社殿の門から飛び出したルルは、風の犬に変身して空を飛んでいました。
あふれ続ける涙は、風に飛ばされて霧になり、空に紛れてしまいます。いくら泣き続けても止まりません。混乱と哀しみで胸が張り裂けそうです。
「そうよ――そうよ――!」
ルルは空を飛びながら言っていました。
「そうよ、わかっていたわ――! 私が――私が悪いのよ――!」
体はルルより二回りも小さいし、四つも年下のポチでした。どんなにひいき目に見ても、頼もしいとか、頼りがいがあるとか、そんな誉めことばは言えません。でも、その中にある魂は、姿とは裏腹に、ずっと深淵で大人だったのです。
幼い頃から人間に追いたてられてきた小犬は、哀しいことや苦しいことを山ほど経験していました。つらかったことも数えきれません。生きることを諦めてしまいそうな状況さえあったのに、そこからたくましく立ち上がってきたのです。誰にも頼らずに、自分自身の足と力で。
そんなポチの魂に触れるたびに、ルルは、驚き感心してきました。彼は自分よりも大人なのだ、と何度も思ったのですが、ルルはいつもそれを認めたくなくて、つい言ってしまったのです。「ま、生意気ね、ポチ」と――。
どうして、もっと素直に感心してあげなかったのかしら、とルルは泣きながら考えました。ポチはずっとルルと同じ場所にいたのに。そこからルルに向かって、大好きだよ、と言ってくれていたのに。口に出してそう言ってくれたことさえあったのに。
リンメイを愛おしく抱きしめるポチの姿が、いつまでも見えていました。人間の少年に変えられてしまったポチです。十六歳という年齢に、少しも違和感なく見えました。賢くて優しい、背の高い少年です――。
ルルは山間をめちゃくちゃに飛んでいました。眼下を山や森が流れるように過ぎていきます。自分でもどこを飛んでいるのかわかりません。飛びながら、考え続けます。私はずっと、自分に嘘をついてきたんだわ、と。本当は、もうずっと前から知っていたことだったのに。
「ポチ――」
とルルは口に出して呼びました。嗚咽がこみ上げてきて、声がとぎれます。
ポチ、私はあなたがずっと好きだったのよ。
心の中で、初めてそれをことばにします。
とたんに、新しい涙がどっとあふれてきました。
本当は好きだったのに。その優しさが、賢さが、心の強さが全部好きだったのに。
ポチが小さくて幼く見えたばかりに、そんな自分の気持ちに目を閉じたのです。馬鹿げてる、そんなはずないわ、と。
犬の姿の時にも、風の犬に変身したときにも、いつも一緒にいたポチが、いつの間にかルルの隣からいなくなっていました。今も、ポチはここにいません。ポチの腕の中にはリンメイが抱きしめられているのです。痛いほどの淋しさと哀しみがルルを襲います。失ってしまったものはもう戻っては来ないのだ、と何かがルルに宣言します。
ルルは、ふらふらと空から下りていきました。そこは深い山の中でした。木立の間に舞い下りて、犬の姿に戻ります。
苔むした地面を、小さなせせらぎが洗っていました。森の奥から湧き出した水が斜面を流れ下っていきます。カッコウの声が森に響いています。
沈黙より静かな音に包まれて、ルルは涙をこぼし続けました。もうポチの元へは戻れないわ、と考えます。ずっと以前から、ルルの役目はリンメイに取って代わられていたのです。ポチのそばにいるのは、ルルではなく彼女です。ポチも、それを望んでいるのです。それならば、ルルはもうポチのそばにはいられません。
ルルはポポロを思い出しました。今の自分が戻れる、たった一つの場所なのですが、ルルはポポロの名前を声に出して呼ぶこともできませんでした。心でつながっているので、この哀しみまで直接ポポロに伝わってしまうからです。
それでも、ルルに行ける場所は、そこしかありませんでした。ポポロは今、竜仙郷にいます。そこへ行こう、と泣きながら考えます。確か、竜仙郷は南西の方角にあったはずです……。
再び風の犬に変身して舞い上がったルルは、意外なほど近い場所に社殿の山がそびえているのに気がついて、ぎょっとしました。社殿を飛び出して遠くまで来たつもりでいましたが、実際にはあたりをめちゃくちゃに飛んでいただけで、社殿からはそれほど離れていなかったのです。自分を追いかけて誰かが社殿から出てきそうな気がして、あわてて遠ざかり、そんな自分に自分で泣き笑いしてしまいます。
馬鹿みたい。誰も私を追いかけてくるわけはないのに――。
飛んでいく空は暗く淀んでいます。かすかに煙の匂いもします。ユラサイの北西で爆発した山の噴煙が、風に乗ってここまで流れてきているのです。行く手はかすみ、どこに竜仙郷があるのか見当もつきません。当てのない中、南西の方角だけを頼りに空を飛んでいきます。
すると、ルルは眼下の森の切れ間に妙なものを見つけました。岩のむき出しになった崖っぷちに、数頭の飛竜が集まっていたのです。手綱と鞍をつけ、そばには数人の男たちが立っています。
ハンや術師のラクたちだろうか、と一瞬ルルは考え、すぐにそんなはずがないことに気がつきました。彼らは災害を治めるために、王宮のある首都へ飛んでいったのです。こんな場所にいるわけはありません。
谷川から崖に沿って吹き上げてくる風が、飛竜の鳴き声を運んできていました。ギァァァ……と響く声を、男の声が追いかけてきます。
「静かにしろ、聞きつけられる――」
ぴくっとルルは耳を動かしました。聞こえてきた声には、企みごとをする人間に特有の、嫌らしい調子があったのです。さらに、風は別のものも運んできていました。闇の匂いです。
なに? とルルは眼下へ目を凝らしました。崖の人々は、危険な場所で頭を寄せ合って何か話し合っていました。声を潜めているのか、空の上までは聞こえてきませんが、ルルは風の体の毛を逆立てました。嫌な予感がひしひしとしてきます。あそこにいる人々はまともな連中じゃない、と直感します。
すると、また一人の声が風と一緒に昇ってきました。
「――は――った。――を殺す絶好の機会だ――」
ルルは空の中でいきなり向きを変えました。切れ切れの声は、完全には内容を伝えません。けれども、ルルはその中に、竜子帝ということばを聞いた気がしたのです。竜子帝を殺す絶好の機会だ、と。
その時、ルルはやっと本当に正気に返りました。自分は何をしようとしていたんだろう、と考えます。
ポチのそばにいられないから、竜仙郷のポポロのところへ行く? 狙われているポチを社殿に残して? ポチを敵から守ってくれ、とフルートからも頼まれていたのに。何があったって、ポチのそばを離れてはいけないはずだったのに。
ルルはポチと違って人の感情をかぎわけることはできません。それでも、風に乗って吹き上がってくる声には、はっきりした悪意がありました。闇の匂いも続いています。誰かがポチの命を狙っているのです。状況と切れ切れのことばから考えるに、災害のために社殿の守りが手薄になった隙を突いて、襲撃しようとしているのに違いありません。
そんなことさせるものですか、とルルは考えました。何があったって――例えポチがルルではない他の誰かを好きだとしたって――やっぱり、ルルはポチを守るのです。ずっとポポロを守ってきたように、ポチや他の仲間たちを守ることが、ルルの務めなのです。哀しみはまだ続いていましたが、湧き上がってきた強い想いが、涙も哀しさも心の隅へ追いやってしまいます。
ルルは空でまた大きく迂回すると、崖に近い森の中に舞い下り、犬の姿に戻りました。見つからないように注意しながら、そっと崖へ近づいていきます。
男たちはまだ相談を続けていました。飛竜は四頭、男もそれと同じ数だけいますが、その他にもう一人、奇妙な人物がいました。男たちは立って話し合っているのに、その人だけはしゃがみ込み、一人で何かをくちゃくちゃと食べ続けているのです。大きな体は全身毛むくじゃらで、太い首輪をつけ、首輪から延びた鎖の端を男の一人に握られています。
別の男が仲間に言っていました。
「社殿の門には守りの術がかかっているんだろう? どうやって中に入る?」
隠れているルルと男たちの間には二十メートル以上の距離がありますが、犬のルルには話の内容がはっきり聞こえてきます。
「この雪猿を使うさ。これは闇の怪物と掛け合わせた、特別力の強いヤツだからな。術がかかった門でも簡単に打ち破れる」
と鎖を握った男が答えます。人と見えていたのは猿の怪物でした。手に豚一頭を抱えて、頭から丸かじりしています。
「ガンザン様がご自慢の猿を貸してくださったのだから、失敗は許されんぞ」
とまた別の男が言いました。その一言で、襲撃の首謀者が竜子帝の叔父のガンザンだということもわかります。もう一人の叔父のユウライは、降竜の儀を公に開くことで、竜子帝を失墜させようと企んでいますが、ガンザンのほうはもっと直接的に、竜子帝の命を奪って皇帝の座を我がものにしようとしているのです。男たちは皆、腰に大きな刀を下げています。
「そうはさせるもんですか」
とルルはうなりました。刺客たちをにらみつけながら身構えます。すると、風の音が湧き起こって、ルルの体がふくれあがりました。森の木々が激しくざわめきます。
とたんに、雪猿が顔を上げました。ルルがいる森を見て、ギャーッと鋭い声を上げます。
「なんだ……!?」
驚く男の手から鎖をもぎ取って、雪猿が駆け出しました。その体もみるみるふくれあがって大きくなっていきます。森の外れにたどり着いたとき、猿は身の丈五メートルもある大猿に変わっていました。ざわめきしなる森に向かって、歯をむき出して鳴きわめきます。
その森の中からルルは飛び出していきました。竜のような体をひらめかせ、風の音を響かせて突進していきます。
「ポチに手出しはさせない! 絶対にさせるもんですか!!」
風の中に叫んで、ルルは雪猿へ襲いかかっていきました――。