「やあ、ゴーリス、久しぶり。はるばる来てくれて嬉しいよ。長旅でさぞ疲れただろう」
シルの町外れに建つ小さな家の前で、フルートの父親が馬車から降りたゴーリスを出迎えました。家の前にはまた大荒野が広がっています。街道から外れた場所なので周囲に家はなく、荒れ地にぽつんと一軒だけ置き去りにされているように見えます。
穏やかな表情をしたフルートの父親の隣には、フルートの母親が並んで立っていました。とても優しそうな女性で、金髪をきちんとまとめ、白いエプロンを着けて、こざっぱりした恰好をしています。馬車からジュリアが降りてくると、スカートの裾をつまんでお辞儀をして言います。
「大変むさくるしい場所で申し訳ございません、奥様。ですが、奥様のお話は、息子のフルートやポチからいつも聞かされていて、いつかお目にかかりたいとずっと思っておりました。ようこそシルへ。心から歓迎いたしますわ」
姿はいかにも農夫の妻という恰好なのに、非常に上品な挨拶だったので、ゴーリスは目を丸くしました。
「驚いたな。ハンナは貴族の出だったのか? 完璧じゃないか」
こちらはロムド国の大貴族だというのに、とても庶民的でざっくばらんなゴーリスです。フルートの父親が笑いました。
「いいや。ロアの名家の娘だったんだよ。大きな商家だったから、社交界に出たこともある。それをさらって駆け落ちしてきたんだ――話したことがなかったっけ?」
「初耳だ。そんな熱い物語があったとはな。ぜひ詳しく聞かせてもらいたいものだ」
「まあ、たいした話ではないわよ、ゴーリス。チャールズと一緒にこの西部へ移り住んできただけのことよ」
とフルートの母親が赤くなって言いました。夫と同じように、ゴーリスに対しては打ち解けた友だちの口調になっています。
そんな様子にジュリアはにっこりすると、丁寧にお辞儀を返して言いました。
「私に対しても主人のようにお話しくださいな。お二人は主人の大切なお友だちです。それなら、私にとってもやはりお友だちですから」
「では、そこにわたくしも混ぜていただけますでしょうか」
と言って馬車から降りてきたのは、銀髪に灰色の長衣の青年でした。輝くようなその容姿に驚くフルートの両親へ、一礼をして続けます。
「初めてお目にかかります。ロムド城の占者のユギルでございます。ゴーラントス卿や勇者の皆様方とは、以前から大変懇意にさせていただいております」
「これはこれは……あなたがユギルさんか。フルートたちから噂は嫌というほど聞かされていますよ。大変お世話になっているのだと」
「いつもあの子たちを助けてくださって、本当にありがとうございます」
とフルートの両親がすぐに礼を言い、座が和やかな雰囲気に充たされます。
すると、馬車の中から幼い子どもの声が聞こえてきました。
「お母しゃま、お父しゃま――」
小さな少女がちょこちょこと馬車の出口に姿を現します。
「いらっしゃい、ミーナ。皆様にご挨拶しましょう」
とジュリアが娘を抱き上げて一同の元へ連れていくと、和やかさはいっそう増しました。
「そうか、この子がミーナか。実にかわいい顔をしているね」
「ああ、俺に似ずにジュリアのほうに似て、本当に良かったと思っている」
「おいくつになりましたの?」
「二月生まれなので、間もなく一歳半になりますわ」
「最近ことばが達者になってこられて、馬車の中でもずいぶんおしゃべりされていました」
ジュリアに抱かれたミーナは、珍しそうにあたりを見回すと、母親の腕の中で身をよじりました。地面に下ろしてもらうと、少しおぼつかない足取りで歩き出します。そこはさえぎるものが何もない荒野です。どこまでも自由に進めるので、ミーナはにこにこしながら歩いていきます――。
ところが、それを見守っていたユギルが、急に後ろを振り向きました。家と、その向こうの小さな森へ鋭い目を向けます。
「なんだ?」
とゴーリスはたちまち緊張しました。腰の剣へ手をかけます。
いえ、とユギルは答えました。
「敵ではございません。馬車が近づいてくるのです。ただ、それが運んでくる象徴が――」
ユギルはこの世の存在を象徴の姿で占いの場に映しだして、現在や未来の出来事を読み取ります。普段は黒い石の占盤(せんばん)を使って占うのですが、近い未来やごく身近なことであれば、占盤なしでも感じ取ることができます。一台の馬車がフルートの家に向かって走っていました。そこに乗っているのは三人。どれも以前ユギルが見たことのある象徴ですが、そのうちのひとつには特に見覚えがあったのです。
すると、家の裏手のほうから本当に馬車の音が聞こえてきました。車輪が乾いた大地をかむ音が近づいてきます。同時に、激しい子どもの泣き声も――。
一同が驚いていると、じきに一台の馬車が到着しました。ゴーリスたちが乗ってきたのは屋根のある二頭立ての箱馬車ですが、やってきたのは屋根も幌(ほろ)もない一頭立ての馬車です。手綱を握る男の隣に、エプロンをしめた若い女が座っていました。その腕の中で小さな子どもが泣き叫んでいます。
「ハンナ! ハンナ!」
と女がフルートの母親を呼びました。
「ハンナ、フルート君から最近連絡はある!? うちのロキが急に――」
言いかけて、女はぽかんとした顔になりました。フルートの両親と一緒にいる人々に気がついたのです。一目で貴族とわかるドレスの女性、エルフのように美しい青年、半白の髪の黒ずくめの男と目を移して叫びます。
「まあ、ゴーリスじゃないの! いつシルに来たの!? それに、あなたは確かフルート君の友だちの……えぇと……」
「ユギルと申します、ロキ殿の母君。お久しぶりでございます」
と青年は答えると、片手を胸に当てて優美にお辞儀をしました。長い銀髪がさらりと肩から流れ落ちます。
女は真っ赤になると、焦りながら言いました。
「そうそう、そんな名前だったよね。あたしたちが住んでいたコネルアの街が仮面の盗賊団に襲われたときに、フルート君や皇太子様と一緒に助けてくれたんだ。盗賊にさらわれたロキも助けてくれたよね。どうしてここに? 皇太子様もまたご一緒なの?」
と皇太子のオリバンを捜して、きょろきょろとあたりを見回します。
ゴーリスがそれに答えました。
「いいや、今回は俺たちだけだ。フルートの両親に俺の家族を紹介しようと思ってな」
「家族? じゃ、こちらはゴーリスの奥さん? まぁぁ、なんて綺麗な人を――」
「おい、アン、そんな話をしている場合じゃないだろう? ロキが」
と女の隣で夫があきれ、女の腕の中ではまた子どもが泣き出しました。火がついたような勢いで泣きわめきます。
若い母親はまた困り顔になりました。
「これなのよ。何かあったわけでもないのに、いきなり泣き出して、全然泣きやまなくなっちゃったの」
その腕の中で子どもは身をよじり、顔を真っ赤にして泣き叫んでいました。茶色い髪をした、二歳くらいの男の子です。泣き声の合間に、ことばのようなものが混じります。
「フルートにいちゃぁぁん――フルートにいちゃぁぁぁん――」
一同は、はっとしました。
「フルートと言ったのか? どういうことだ!?」
とゴーリスが尋ねました。思わず厳しい声になります。
母親は首を振りました。
「本当に、何がどうしたのか全然わからないのよ。この子はなんだか不思議な子でね、一歳半まで一言も話さなかったんだけど、急に話し出したと思ったら、今度は大人みたいなことを言うようになって。こんなふうに大泣きすることなんて、今まで一度もなかったのよ。しかもフルートの名前を呼び続けているし。フルート君に何かあったんじゃないかと心配になって、うちの人に頼んで馬車を出してもらったの」
一同は不安と困惑の表情になりました。フルートの名を呼んで泣き続ける男の子を見つめてしまいます。
すると、ユギルが考えるように言いました。
「幼い子どもはまだ純粋な故に特別な力を持つことがある、と昔からよく言われます。もしかすると、ロキ殿は勇者殿の身に何か起きているのを感じておられるのかもしれません。馬車の中にわたくしの占盤があるので、それで占ってみましょう。ロキ殿を少しの間お貸しください」
青年が両手を伸ばしてきたので、若い母親はとまどいながら息子を渡しました。ユギルに抱かれても、子どもは少しも泣きやみませんでしたが、青年は落ち着き払って言いました。
「大丈夫です。しばらく占いに専念いたしますので、馬車の中はのぞかないようにお願い申し上げます」
と子どもを抱いたまま箱馬車へ向かいます。
「俺も行こう」
とゴーリスはユギルに続いて馬車に乗り込み、扉と窓を全部閉じました。妻のジュリアが他の人々を安心させるように話す声が、外からかすかに聞こえてきます――。
ユギルは子どもを馬車の座席に座らせると、自分はその向かいの席に腰を下ろしました。占盤は足下に置いてありましたが、それには触れず、子どもをのぞき込むようにして話しかけます。
「ロキ殿、わたくしがおわかりですか?」
とたんに、子どもがぴたりと泣きやみました。涙のたまったつぶらな瞳で、青年を見つめ返します。
次の瞬間小さな口から飛び出してきたのは、愛らしい姿には似つかわしくないようなことばでした。
「もちろんわかるさぁ。へへっ、たまには泣いてみるもんだな。まさかユギルさんに出会えるとは思わなかったよ」
小生意気な口調でそう言うと、子どもは、にやりと笑いました――。