔の森は、金の石の勇者と共にある森だったんだろうな」
周囲には乾いた荒野が広がっているだけで、森があった痕跡はどこにも見当たりません。
けれども、ユギルは足下へ目を向けながら言いました。
「魔の森は消えたわけではございません。この大地の奥深くへ沈み、そこからシルの町を守っているのです。おそらく、勇者殿のご家族や知人をデビルドラゴンから守るためでございましょう。その方たちを人質にされたら、勇者殿は戦えなくなってしまいますから」
「なるほど。では、この下に魔の森はまだ存在しているんだな」
「ございます。そこに住まわれる、あの方も――」
と占者は言うと、地面へかがみ込み、片手を胸に当てて呼びかけました。
「世界の泉と川を司られる、偉大な自然の王よ。わたくしの声が聞こえますでしょうか? ご無礼を承知の上で、あえてお願い申し上げます。どうぞわたくしたちに力をお貸しください」
そのまま、ゴーリスと二人で地面を見守ります。
すると、乾いた土の上に黒い染みができ始めました。たちまち広がって、ぬかるみに変わっていきます。その中心が、ぼこりと音をたててはじけると、にごりのない水が湧き出てきました。周辺で湿った土が次々と崩れ、水の中に沈んで淵(ふち)を作っていきます。
水が足下まで迫ってきたので、ユギルとゴーリスは後ずさりました。淵はどんどん広がって、澄んだ池になります。いえ、中心から水が湧き続けているのですから泉です。沈んだ土が金の砂に変わり、日差しを浴びてきらきらと輝き出します――。
やがて、泉の上に一人の老人が姿を現しました。光の加減で金にも銀にも青にも見える、不思議な色合いの長衣を着て、水の上に立っています。その輝くように白い髪とひげは長く、先端は足下の水面に溶けて見えなくなっていました。
「泉の長老」
とユギルは言って、深々とお辞儀をしました。ゴーリスも急いで頭を下げます。魔の森の主で、フルートを金の石と引き合わせた、偉大な魔法使いでした。
「そなたに呼び出されたのは、これで二度目じゃな、ロムド城の占い師。一度目は、フルートたちが願い石を探しに旅立つときじゃった」
と長老が話しかけてきたので、ユギルはさらに頭を下げて言いました。
「度重なる失礼をお許しください。ことは急を要する、という予感がしております。なにとぞ長老のお力添えをいただきたく存じます」
すると、泉の長老は、水の色の瞳でユギルを見つめました。
「そなたは世界を救う力の一つとなるために生まれてきた占者じゃ。そなたがそう感じるからには、それは真実じゃろう。だが、わしは何も異変は感じておらぬし、わしの水の目にも特に変わった出来事は映っておらん。何事があったのじゃ?」
「ロキ殿の姉君が闇の国へ連れ去られました。今すぐ勇者殿たちにお知らせしなくてはなりません」
ユギルは顔を上げると、泉の王に向かってそう話し始めました――。