泣いて逃げ出したリンメイを追って、ポチは社殿の中庭を走っていきました。激しい泣き声が聞こえてくるので、見失うことはありません。じきに追いついて、捕まえます。
「放して!」
とリンメイは叫び、ポチの手を振り切ろうとしました。
「放して――! 私はここにいてはいけなかったのよ! 私がいたばっかりに、国に神竜の怒りを招いてしまって! 父上に言われていたのに、私は――!」
「違う、そうじゃない!」
とポチは必死で言いました。
「君のせいなんかじゃない! これは仕組まれた災害なんだよ! あまりに間が良すぎるからね! きっと、あの黒い術師が術で噴火や大雨を引き起こしているんだ!」
けれども、リンメイは泣き続けていて、耳を貸そうとはしませんでした。
「私がいけなかったのよ! キョンを守ろうだなんて――! 私がそばにいたばっかりに! だけど――」
むやみに頭を振り、また泣きじゃくります。興奮があまりひどいので、ポチは彼女の両手を強く握りしめました。言い聞かせるように話します。
「そんなことはない。君がいてくれて良かったんだよ。君のおかげでぼくは――」
すると、ふいにリンメイがまた顔を上げました。流れ続ける涙で頬を洗いながら、ポチに向かって言います。
「キョン、私はあなたのそばから離れたくなかったのよ――。だって――だって――私は、あなたが好きだったんですもの! 小さい頃から一緒に育ってきて、いつの間にか、あなたを愛してしまっていたのだもの――!」
少女は泣いていても強い目をしていました。まなざしで想いを訴えてきます。
ポチは黙ってそれを見つめ、やがて微笑を返しました。リンメイの手を放し、腕を伸ばしてそっと抱き寄せます。
リンメイは息を詰め、堰を切ったようにまた泣き出しました。泣きじゃくる少女を、ポチは優しく抱き続けます。
礼拝堂から二人の後を追いかけてきたルルは、立ちすくんでつぶやきました。
「そうなの、ポチ……?」
姿は人間でも中身は犬。どんなにリンメイが優しくてかわいらしくても、ポチが彼女を好きになることなんかあるわけない、と自分に言い聞かせてきたルルでした。リンメイは竜子帝のつもりでポチに接しているのだもの、ポチだって内心は迷惑に思っているのに違いないわ、と。
けれども、ポチは優しい顔でリンメイを抱いていました。髪を二つに分けて結った頭を、愛おしむように撫でています。
やめて! とルルは心で叫びました。そんなわけないでしょう? そんなはずないでしょう――!? だって、あなたは――あなたが本当に好きなのは――
心の中の声は誰にも聞かれることがないのに、何故だかその先を続けることができませんでした。心臓が締めつけられるように痛みます。
すると、以前、小犬だった頃にポチが言ったことばが、唐突に浮かんできました。
「天空の国にいるもの言う犬は、きっと、とても人間に近いんですね。だから、ルルは犬じゃなくて人間が好きになっちゃうんだ……。ぼくは半分普通の犬だし、ルルより四つも年下だし。ルルがぼくをそういうふうに好きになってくれないのは、しょうがないことなんですよね……」
それって、天空の国の犬だけの話? とルルの内側で誰かが言っていました。ポチだって、れっきとしたもの言う犬なのだもの。やっぱり人間を好きになったって、不思議じゃないわよね。
ルルの記憶の中で、小犬のポチは話し続けます。
「ワン、恋人とかにはなれなくたって、ずっと友だちではいられますよね? だって、ルルとぼくは同じもの言う犬だから。仲間同士なのは、ずっと変わらないですよね?」
その声は妙に明るくて空っぽでした。元気に尻尾を振ってみせる小犬の姿が、何故だか痛々しく見えました。
そして、その日からポチはルルの後を追いかけなくなったのです――。
息が止まりそうな想いで、ルルは抱き合う二人を見つめていました。
背の高い少年と、泣きじゃくるかわいらしい少女。少女が少年の胸で言います。
「キョン、私はあなたが好き……あなたを愛しているわ……」
ポチがそれに答えます。
「うん、わかっていたよ……。ありがとう、リンメイ」
静かに言って、いっそう優しく少女を抱きしめます。
そのとたん、ルルは駆け出しました。その場から逃げ出したのです。もうこれ以上、二人の姿を見続けることはできませんでした。涙があふれて止まらなくなります。
何か、とんでもない間違いを自分はしでかしてしまったのだという気がしました。本当にしなくてはならないことは、別にあったのに。言わなければならないことがあったはずなのに。自分はずっと、それをせずに来たのです。もう手遅れだよ、とリンメイを抱いたポチに言われた気がします。
すると、ルルの目の前を数頭の生き物が疾走していきました。翼が生えた前足のない竜――飛竜です。手綱と鞍をつけた体に、ハンやラク、宮廷の術師たちを乗せ、社殿の前庭を駆けていきます。その行く手には社殿の正門がありました。
門を守る番兵へハンがどなりました。
「天災を治めるために我々は宮廷へ戻る! 開門せよ!」
門番たちは大あわてで門を開けました。外へ向かって開いた空間へ、飛竜たちは走り続け、翼を広げて羽ばたきます。昼間だというのに、空は暗い雲におおわれて、まるで黄昏時のようでした。その中へ飛竜たちが飛びたっていきます。
宮廷の重臣たちを見送ってから、門番たちは正門を閉めました。先ほどからあわただしい知らせが続いています。誰もが不安な顔をしていました。
すると、一人の番兵が、あっ、と声を上げました。閉まりかけた門の隙間から、一匹の犬が外へ飛び出していったのです。それは竜子帝の愛犬でした。
門番たちはあわててまた門を開け、後を追って外へ出ました。竜子帝はその犬をとてもかわいがっていて、どこへ行くにも一緒に連れ歩いていたのです。早く捕まえなくては、竜子帝からどんな叱責を受けるかわかりません。
ところが、犬はどこにも見当たりませんでした。門の周囲にも、見通しの良い森の中にも姿はありません。ほんの一瞬の間に、消えてしまったのです。
ただ、風が木々をざわめかせていました。風は何故か地上から空へ向かって吹いていましたが、森の中で犬を探し回る門番たちは、その不思議に気がつきませんでした。風は吹きすぎ、やがて、木の葉のざわめきが消えていきます――。
泣きじゃくっていたリンメイは、次第に落ちつきを取り戻していきました。泣き声が小さくなって、やがて、とうとう泣きやみます。
ずっと彼女を抱いていたポチが、そっと話しかけました。
「もう話しても大丈夫かな? ……君に言わなくちゃいけないことがあったんだ」
リンメイはポチの胸に顔を埋めていました。なに? とくぐもった声で尋ねます。
ポチは優しい声で言い続けました。
「君に、謝らなくちゃいけないんだよ。ごめんね、リンメイ」
すると、リンメイは両手でポチを押し返しました。その腕の中から自分の体を離し、泣きはらした顔で笑って見せます。
「言わなくてもわかっているわ、キョン。私のほうこそ、ごめんなさい。変なことを言ってしまったわ。あなたを愛してるだなんて――そんなことを言われたって、あなたはもう皇帝なんですもの。困るばかりよね……」
少女の声がまた震えました。泣き出しそうになって、うつむいてしまいます。
すると、少年は、ううん、と言いました。
「そうじゃないよ。ただ――君のそのことばは、別の人に言ってあげなくちゃいけないんだ」
「私に他の男の人へ嫁げって言うの、キョン?」
とリンメイは言って、皮肉っぽく笑いました。相変わらずうつむいたままです。
ポチは優しくほほえみました。
「違う。君は、君のキョンに、そのことばを言ってあげなくちゃいけない、って言っているんだよ」
え? とリンメイは涙ぐんだ目を上げました。言われている意味がわかりません。
すると、少年は笑顔のまま後ろを振り返って呼びました。
「ルル」
雌犬はそこにはいません。
ポチは顔色を変えました。あわててあたりを見回しますが、ルルの姿はどこにもありません。
「ルル? ルル――ルル!?」
ポチはあたりへ呼び続けましたが、もちろん、返事はどこからも聞こえてきませんでした……。