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第14巻「竜の棲む国の戦い」

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62.儀式

 「ロウガが話し終わったみたいだな」

 祭壇の近くに立っていたポチが、縄の向こうを見ながら言いました。ハンと打ち合わせを終えた後、祭壇のところまで来ていたのです。張り巡らした縄の内側は神聖な場所なので、ポチ以外には誰も入ることができません。人々が縄の外側に連なって祭壇とポチを眺めている様子は、さながら観客席のようでした。

 ポチの足下には竜子帝が立っていました。ポチだけに聞こえる声で言います。

「あの女はユウライ叔父の愛妾だが、ロウガの幼なじみだと言っていたぞ。ロウガめ、とんだ食わせ者ではないか」

 竜子帝は犬になっているので、遠くでかわされたロウガとトウカの会話も聞こえていたのです。

 ポチは首をかしげました。

「ロウガが本当は敵だったって言いたいんですか? 違いますよ。見ればわかるでしょう? ロウガは彼女の説得に行ったんだけど、向こうは聞き入れなかったんだ。ほら、ロウガがハンのところへ戻っていく」

「だが、いつ朕たちを裏切るかわからないではないか」

 と竜子帝はいっそう不機嫌になりました。儀式への不安が竜子帝の心を乱しているのですが、自分ではそれに気づいていません。

 ポチは、竜子帝にかがみ込みました。

「ロウガはぼくたちの味方です。味方は信じなくちゃだめですよ」

「それもフルートが言っていたのか? 金の石の勇者というのは立派なものだな。いっそ彼が皇帝になれば良いのだ。人民も喜んで歓迎するだろう」

「――!」

 ポチが思わず言い返そうとしたとき、縄を張り巡らした向こうからハンが声をかけてきました。

「竜子帝、準備は整いました。儀式をお始めください」

 ハンの隣にロウガが立っていました。腕組みしてポチと竜子帝を見守っています。

「行きますよ」

 とポチは竜子帝にささやいて立ち上がりました。

 

 ポチが竜子帝と一緒に祭壇の前に立つと、観客席のざわめきが大きくなりました。

「帝が犬を連れて儀式に臨んでいるから、皆があきれている」

 と竜子帝が自嘲するように言います。

 すると、ポチが懐から何かを取り出しました。手のひらほどの大きさのボールのようなものです。竜子帝は目を丸くしました。

「なんだ、それは?」

「豚の膀胱(ぼうこう)に油を入れたものです。ハンに準備してもらったんですよ」

 とポチは言って、同じものをもうひとつ懐から取り出しました。

「油? 何に使うのだ」

「ちょっと演出するんです。ぼくたちから少し目をそらしてもらう必要もあるし」

「演出――?」

 ますます面食らっている竜子帝の前で、ポチは油のボールを思いきり放り投げました。投げた先は、祭壇の右脇で燃えているかがり火です。炎の中で袋が弾けて油が広がり、ぼんっ、と大きな音を立てて炎が燃え上がります。

 人々は、おおっ、と思わず声を上げて驚きました。続けて祭壇の左脇のかがり火も音を立てて燃え上がったので、また驚きます。

 どよめきと激しい炎の音の中で、ポチは言いました。

「呼んでください、竜子帝!」

 小犬はぶるっと身震いをすると、祭壇を見上げました。ためらうように二、三度足踏みして、歯を食いしばり、すぐにまた口を開けます。とたんに、その咽から声がほとばしりました。

「神竜よ!! ユラサイを守る偉大なる神竜よ!! 朕はこの国の皇帝なり! 朕の呼びかけに応えて、地上に姿を現したまえ――!!」

 

 人々は、ぎょっとしました。神竜を呼ぶ儀式を始めた皇帝の声が、普段の声とは似ても似つかない、甲高いものになっていたからです。まるで子どもが叫んでいるようです。

 けれども、竜を呼んでいるのは確かに竜子帝でした。燃えさかる炎に赤々と照らされながら、両手を合わせ、天を振り仰ぎ、大きな口を開けて叫んでいます。その異様なありさまに、人々は恐れの念に襲われました。固唾(かたず)を呑んで儀式を見守ってしまいます。

 竜子帝の叔父のユウライも、顔色を変えて竜子帝を見ていました。隣に座るトウカへ、ささやくように言います。

「人質は――あの娘はすぐ使えるようになっているのだろうな?」

「それはもちろん。ですが、あんなものははったりですわよ、ユウライ様。竜子帝に神竜が呼べるはずなどないのですから、そんなにご心配にならなくても」

 トウカがしなだれかかっても、ユウライの不安顔は変わりませんでした。炎に照らされた竜子帝の後ろ姿を見ながら言い続けます。

「顔だ……。あの小僧、見るたびごとに先帝の面差し(おもざし)に似てきている……。今はもう、亡き兄者の若い頃にそっくりだ。家臣の中にもそう考える連中は増えてきているだろう」

 なんですって、とトウカは思わずつぶやきました。それでは、竜子帝は先帝の本当の子ども、つまり真の皇帝だということになります。

「あの小僧……本当に神竜を呼び出すかもしれん……」

 うわごとのようにつぶやくユウライの声を聞きながら、トウカは急いでユーワンを探しました。人垣の中に黒い術師の姿は見当たりません。ユーワンは人目につかないところに待機していて、合図があればすぐ人質を引き出す段取りになっているので、見つからなくても当然なのですが、トウカは急に不安になってきました。先刻、幼なじみから聞かされた警告が、ふと心をよぎっていきます――。

 

 祭壇の前で、竜子帝とポチは神竜を呼び続けていました。

 いえ、実際に声に出して呼んでいるのは竜子帝一人です。ポチはその声に合わせて口を動かしているだけなのですが、観客席の人々には後ろ姿を見せているうえに、距離もいくらかあるので、それが真似だとは気づかれません。竜子帝の声が空に響きます。

「神竜!! いでよ、神竜!! 朕の声を聞きて、この地上へと疾く(とく)いでよ!!」

 山の上とはいえ七月の夜は蒸し暑く、燃え上がる炎に照らされて、祭壇の周辺は熱気に包まれていました。厚地の服を着込んだポチは全身汗まみれ、犬の竜子帝も舌をだらりとたらして、あえいでいます。見上げる夜空に月や星はなく、黒々とした空間に、かがり火の火の粉が吸い込まれていきます。同じ夜空は竜子帝の声も呑み込んでいきます。どんなに声の限りに呼んでも、神竜は姿を現しません。

 観客席で人々がまたざわめき始めました。竜子帝の奇妙な呼び声にも慣れてきて、竜がなかなか現れないことに焦れ始めたのです。竜子帝は必死で呼び続けていますが、祭壇にはなんの兆候も見られません。人々のざわめきが、次第に不満の声に変わり始めます。

「神竜!! 神竜!! いでよ、神竜!! 朕は――朕はユラサイの皇帝なり! 疾く――いでよ――」

 竜子帝の呼び声がつまずき、大きく震えました。今にも泣き出しそうな響きになります。

 ポチは両手を合わせ、顔中に汗を流しながら、小声で竜子帝を励ましました。

「がんばって……! きっと来ますよ。信じて……!」

 

 ふいに、神竜を呼ぶ声がとだえました。

 皇帝が急に声を出せなくなった、と人々の目には映りました。竜子帝が大きな口を開けたまま驚いた顔になり、すぐに自分の足下へ目を向けます。そこから白い小犬が駆け出します。

「待って!」

 と竜子帝は叫びました。いつもの声に戻っています。犬は立ち止まりません。祭壇の奥に広がる暗がりへと逃げていきます。

「待って! だめだ、待って!」

 走っていく小犬の後を追いかけて、竜子帝も祭壇の前から駆け出しました――。

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